「お前何しとんねん」

今日は所謂仕事納めと言われる日であった。と言っても、静の入社した会社は小売業が主な業務内容であるために、年内は三十一日まで、年明けは二日から仕事始めという、年末年始なんてあってないようなスケジュールが組まれている。その代わり、年末は二十九、三十、三十一の三日間、年始は二日、三日の二日間出勤すれば特別手当が出る。年末年始の超繁忙期、猫の手も借りたい目が回るくらいの忙しさなのだから、それは当然である。なにせ年末年始の五日間でひと月分の売り上げをたたき出すのだ。社員はもちろんのこと、パートタイマーやアルバイトも総動員で駆り出される。けれどそんな忙しさも半分を超えたことに、静は閉店作業をしながら安堵のため息を吐き出した。あと二日頑張れば、ひとまずの波は超えられるのだから。
粗方掃除を終え、帰り支度を整えていると、背中に見知った声がかかる。同期入社の男だった。

「広瀬、今日の忘年会とお疲れ様会を兼ねた飲み会行くだろ?」
「え? あ、うん。一応少しだけ参加しますとは言ったけど……」
「それじゃ一緒に行こうぜ。場所わかんないだろ?」

事前に飲み会を催す居酒屋の情報を貰っていたとはいえ、確かに正確な場所まではわからない。誰かと一緒に行けばいいか、と考えていた静にはこの提案はまさに渡りに船とも言うべきものだった。

「ありがとう」
「そうと決まればさっさと片しちまおうぜ」
「うん」

同期の男も手伝い、残っていた片付けを終えると二人は揃ってロッカールームへと向かう。
制服から私服に着替え、静がロッカールームを出たところで既に着替え終えて待っていた同期の男がにこりと笑む。

「よし、じゃあ行くか」
「うん」

気持ち、いつもよりも距離が近いような気がするが、気のせいかもしれないと静は考えない様にする。従業員出入口で守衛に挨拶をして二人は目的地へ歩み始める。
職場から件の居酒屋までは歩いて十分ほどのところにあるビルの三階だ。けれど、それらしい看板は歩道に一つ出ているだけでちゃんと見ていなければ見逃してしまうレベルの分かりにくさだった。事実、同期の男がスマートフォンで地図を開いていたにも関わらず、その看板を見逃してしまったために一度通り過ぎてしまったほどだ。
漸く居酒屋に辿り着き、挨拶もそこそこに席に着くよう促され駆けつけ一杯とばかりにグラスにビールが注がれる。
アルコールにかなりの耐性がある静ではあるが、普段は嗜む程度で済ませているしビールは正直なところ苦手な部類に入る。しかし、静の性格上、注がれ渡されてしまったグラスを無碍に突き返すことはできない。結果、差し出されたグラスを受け取るしかなくなってしまう。
いただきます、と小さく零し静は一口グラスに口をつける。口の中に広がるビール特有の香りと苦み。苦手であることを顔に出さないよう必死に努め、なんとかグラスを空にする。僅かに眉間に皺を寄せるも、本当に僅かであるがために誰も静のその変化に気付かない。静自身もそれを知られることをよしとはしない。
自分よりも他人に重きを置く。
静のその性分は学生の頃から変わっていない。半ば強制的であるとはいえ、他人からの施しや好意を無碍にはできないのだ。

「おっ! 広瀬いい飲みっぷりだな! 次何いく?」

直属の上司のあっけらかんとした物言いに、静はえっと……、とこぼす。場の雰囲気を汲むのであればアルコール類を注文すべきなのかもしれない、が。すきっ腹にビールを流し込んでしまったため、今は何に替えても水が欲しい。そしてできるならつまみでも何でもいいから何か食べたい、というのが本音だった。
しかしここで正直に水が欲しいと言っても、アルコールの入った人間にそれはほぼ聞き入れてもらえないであろうというのは今まで何度か飲み会というものを経験してきた静は知っていた。じゃあどうしたらいいか。その解決策も静は知っていた。

