ミッション:ポッシブル

「今日バレンタインデーやな」

昼休み。弁当を持ってケンヤの前の席に座り、そういえばという体を装って話題を振る。ここのところずっと気にかけていたようだし、ケンヤのことだからきっと乗ってくるだろうと思っていたのに――、

「せやな……」

当のケンヤはこれでもかというほど気分が落ち切っている。なんでやねん! とツッコミたいところをぐっと抑えて、何故そんな状態になってしまっているのか尋ねてみる。

「静ちゃん、ほかに好きな奴ができてしもうたのかもしれんくて……」
「は?」

いや……は? ケンヤ、自分が何言うてるかわかっとるんか? あの広瀬さんがケンヤ以外を好きになる? ありえへんやろ。
口を突いて出そうになったそれをまたしてもぐっと抑えて、けれどフォローを入れなければずぶずぶと際限なく落ちていきそうな危うい状態は見過ごすことができなくて。どう言おうか考え、考え、結局良い言葉が思い浮かばなくて、とりあえずどうしてそんな考えに至ったのかその原因から探ることにした。原因が分かれば自ずとフォローもできるだろう、と思ってのことだった。

「なんでそないなこと思うん?」

俺の問いに、ケンヤは少しだけ気まずそうに目を伏せて、それから一度深呼吸をした後言葉を探る。

「昨日、久しぶりに電話したんやけど、なんや知らんけど静ちゃんめっちゃ挙動不審で……」
「挙動不審?」
「近々会えるの楽しみにしてるでって言うたら、なんや静ちゃんめっちゃ焦ってな……。もしかしたら俺に会いたくないんかもしれんって思うて……それで……」

あー、そういうことか。いや、それはタイミングが悪かったとしか言えない。
先月頭から東京にいるケンヤの従兄弟であり氷帝学園に通う忍足くんと、そして当事者である広瀬さんとで秘密裏に進めていた、バレンタインデー当日に広瀬さんを大阪に呼んで直接ケンヤにチョコを渡してもらおう計画。
当然、ケンヤにはサプライズの意味もあったから秘密にしていたし、忍足くんも広瀬さんも今日までなるべく普通に過ごしてもらっていた。特に広瀬さんは秘密ごととか苦手そうだったし、嘘をつくのも苦手そうだったから、できる限りケンヤとはバレンタインデーの話題をしないでほしいとさえ頼んでいた。下準備やら周りへの説明やらを終え、そしてようやく今日という日を迎えたというのに、まさかケンヤが昨日電話をするなんて計算外だ。いつもはメッセージアプリでやり取りをしていると言っていたから油断していたというのもある。
広瀬さんは今日の授業が終わり次第――まさかこんな形で跡部くんが協力してくれるとは思わなかったけれど、跡部くんの自家用ヘリでこっちに来てもらう算段になっている。忍足くん曰く、広瀬さんは跡部くんの所謂お気に入りらしい。学園祭での仕事ぶりが評価されて時々跡部くんの手伝いをしていると言っていたし、広瀬さんはあの性格だ。仕事ぶりもそうだが、人としてもかなりの評価を得ているはず。それならば、跡部くんが自家用ヘリを飛ばすのも吝かではないのだろう。自家用ヘリってなんやねんって話ではあるけれど。
そういえば跡部くん、ヘリどこに着陸させるつもりなんやろ。そこらへんはプロに任せた方がいいと思って何も口を出さなかったけれど……。まあ、跡部くんのことだから任せっぱなしでも大丈夫だろう。
待ち合わせ場所は勿論ケンヤの家の前だ。バレンタインデーなのだから雰囲気のあるところがいいんじゃないかという話にもなったが、如何せんクリスマスと並ぶくらいの一大行事だ。街は人で溢れているだろうし、広瀬さんだって人ごみの中渡すよりも落ち着ける場所の方がいいだろう。その点で言えばケンヤの家がある付近は住宅街だ。余程のことがない限り大騒ぎになることもないし人も集まらない。そして彼氏の家の前で彼女が待っている――これ以上のサプライズはないだろうという俺と忍足くんの共通認識でケンヤの家の前での待ち合わせということに決まったのだ。
とにもかくにも、ケンヤには秘密裏に進めていた計画だ。だから広瀬さんもケンヤから近々会えるなんて聞いてとても驚いたのだろうと思う。おそらくケンヤからしてみれば春休みになったら会いに行くよという意味だったのだろうけれど、広瀬さんはサプライズ相手にサプライズがバレていると思ったのだろう。それは挙動不審にもなる。嘘がつけない、広瀬さんらしい反応だ。

