謙虚で静かな恋の話


忍足謙也にとって、氷帝学園の跡部景吾は従兄弟である忍足侑士から聞いた情報でしか知り得ない人物だった。
とてつもない金持ち。
俺様。
抜群のカリスマ性。
誰もが振り向くイケメン。
学内、学外問わず話題に事欠かない。
侑士のことやから多少話盛っとるんやろな、なんて謙也はそれを話半分に聞いていた。そして、合同学園祭に氷帝学園のゲストとして呼ばれ、実際に跡部と相対して言葉を交わし、その場で侑士を捕まえて発した第一声は、

「マジやったんか!?」

である。
当然のことながら跡部も侑士も頭の上にクエスチョンマークを何個も浮かべ、首を傾げることしかできない。だから侑士は思ったままをそのまま口に出す。

「謙也、何の話しとるん?」

それを受けて、謙也は食い気味に、そして叫ぶように侑士に食って掛かる。

「侑士、この間跡部……くんの話してたやん! その話や!」
「あぁ、あの話か」

謙也の叫びに侑士は納得したように頷く。話が全く飲み込めない跡部だけが置いてきぼりをくらっている状況に、周囲は冷や汗を流している。しかしそんな空気を全く察しない従兄弟二人はなおも話を切り上げる気配がない。
さすがに蚊帳の外であることにしびれを切らしたのか、跡部が若干不機嫌そうに腕を組んで侑士に向けて視線を投げる。

「忍足、一体何の話だ?」
「ん? ああ、跡部はごっついなぁいう話をしとってん」
「それは誉め言葉なんだろうな?」
「そらまぁ」
「なんだその歯切れの悪い返事は」
「まあエエやんか。ちゅうわけで、さっきも紹介したんやけどこのやかましいんが俺の従弟の謙也や」
「やかましいてなんやねん! 侑士が静かすぎるだけやろ!」

謙也の突っ込みに跡部の表情は気難しさを、そして周囲の色々な意味で心配する視線が増していく。

「お前ら本当に従兄弟なのか?」

跡部の疑問は尤もで。普段共に汗を流し練習を重ねている侑士を見ているからか、謙也の賑やかさと話すテンポは従弟であると言われても信じがたいのだろう。
そして謙也のようなタイプの人間は氷帝学園テニス部にはいない。その物珍しさもあってか、跡部の視線は徐々に謙也に移っていく。

「ホンマやで。何なら家系図でも見せよか?」
「侑士の家、家系図なんてあるんか!?」
「ちょぉ、謙也黙っとき」

何やそれ、と家系図に興味津々な謙也に対し、侑士はエエからと何とか話を逸らそうとするものの、結局軌道修正はかなわず、話題は忍足家の家系図でもちきりになってしまった。

「エエやん! 今度家系図持ってきてや」
「なんで持ってこなアカンねん。謙也が見に来ればエエ話やろ」
「そんなもんデータでよこせばいい話だろ」
「跡部は口挟まんといてや。ちゅうか家系図をデータで持つやなんて普通ないやろ」
「あーん? なら作ればいいだろうが」
「家系図は紙に書いてナンボや思うねんけど」

趣っちゅうもんがあるやろ、とこぼす侑士に対し、謙也は跡部の提案にそれだとばかりに目を輝かせる。
厄介なことになる前に早々に話を決着させようと侑士が思考を巡らせていると、三人の会話に控えめに入ってくる、可憐で柔らかな、花のような声。

「あの、お話し中すみません」

その声に、三人が三人とも首を傾け視線を向ける。けれどその視線の先に目的の人物の姿はなく。少し下を向き、ようやくその姿を見とめる。中学生の平均と比べると比較的体格のいい三人の視線に一切怯むことなく、その声の主はその中のある人物を指名する。

「運営委員長、少しお伺いしたいことがあるのですが」

栗色のセミロングの髪。大きくてブラウン・ダイヤモンドのような輝きを秘める瞳。そしてこの会議室の中でもひときわ小さな体躯に氷帝学園の基準服をまとった少女――広瀬静の視線はまっすぐ、この度の合同学園祭の運営委員長こと跡部に向いている。