「それじゃあ、ウーロン茶と生キウイサワーをお願いします」
「お! いいねぇ。生の果物使ったサワー美味いよな。すんませーん追加お願いします!」

上司の陽気な声に、静の背中にはどっと疲労がのしかかる。
上司は決して悪い人間ではない、のだが。良くも悪くもフランクすぎるがために、人に気を遣う静とはどうにも馬が合わないでいる。それでも素面の時は仕事をきちんとこなすタイプであるし、上司として見るならば頼れる人間である。だから静も職場で、制服を着て、仕事をしている間は必要なコミュニケーションを取ることもできるのだが、これがどうして制服を脱いだ途端に苦手な思いが顔を出してしまう。といってもそれは静の中だけで煮詰まっているだけで、感情に、表情に出ることはないのだが。
人知れず小さくため息を吐き出した後、手元に置かれた割り箸を割り、大皿に盛りつけられたサラダや料理を小皿に取っていく。今日は忘年会とお疲れ様会を兼ねた飲み会だ。誰も彼もが楽しく笑い、飲み食いをしたり談笑したりしている。なので当然料理のとりわけも個人で好きなようにやっている為、その意味では静は気が楽ではあった。人一倍他人に対して気を遣うということは、こういった飲み会の場でも周囲に気を配らなければならないからだ。
一通り皿に盛りつけ終わったところで注文していた飲み物が運ばれてくる。それらを受け取り、人知れず両手を合わせいただきます、と小さく呟くと静は料理とドリンクに口をつける。空腹だからか何を食べても美味しいと感じ、皿はいつの間にか空になる。自分だけ食べてしまうことにやや申し訳ないと思いつつも、箸の持ち手側で大皿から料理を取り分ける。そんなことを何回か繰り返し、合間合間に会話をしつつ、ようやく一息ついたのも束の間。

「隣いい?」

静の返答を待たずして、同期の男がジョッキ片手に隣に腰を下ろす。アルコールを摂取しているからか、普段よりもかなり強引な態度に戸惑うばかりの静。同期の男は目を細め、にやりと笑う。

「広瀬は明日予定あんの?」

突然始まった会話に静は目を白黒とさせるほかない。それもそのはずである。なにせ何の脈絡もなく、会話の糸口すらもない状態からいきなり元旦の予定を切り出されたからだ。けれど、そこは真面目な静である。スケジュール帳を思い出しながら、えっと、とその会話に乗ってしまう。

「明日は初詣に行っておせちを食べてあとはのんびりする予定だよ」
「ふーん。あ、ちなみに初詣ってどこ行く予定なんだ?」
「家の近所にある小さな神社だけど」
「えっ、そんなのもったいないじゃん。せっかくの初詣なんだしやっぱでかくて有名なとこ行かないと」

同期の男のもったいないという単語に静は首を傾げる。静からしてみれば家の近所にある神社は幼い頃から毎年初詣に行っているところであるし、所謂有名どころの寺社は元旦は当然のこと三が日まで混雑を極めることは火を見るよりも明らかだ。二日から仕事始めだということを考えればなるべく元旦はのんびり過ごしたいと思うのは当然のこと。わざわざ混雑しているところへ自分から飛び込んで行く元気は、恐らく明日の静にはない。

「でも毎年行っているところだし」

料理に箸をつけながら、静は男の言葉にやんわりと返事をする。話の意図が掴みきれない静に、男はぐっと身を乗り出してくる。いきなり距離を詰められ、反射的に身を引く静に構うことなく男はさらに会話を進めていく。