「広瀬さんが会いたない言うたんか?」
「それは……言うてへんけど」
「なら大丈夫やろ」
「せやろか……」

なんとかフォローしようとしたものの、あまりケンヤの気分は上がらない。なんとか放課後までに――広瀬さんがこっちに着くまでにいつもの調子に戻しておかないと広瀬さんが悲しい思いをしてしまいかねない。それはなんとしても回避したいところだ。なにせこの計画を立案した当初から、広瀬さんはケンヤに会えることをとても楽しみにしていたのだから。忍足くんとの情報共有の中で彼女はケンヤのために菓子作りの上級者向けレシピ本を購入して研究までしていた、ともある。広瀬静という女の子が今日この日をどれだけ待っていたか、言えるのであれば言ってしまいたかった。
ケンヤ、自分めっちゃ広瀬さんから好かれてんで。
言葉にできないそれをどうにか飲み込んで、未だに手付かずのままの弁当の包みを広げ昼食を始める。ケンヤも俺に倣い弁当箱を取り出すものの、やっぱりというべきか動きにキレがない。その姿は浪速のスピードスターの面影なんてどこにもなくて。

「俺、なんや嫌われるようなことしてもうたんかな……」

悲痛極まりない表情に、今すぐにでも跡部くんにヘリを飛ばしてもらいたかった。けれど、広瀬さんにだって都合はあるしこちらの事情だけでそれをどうにかしてもらうのは申し訳ない。ただでさえヘリで大阪に来てもらうのだ。普段乗り慣れない乗り物というのは疲れるだろうし、広瀬さんのことだからきっと跡部くんに申し訳ないとも思うかもしれない。肉体的にも精神的にも疲れることを承知でそれでもこっちに来てもらうのだ。これ以上の無理は聞き届けてなんてもらえない。
だから、ここは俺がなんとかするしかない。

「ケンヤが思う広瀬さんは、ケンヤに黙ってほかの男を好きになるような女の子なん?」
「そんなわけないやろ!」
「ん。やったら、心配することあらへんやろ。信じときや」

な! と言いながら弁当箱に詰められていた唐揚げをケンヤの弁当箱に渡す。

「せやな」

まだ完全に納得はしていないようではあるけれど、俺が渡した唐揚げを食べてケンヤは少しだけ表情を明るくする。

「なんやこれめっちゃ美味いやん」
「せやろ? 向日くんのオカンに教えてもろうたんや」
「なんで向日?」
「忍足くん経由で向日くんとも仲良ぉなってな。で、この間東京行ったときにちょっとあってな」
「そのちょっとが大事なんとちゃう?」
「話すと長くなるからな、それはまた今度話したる」
「おん」

昼休みが終わるまであと十分。やばいやん! なんて言いながら俺とケンヤは弁当を搔っ込んだのであった。

午後の授業も滞りなく終わり、部活も引退しているから顔を出す程度に留め、帰路につくかと思いきや思いもよらない出来事というのはこちらの予期せぬタイミングでやってくるもので。
今日に限ってケンヤが教室に忘れ物をし、取りに戻ったところで担任に呼び止められ雑用を押し付けられた。それが終わって今度こそ、と思えばまた別の先生に違う雑用を押し付けられ、なんやかんや抜け出してようやく帰ろうかと校門を出たところで目の前を重い荷物を背負った老人が歩いていき――当然そんな状況を見過ごせるわけもなく。その人の家まで荷物を持ってあげればお茶の一杯でも飲んでいけと半ば強制的に上がらされ、時計を見れば既に時刻は十九時を回ろうかというところだった。
一気に顔面から血の気が引いていく。
アカンこれ以上はマジでやばい……!
夕飯を食っていけ、と引き留める老人の誘いをなるべく穏便に断り、焦っていることをおくびにも出さず、老人の家を後にする。玄関の戸を閉め、大きく一歩を踏み出す。走るのはさすがに怪しまれそうだからいつもよりも気持ち早めの早歩きだ。ちららりと横を見ればケンヤもちゃんと俺に付いて来てくれている。

「ケンヤ、お願いがあるんやけど」
「おん?」
「今日、ケンヤの家で夕飯食べてってエエか?」
「それは別にエエと思うけど、え、どないしたん?」
「ひ、久しぶりにケンヤのオカンのご飯が食べたなってな!」
「白石、うちのオカンの料理食べたことあったか?」

