ギブミー

「ん」
「え、っと……?」

今日は珍しくテニス部の活動がお休みということで一緒に帰ることになった雅治先輩と私はいつもの帰り道を並んで歩いていた。他愛もない話をしながら歩いていると、雅治先輩が急に立ち止まる。どうかしたのかと私も歩みを止めたところで、雅治先輩の右手が私へと向けられる。けれど、その手にどう反応したらいいかわからなくて、私は僅かに首を傾げるだけになってしまう。
えーっと、この右手はどうしたらいいんだろう……?
とりあえずどうしようか迷って何故そうしたのかはわからないが、雅治先輩の手に自分の左手を重ねる。

「……この手はなんじゃ?」
「えっと、」

なんだと訊かれたところで私にもわからない。どうしたらいいかわからず、とりあえず乗せただけなのだから。

「まぁ、ええかの」
「え……、あっ」

重ねた手を握られたかと思えば、雅治先輩は握った手ごとぐっと自分の方へ引き寄せる。突然のことに踏ん張りが利かなくて体がぽすんと雅治先輩の腕の中に収まってしまう。甘くて、優しい香りが鼻を擽る。

「のう、静?」

わざと耳元で囁かれる言葉は私の胸の内をぎゅっと締め付ける。ああ、雅治先輩意地悪しようとしてる、というのが分かってしまって困ったように眉を下げるも、体は既に雅治先輩の腕の中。逃げることなど叶わないし、きっと雅治先輩には私が困った顔をしているのなんて見えていないのだからどうしようもできない。

「今日、何日かわかっとるかの?」
「二月、十四日です」
「そうじゃの。二月十四日じゃ」

私の答えを繰り返して、雅治先輩は楽しそうに笑う。何が楽しいのか私にはわからなくて眉は下がるばかり。二月十四日。バレンタインデー。クラス内でも友チョコの交換をしたし、なんでかわからないけど丸井先輩がクラスにやってきてチョコを強請ってきたりもした。そんなことしなくてもテニス部の皆さんの分は後で幸村先輩に纏めてお渡ししますよ、なんてやり取りもしたわけだけど。
……あ、ちょっと待って。もしかしてさっきの手って――、

「雅治先輩、怒ってますか?」
「いや? 怒っとらんぜよ」

まあでもちょっと、もやっとはしとる。
その言葉で確信に変わる。と、同時に自分の考えなしの行動への恥ずかしさと雅治先輩への申し訳なさとで頭が軽くパニックを起こす。
できることなら数分前に戻りたい……!
そんなこと出来ないのは知っている。けれどそうでも思わなければこの思いが爆発してしまいそうだった。雅治先輩が私に向けて差し出した右手。それはチョコレートを強請る手だった。今更分かったって後の祭り。だけど、今からでも挽回できるのであれば、したい。雅治先輩の思いを蔑ろにしたかったわけじゃないのだから。

「ま、雅治先輩……! あの、」

もぞもぞと腕の中で顔を上げると、悲しそうで、苦しそうで、切なげで。いや、全部まぜこぜなのかもしれない。いつもひょうひょうとしていて本心を見せない雅治先輩が見せるそんな表情は見ている私も同じ感情を呼び起こさせるのは十分で。

「……ごめん、なさい」
「なんで静が謝るんじゃ?」
「だって、私のせいで雅治先輩にそんな顔――、」

表情の話をしたからか、雅治先輩は一度目を伏せてから一つ息を吐き出すと口元を上げ、いつもの雅治先輩の表情に変わる。

「どんな顔じゃって?」
「あ、いえ……」

これ以上は言わない方がいいのかもしれない。雅治先輩だってきっとそれは望んではいない。じゃあこの話題はこれでおしまい。それなら本題に入ろう。

「雅治先輩。お渡ししたいものがあるのでちょっと放してもらえませんか?」
「ん」

短い返事の後、雅治先輩は私の体を解放してくれる。本当は恥ずかしかったから分かれ道になったら渡そうと思っていたけれど、あんな表情を見てしまった後だからそんなことも言っていられない。鞄の中からそれを取り出して、雅治先輩へ両手で差し出す。

「あの、テニス部の皆さんの分と一緒にお渡しすることはできなかったので、その……どうぞ」
「これは何かのう?」

にっこりと、悪戯っ子のような笑みを浮かべて雅治先輩は問うてくる。絶対分かっているのに。あくまでも私にこれが何なのか言わせたいらしい。けれど今日ばかりは全面的に私の負けなので恥ずかしさを押し込めて自分の中にある言葉を音に乗せる。

「バレンタインの、チョコレートです」
「ほほう?」
「な、何でしょうか?」
「いや? さっきはくれんかったからてっきりくれんもんかとばかり思っとったぜよ」
「そんなわけないじゃないですか!」

反論に力が入りすぎてしまって、雅治先輩の目が僅かに開く。

「そ、その……テニス部の皆さんにはまとめてお渡ししましたけど、雅治先輩にはちゃんと渡したくて……でも私本命のチョコなんて渡すの初めてで、どう言って渡したらいいのかとかいつがいいのかとかわからなくて……。それに恥ずかしかったのでいつもの分かれ道で渡して、」

そのまま帰ろうかと思っていて、と最後まで言うことができない。何せ、雅治先輩の顔が今まで見たことがないくらい赤くなっていたから。慌てて手を伸ばすと、その手は取られ指を絡ませられる。

「……ありがとう。大事に食べさせてもらうぜよ」

少しだけ近づいた距離。さっきほどではないけれど、やっぱり近くて。ドキドキ、とうるさく鳴り続けるこの心臓の音がどうか聞こえませんように、と願いながら「はい」と小さく頷いた。

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ハッピーバレンタイン!