「毎年行ってたら飽きちゃうだろ。たまには違うところとか行った方がいいって! て、わけで明日一緒に初詣行こうぜ」
「えっ」

予期せぬ誘いに静の言葉が詰まる。それを酔いが回りつつある同期の男は何故か肯定と取ってしまう。

「なんだったら今日この後すぐ行ってカウントダウンのイベント見つつ初詣してもいいしさ。な? いいだろ、広瀬」

完全に下心ありきの熱い視線。更に距離を詰められ、肩同士がぴったりくっつくくらいまで男の体が静へ接近する。いつのまにか静の左手は取られ、半ば強引に手を繋がされる。しかもがっしりと指の間に自分の指を入れ込み絡ませ、世間で言うところの恋人つなぎを一方的に仕掛けてくる。
静の背筋にぞわりと言い知れぬ不快感が昇る。
放してほしい。
そう言葉にしようとしても、相手は酔っ払いだ。話を聞いてくれるかどうかはわからない。しかも酔っているからか、普段よりもよく言えば大胆に、悪く言えば大っぴらに、下心を隠そうともせず静へ熱視線を送るような輩だ。酔っているから記憶が残らない――とは限らない。下手な態度や言動は今後一緒に仕事をしていく上で障害になりかねないため慎重にならざるを得ない。
そして左手をがっしりと取られてしまっているから静が自力で振り払うのは難しい。
助けを求めようにも周りは皆アルコールが適度に回っているからかどんちゃん騒ぎだ。誰も彼もが陽気に笑い、騒ぎ誰一人として静の窮地に気付く者は居ない。それに加え、ここは半個室だ。偶然店員がやって来なければ外部からの助けも期待できない。
その間にも同期の男のスキンシップと称したお触りは続き、流石にこれ以上は度が過ぎると苦言を呈そうとしたところで男の体重が静にのしかかる。
何事かと驚いて横並びだった体勢を変えたところで、急な重力に引っ張られ静の背は座布団についてしまう。正確には同期の男が隙を突いて静の体を押し倒したのだが、頭が真っ白になっている静にそのことはわからない。

「え……、あ、あの」
「広瀬。俺、お前のこと入社した時からずっと好きだったんだよ。お前も俺のこと好きだよな?」

嫌い――ではない。好きか嫌いかのどちらか一択を選べと言うならば、という前提付きであれば好き、ではあるが。けれどそれは決して恋愛面でのものではない。一緒に働いていく仲間として、だ。
驚きのあまり言葉が出てこない静の様子を、またも同期の男は自分に都合のいいように捉える。

「まあ、言わなくても広瀬の気持ちはわかってるよ」

言葉と共に男の上半身がゆっくりと降りてくる。
明らかな身の危険に、静の顔は一瞬にして青ざめる。
逃げようとしても男にしっかりと組み敷かれているためにそれも叶わない。抵抗もしてみたが、「広瀬は初心だなぁ」で終わってしまう。そもそも一般的ともいえるくらいの力しかない静に、男性の、しかも重力も加わった力を跳ねのけることはかなり難しい。
待って、もやめて、もすべて相手を煽る結果となってしまう。
男の息がかかるくらいの近さに静はぎゅっと目を瞑る。そして、心の中で求める。
最愛にして唯一の存在。
助けて。

「助けて……侑士先輩」

静の本当に小さな、助けを求める声は突然現れたその人物によって聞き届けられる。

「お前何しとんねん」

冷たく怒気に満ちた声が聞こえ静が恐る恐る目を開けると、既に同期の男の顔はなく。混乱しつつも自由になった体を起こした静の目に飛び込んできたのは見覚えのある背格好の人物といつの間にか壁際まで追い詰められていた同期の男だった。
いったいどういう状況で、どういった経緯をもってこんなことになっているのか静にはわからない、が。ただ一つだけわかること。それは――。

「侑士、先輩」

見覚えのある背格好の人物が先ほど助けを求めた最愛なる恋人――忍足侑士であることだけだ。

「おっ……、お前誰だよ!?」

同期の男が怒気に押されつつも負けじと強い視線を忍足に向ける。それもそのはずだ。何せ、同期の男からしてみればあと少しで静を手中に収めることができたはずで、それをいきなり入ってきた外野の男によって阻まれたのだから。
けれど、忍足は男の視線など気にも留めず、ましてや問いかけに答えるなんてことも全くなく。くるりと体を反転させて静の方へ向き直り、今さっきまで纏っていた怒気など無かったかのように優しく微笑む。その変わりようたるや、沸騰している湯がいきなり常温の水になるかのようで。
そういえば中学生の時にも似たようなことがあったなぁ、と静はこのタイミングで九年も前のことを思い出す。
あの時も確か、侑士先輩が助けてくれたんだっけ。
遠い昔の、ほんの少しだけ苦い思い出。クラスメイトの男子に、そうとは知らず口説かれそこを静は忍足に助けてもらったのだ。