「ああ、どうかしたか?」
「この件なのですが、」

跡部と静が込み入った話を始めてしまったため、男三人で繰り広げていた会話は強制的にお開きとなる。仕方のないこととはいえ、折角盛り上がった話がオチもつかずに終わってしまったため、どこか物足りなさのようなものを感じる謙也とナイスタイミングや運営委員のお嬢さん、と内心ガッツポーズをする侑士。
確かに跡部の言うとおり、侑士と謙也は従兄弟とはいえ外見は元より考え方も全く違う。違う人間なのだからそれは当たり前なのだが、多少なりとも似通った点があったとしてもおかしくはない。けれどこの二人は赤の他人が一目見ただけではその関係性を図る事が出来ないほど共通点が少ない。

「侑士、跡部くんの言う通り家系図データ化したらエエんちゃう?」
「なんでやねん。家系図こそ紙で持つべきもんやろ」
「それこそなんでやねん! 時代はデータやろ!」
「俺の時代はいつでも紙やねん」
「アナログすぎやろ!」
「データは飛んだら終わりやろ」
「紙やって燃えたら終わりやろ!」
「おい、うるせえぞ忍足ズ」

二人の会話は徐々にヒートアップしていく。しかもそれは本人たちの自覚なしに声量も比例して上げていく。最初こそ二人を放って静と事務的会話をしていた跡部だったが、次第にそれも聞き流せなくなる。遂に堪忍袋の緒が切れ、会話中断の合図のように右手を上げると、跡部は声こそ荒げなかったものの、語気強めに二人に対して苦言を呈す。その勢いに押され侑士は口を噤んだが、逆に謙也は忍足ズという呼称がいたく気に入ったのか、その瞳には再び輝きが灯される。

「忍足ズてなんやコンビ名みたいやな!」
「謙也」
「なあ、侑士!」
「謙也、エエから」

キラキラと目を光らせて、謙也は侑士に視線を投げる。漫画的な表現をするならば、目から星が飛んでいそうな、そんな真っ直ぐ純粋に綺麗なそれを敢えて流し、侑士はこれ以上跡部の機嫌を損ねないよう謙也を窘める。だがそんな努力も虚しく、謙也の勢いは衰えることはなく。そしてそれと同時に跡部の眉間にも何本か皺が寄せられる。その変化を見逃さなかった侑士は謙也が余計なことを言う前に彼をこの場から連れ出そうと手を伸ばし、けれどそれはほんの一瞬遅かった。

「どうもー忍足ズですーってな!」
「忍足」

誰もが跡部のその声に顔を引き攣らせる。唯一その反応を示さなかった謙也と、そして静だけが周りの空気を読めず首を傾げている。
やばい、と侑士が謙也の手を引いて慌てて会議室を後にする。その際謙也から驚きの声が上がったが、今はそんなことを気にする余裕は侑士にはない。一刻も早く謙也を――というよりも、正確には怒っている跡部から何の状況も飲み込めていない謙也を引き離す必要があった。あのまま謙也が喋り続ければ、十中八九とばっちりを受けるのは目に見えていたし、場の雰囲気ももっと悪くなっていたことは間違いない。会議室に残してきてしまったほかのメンバーには多少の申し訳なさを感じつつも、侑士はあの場でとれる最善の行動をしたと自負している。そんな従兄の心中を全く知らない謙也は引かれ続ける手に視線を落としながら内心首を傾げることしかできない。
しばらく歩き、侑士が謙也の手を離したのは噴水がある広場まで来たときだった。手を離して開口一番、謙也が侑士に視線を投げる。

「侑士、いったいなんやねん! 俺まだ話の途中やったやん」
「謙也、悪いことは言わん。跡部は怒らせちゃアカン」
「ん? 跡部くん怒っとったんか?」
「お前……」

大きく、そして大袈裟にため息を吐き出して、侑士は噴水の縁に腰掛ける。謙也もそれに倣い、侑士の隣に腰を下ろす。

「謙也みたいのは氷帝にはおらんのや。やから跡部も興味があるんやろうけど、運営委員のお嬢さんと大事な話をしてる時にあれはアカンやろ」
「あれ?」

謙也は、はて? と首を傾げる。その様子に侑士は再びため息を漏らす。
こいつ……自覚なかったんか。
言葉にするとまた面倒なことになるだろう、と侑士はそれを心のうちにとどめておく。