うーん? と首を傾げるケンヤだったけれど、最終的に了承してくれる。
流石に計画しておいて、じゃああとはお二人さんで、なんてことはできるわけがない。多少苦しい理由付けではあったと思うけれど、とりあえずこれで俺がケンヤの家に行くことの大義名分はできた。それならもうあとはケンヤの家に急ぐしかない。
東京から大阪までヘリを飛ばしていったいどのくらい時間がかかるかわからないが、この時間だ。おそらく広瀬さんはもうケンヤの家の前に着いてしまっている。こんな季節だからコートの類は着てきているだろうが、それにしたって寒空の下、女の子を待たせているという状況は俺の足を速めるに十分で。

「なんや白石、そない腹減っとるんか?」
「ああ、せやな!」

ケンヤからしてみればよくわからない状況だろう。けれど俺が急に走り出したことにも瞬時に反応し、持ち前の脚でちゃんとついてくる。老人の家からケンヤの家までは走っておよそ十分。
すまん……! ホンマすまん広瀬さん!
心の内で謝りながら全力で駆ける。部活を引退したとはいえ、まだこんなに走れることに多少の驚きはあったけれど今はそんなことどうでもいい。一分でも、一秒でも早く。早く。早く。あとはあの角を曲がるだけ。そうすればケンヤの家はもう目と鼻の先。最短コースを位置取り、角を曲がり切って顔を上げ――

「あれ!?」

自分でも素っ頓狂な声が出たことは自覚している。だけど、これは……いったいどうなっているんだ? 自分が今見ている景色に頭がついていかない。予想外な景色に驚きすぎて声が出ない。そしてケンヤもケンヤで俺が角を曲がったところでいきなり足を止めたものだから、驚いて急停止する。

「え、どないしたん? 白石。急に止まったらびっくりするやろ」

ケンヤの疑問も右から左へ流れてしまう。けれどそれも今ばかりは許してほしい。
てっきり広瀬さんが待っているかと思ったのに、ケンヤの家の前には人っ子一人見当たらない。さすがは住宅街。夕飯時は誰も外出てへんな、なんて頭のどこかでそんなことを考えながらも最悪の事態を想像してしまう。
俺、やってもうた……? あんまりにも遅いから広瀬さん帰ってもうたんじゃ……。
いや、広瀬さんに限ってそれはない。あんなにもケンヤに会いたがっていた彼女がケンヤに会わず帰るなんてありえない。そしたらあとは忍足くんか跡部くんあたりが業を煮やしたか、それとも――まさか……?
背中に冷たい汗が流れる。嫌な想像はどんどん膨れ上がっていく。堪えきれなくなって僅かに眉をしかませたその時だった。

「白石、車通るで」

ケンヤが言うと同時に俺の体を引き寄せる。いきなりのことに反応できず、バランスを崩しそうになって、俺の目は確かにそれを見る。
住宅街に似つかわしくない長くて黒い車体。それは所謂――ハイヤーというもので。その車は数メートル行ったところで停車する。あの場所は、間違いようがない。ケンヤの家の前だ。そしてややあって運転手さんが車から降り、後ろのドアを開ける。お気を付けください、と言われ車内から出てきたのはほかの誰でもない――、

「静、ちゃん?」

ケンヤの小さくて掠れた声が聞こえる。顔は――まあ、見なくてもわかる。絶対笑ってる。泣きそうになりながら、笑っているに違いない。――と、一陣の風。確かに今の今まで隣に居たはずの金色の風は恋しい可憐な花の元へ駆けていく。

「こんばんは、謙也さっ、」

広瀬さんが挨拶を終わらせるよりも前に、ケンヤの腕が彼女の体をその中へ収めていた。あまりの劇的な展開に広瀬さんは顔を真っ赤にしている。
俺も縫いとめていた足を動かし、ハイヤーのところまで足早に駆ける。ちょうど俺が着いたタイミングで降りてきた忍足くんがそれはもうめちゃくちゃいい笑顔で、微笑ましく二人を見ているものだからうっかり聞きそびれてしまうところだった。

「忍足くん、これ……」
「ああ、ちょっと出がけにトラブルがあってな。ついさっきヘリ降りてハイヤー飛ばしてもろうたんや」

ハイヤーを飛ばす。
スルーしそうになったけれど、普通にそれ日常会話では使わへんからな? 氷帝学園に通う生徒は誰も彼も跡部くんみたいな御曹司なん?
ツッコミたいことは山ほどあったけれど、それも次にハイヤーから降りてきた人物で納得してしまう。

「白石、待たせて悪かったな」
「跡部くん」

てっきり忍足くんと広瀬さんだけ飛ばしてくるのかと、と考えたところで自家用ヘリを飛ばすのに、その飛ばす本人が同乗しないわけがなかったというところに思い至る。ハイヤーもきっと跡部くんが手配したものだろうし、今回跡部くんには世話になりっぱなしだ。