「静。迎えに来たで」

忍足の穏やかな声に、先程まで静の内にあった暗い負の感情は綺麗さっぱり無くなっていた。

「はい」

言うが早いか、静は手早く帰り支度を済ませると財布から今日の参加費を取り出してテーブルに置く。

「すみません、お迎えが来ましたので私はお先に失礼します」

一応、礼儀として店長そして周囲の人間に一礼すると、静は既に部屋を後にしていた忍足の背中を追って腰を上げる。

「おう。良いお年を、広瀬。あと、あいつには後で雷落としとくから」

店長の視線の先には未だに状況が飲み込めず目を白黒とさせる同期の男。静は少し考えてから「程々にお願いします」と苦みを混ぜた笑みと共にそう進言する。その甘さがああいう奴を引き寄せちまうんだよ、と言葉にできないそれを飲み込んで、店長は肩を竦め首を縦に振るだけに留める。

「皆さん、よいお年を。来年もよろしくお願いします」

最後の最後まで礼儀正しく、まるで何もなかったかのように、力づくで自分のものにしようとした同期の男にさえ静は笑みを向ける。そのあまりにもいつも通りの様子に、同期の男の心は完全にへし折れてしまったのだが、そんなこと静の知る由はない。

「お待たせしました、侑士先輩」
「ん。帰ろか」

穏やかで優しさにあふれる笑みで忍足は静を迎える。居酒屋の入っていたビルを出ると、途端に冷たい風が静の頬を撫でる。咄嗟に目を瞑り寒さに耐えていると、流れるような動作で忍足の左手が静の右手を取り絡める。それは二人にとって至って普通のこと、である。けれど。静の脳裏に先ほどの同期の男の行動が蘇る。
一瞬。
本当に一瞬、静が体を強張らせたことを忍足は見逃さない。左手をくっと引いて静の体を自分の方へ寄せる。突然のことに踏ん張りがきかず、静の体はよろけながら忍足の左腕にぶつかる。

「静」

静が謝罪の言葉を口にするよりも前に忍足の右腕が静の背中へ回る。左手は未だに繋がれたままなので、右腕だけで抱きしめられている状態に静は驚く。
こんなにも人通りの多い場所で忍足がこうも大胆な行動を起こすことは殆どない。というよりも初めてだ。何がここまで忍足の気持ちを逸らせたのか。その原因。そんなもの静には一つしか思い至らない。
今まで散々色恋沙汰に鈍いと言われてきた静ではあるが、今回ばかりはきちんと理解していた。

「侑士、先輩」
「……はらわた煮えくりかえりそうやったわ」
「ごめんなさい」
「静に非はないやろ。あんなん、お前の力でどうにかなるもんやないやろし」
「でも、もっとはっきりと拒むことはできたと思います」
「静はめっちゃ優しいからそないなことできるやなんて思えへんけどな」

忍足の声はどこか諦念のようなものが混じっている。それは忍足侑士という人間が広瀬静という一人の人間を理解しているからで。
他人に気を遣い、優しく笑いかけ、誰に対しても同じ態度で接する、広瀬静という人間性は出会った中学生の頃から何一つ変わらない。忍足自身、そんなところも好きになった要因の一つであり、仕方がないとも思っている。そして、出来ることなら静にはあまり変わってほしくないとも思っている。だから同期の男のように勘違いを起こす輩も決して少なくはない、というのも理解している。けれど、だからといって自分の目の前で静が他人によって組み敷かれた姿を見て、それでも頭に血が昇らないわけではない。
忍足侑士という青年は、冷静で、落ち着いていて、何事にも動じない、けれども胸の内に熱い心を秘めている人間だと思われているし、実際のところそうであるのだが、こと静の身に危険が迫った時はその限りではない。きちんと感情を顕にするし、必要とあればその危険から守ろうと行動を起こせる人間なのだ。

「それに、ああいう奴から守るんは彼氏の仕事やろ? その意味では俺の方が謝るべきやろ」
「侑士先輩は悪くないです……!」
「やけど、俺がもっと早く迎えに行っとれば静が怖い思いせんで済んだやん」
「そんな……、ことは、」

ない、とは言い切れない。現に静は同期の男に押し倒されていたし、確かに忍足がもう少し早く到着していればそんな事態は免れたのかもしれない。けれど、それは全て仮定の話。そして過ぎた話でもある。

「ホンマごめん。……ごめんな」

忍足の謝罪と力強い抱擁に静は何も言えない。だから、行動で示す。ぎゅっ、と忍足の背中に左腕を回す。その行動に今度は忍足の方が驚く。静も忍足同様人通りの多い場所で大胆な行動を取ることは殆どない。恥ずかしいというのもあるのだろうし、外で所謂恋人らしいことをするということにも抵抗があるのだろう。けれどそんな思いを胸の奥にしまい込んで、静は左腕を忍足の背中に回した。
忍足と静は頭一つ分くらい身長が違う。密着すれば必然的に静の頭は忍足の胸あたりにやってくる。そこは、ドクン、ドクンと脈打つ心臓のある場所で。その心音は静の本音を引き出す。

「……本当は、怖かった……です」
「ん」
「でも、もう大丈夫です」
「ホンマに?」
「はい。侑士先輩。助けてくれて、ありがとうございました」
「助けるんは当たり前やろ。俺は静の彼氏なんやから」
「……はい」

どのくらいの間そうしていたのだろう。顔も指先もすっかり冷え切ってしまい、二人とも鼻の頭が赤くなってしまっている。流石にずっとそうもしていられない、とどちらからともなく名残惜しそうに放された体。温もりが消えてしまいそうな物悲しさに静の頭が僅かに沈む。

「静」

名前を呼ばれ、静が顔を上げるとそこにあったのは申し訳なさそうに眉を下げ、けれど真っ直ぐ静の宝石を見つめる忍足の視線。

「もう少し、待っとってくれるか?」

何を、とは言わない。そしてそのもう少しがいったいどのくらいの間なのかもわからない。けれど、静には待てる自信があった。なにせ九年前にも何を待つのかもわからない言葉を忍足からもらっていて、事実静はその間ずっと待ち続けているからだ。
そういえば、もうすぐ約束の十年になるんだなぁ。
そんなことを頭の隅で考えながら、静ははっきりと了承の意を口にする。

「はい。待ってます」
「……待たせとる俺が言うんもアレやけど、静よぉ待てるな?」
「え?」

忍足の問いかけに、静は本気で首を傾げる。それこそ、何を言われているのかわからない、といった風に。

「あー、いや、エエわ。今のは俺の失言やった。忘れてくれ」
「はぁ……?」
「せや、明日は初詣の後時間あるか? そっちの都合でエエから、新年の挨拶したいんやけど」
「あ、はい。大丈夫です。午前中に初詣行ったらその後はおせち食べてゆっくりする予定ですし」
「ほんなら、明日昼終わったくらいに静の家行ってエエ?」
「え? 別にお昼時でも大丈夫ですよ?」

静の純粋なまなざしに、忍足は一瞬怯む。さすがに家族水入らずで過ごしているであろう元旦の、しかも昼時に部外者である自分が入り込むことに多少の気まずさのようなものを感じているからだ。けれど、静はなおも言葉を続ける。

「両親も侑士先輩が来るってなったらきっと喜びますし、ご飯は大勢で食べる方が楽しいし美味しいです」
「そらまあ、そうなんやけど……」
「お誘いしておいてなんですけど、侑士先輩のご都合で大丈夫です。侑士先輩のお家もきっとおせちとか用意してますよね」
「うちは親父が当直やし姉貴もオカンと一緒に新年早々出かける言うとったからどっちかっちゅうと夜に重きを置いとんのや。やから昼は一人なんや」
「そうなんですか?」

じゃあ、と静は遠慮がちに先ほどの提案を再び言葉にする。

「侑士先輩がよければ、ですけど……」
「まあ、そこまで強く断る理由はないしなぁ。ほんならご相伴に与るわ」
「はい!」

にっこりと、笑顔の花が咲く。それを見て、忍足はようやく胸を撫で下ろす。
静自身は隠しているつもりだったのだろう。けれどずっと顔が、体が、強張っていた。それもそのはずだ。何せ少し前までとても怖い思いをしていたのだから。言葉ではいくら大丈夫と言っても、気持ちまではうまく繕えない。
だから静から笑みが見えて、忍足は心底安堵した。安心した。とりあえずではあるが静から薄暗い気持ちを取り払うことはできたのだ、と。
止めていた歩みを始める。
明日の予定を相談しながら。
今夜の年越しカウントダウンはどうしようと話しながら。
駅までの道のりを二人並んで歩いて行った。