「跡部くん、おおきに。今度何か力になれることがあったら言うてや。全力で手伝わせてもらうわ」
「別に大したことをしたつもりはねえよ。折角のバレンタインデーなんだ。広瀬だって直接忍足従弟に渡したいだろ」
「跡部くん、めっちゃ格好エエやん」
「さすが跡部やな。あ、せや。今日この後なんやけど」

自然と会話に入ってきた忍足くんはさりげなくケンヤと広瀬さんから距離を取るように跡部くんを連れ出す。こういう細かいところに気を遣える忍足くんも相当できる男だと思うのだけど、流石に二人の間に割って入ってまで口にするのはやめておく。
さて、と一つ息を吐き出して、いつまでも広瀬さんを抱きしめたままのケンヤに声をかける。

「ケンヤ、そろそろ広瀬さんのこと放しや」
「え? あ、すまん! 大丈夫か、静ちゃん!」
「は……、はい。大丈夫です」

傍から見れば全然大丈夫そうではないけれど、せっかくの二人の雰囲気に水を差してしまうのはよろしくないと口を噤む。まあ、広瀬さんも本当にダメならダメだと言うだろう。それならば今は彼女の言葉を信じよう。

「ちゅーか、なんで静ちゃんここに居るん?」
「あ、はい! 謙也さん、バレンタインデーのチョコを渡しに来ました」

そう言って、広瀬さんは鞄の中から黄色と黄緑のリボンで丁寧にラッピングされた小さな箱をケンヤに差し出す。その箱と広瀬さんを交互に見て、ケンヤは一瞬間の抜けた表情を作る。

「え? 俺に?」
「はい」
「ホンマに? 白石に渡しといてとかってオチやない?」
「白石さんにも後でお渡ししますけど、これは正真正銘謙也さんにあげるものです。義理チョコでも、友チョコでもないです。お世話になったからでもなくて、ちゃんと本命です」

どうぞ、と満面の笑顔と一緒に渡されれば、ケンヤだって受け取らざるを得ない。それに先制攻撃とばかりに広瀬さんから本命だと言われてしまえば、ケンヤだって落ち込んでなんていられない。数時間前の陰気な雰囲気などどこかへ行ってしまったかのように、燦燦と輝く太陽のような笑みで広瀬さんのことをまっすぐ見つめる。

「おおきに! ホンマおおきに! 大事に食べるな!」
「はい」
「あれ? でもじゃあなんで昨日電話した時言うてくれへんかったん?」
「それは、その……謙也さんのことを驚かせたくて」
「そこらへんは俺から説明したる。ちゅうか、いつまでも広瀬さん寒空に置いとかんと」

流石にこの寒い中での立ち話は俺らはよくても広瀬さんにはいくら何でも厳しすぎる。話の続きをするならばハイヤーかケンヤの家の中に入ってからだ。

「せやな! ちょっと待っとって! オカンただいま! 静ちゃんが来てくれたんやけど!」

忙しなく、ドタバタと音が聞こえてきそうな勢いで自宅へ入っていくケンヤの背中を見ながら、俺と広瀬さんは顔を合わせて笑う。

「よかったなぁ、広瀬さん」
「はい。これも白石さんと忍足先輩、跡部先輩のお力添えのおかげです」
「俺らはちょっと手伝っただけやし……いや、跡部くんはちょっとどころやないけど」
「ふふ、そうですね。東京に帰ったらいっぱい跡部先輩のお手伝いしないとですね」
「俺にもできることあれば言うてな。今回、跡部くん自身は大したことしてない言うてたけど、自家用ヘリ飛ばしてハイヤーまで出してくれたんや。めっちゃ大したことやろ」
「そうですね……。跡部先輩はこちらとは違う価値観で生きてらっしゃいますからね」
「せやな」

二人して苦笑いしたところでケンヤがドアを開けて手招きをしているのが見える。

「静ちゃんと白石! あと侑士と跡部くん! よかったら上がってってや!」
「ほんならお言葉に甘えよか」
「はい」
「謙也、俺熱いお茶がエエわ。跡部は?」
「忍足、お前いくら従弟だからって少しは遠慮したらどうだ?」
「謙也に遠慮とかサブイボ出るわ」
「それは俺のセリフやねん!」

静かな住宅街がほんの少しだけ賑やかになり、そのパーティーのような明るく楽しい空気を閉じ込めるかのように、ドアがゆっくりと閉じていった。

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ハッピーバレンタイン!