「謙也かて誰かと大事な話しとるときに後ろで大騒ぎされたらかなわんやろ?」
「そらまあ。やけどそれは四天宝寺やと普通やからな」
「そっちの普通はこっちやと当てはまらんこともあんねん」
「そやったんか、そら跡部くんに悪いことしてもうたな」
「まあ、謙也も悪気があったわけやないんやし、後で謝りに行けばエエやろ」
「せやな」

一件落着、とはまだいかないが、ひとまず二人の間ではこの話は決着となったタイミングで、侑士のスマートフォンが着信を知らせる。ゆったりと、まるでオルゴールのようなメロディは真夏の太陽が照り付けるこの場にはとても似つかわしくなかった。

「なんやその着信音!」
「謙也、うっさいわ」

言いながら、着信ボタンを押し受話口を耳に当てる。

「あ、侑士? 今お前らどこにいんだよ!」

受話口から聞こえてきたのは向日の声。その後ろで何やらやいのやいのと騒いでいる声が聞こえるが、通話に支障のない範囲内だったので侑士はそのまま通話を続ける。

「どこって……噴水がある広場やけど」
「広場ってずいぶん遠くまで行ったな!」
「なんや気ぃ付いたらここまで来とって」
「お前な……って、おい、ちょっと待て! お前が行かなくてもいいだろ!」

向日の慌てた声は明らかに侑士に対してのものではなく、あちらの場にいた誰かに向けてのものだった。むこうの状況がよくわからない侑士は向日の慌てた声に首を傾げる。

「どないしたん? 岳人」
「あー、えっと、運営委員がお前らを迎えに行ったから絶対そこ動くなよ! いいか! 絶対! だからな!」
「あぁ、そういう……」

先ほどの向日の引き留めるような言葉は静に対してのもので、そしてその当人はすでに侑士と謙也を迎えに出てしまった、と。そう解釈して、侑士は了承の意を伝える。

「ん。ほな、ここで待っとるわ」
「おう」

終話ボタンを押して、スマートフォンをポケットに突っ込んでから侑士は謙也に視線をやる。向日との通話の内容を把握していない謙也は侑士の視線に「なんや?」と一言零す。

「運営委員のお嬢さんが俺たちを迎えに来てくれるんやと。やからここで待っとることになったわ」
「おん? そうなんか」
「下手に動くとお嬢さんにも迷惑かかるんやし謙也はここから立っちゃアカンで」
「立つのもアカンのか!?」
「アカンわ。立ったら最後、謙也絶対どっか行くやろ」
「どんだけ俺信用ないねん! さすがに迎えに来てくれてるいうのにどっか行ったりせんわ!」
「どうだかな」

侑士が一つ息を吐き出したその時、だった。

「あの!」

先ほどと同じく、可愛らしい声が響く。
侑士と謙也は揃って顔を上げ、その声の主を視界に入れる。すると、氷帝の基準服を風に靡かせ駆けてくる一人の少女の姿。ローファーがコンクリートをこすり、小気味のいい音を奏でる。
いくら年下といえど、運動部でもなければ、今日出会ったばかりの女子を走らせるということに若干の後ろめたさと申し訳なさのようなものを感じ、二人は慌てて腰を上げる。

「何も走ってこんでもエエのに」
「せやで! 暑いんやから走ったりしたら疲れてまうで!」

謙也の言い分に侑士は頭を傾げつつも、話の腰を折ってしまうのもいかがなものかと口を引き結ぶだけにとどめておく。けれどそんな二人の気遣いに一切触れず、というよりもそれ以前の問題で、静は上がった息を整えようと何度か深呼吸を繰り返すばかり。

「はぁ……、はぁ……、皆さんが、待って、ます、ので……、急がないと、いけ、ないと……思い、まして」
「エエから。まずは息整えや?」
「せやせや! ヒッヒッフー! ヒッヒッフー! やで」
「なんでラマーズ法やねん」

謙也のボケに冷ややかな視線とツッコミをたたきつけると、侑士は静にひとまず噴水の縁に座るよう薦める。それに応じ、静は腰を下ろしそれから再び深呼吸を繰り返す。ようやく普通に会話ができるようになるまで息が整うと、静はゆっくりと顔を上げる。

「すみません、お待たせしました。……えっと、」

えっと、の後が続かない静の意図を汲んで、侑士はにこりと笑みを作る。

「俺は忍足侑士や。会議室で自己紹介はしたけど一度にあないな人数の名前覚えきれんよなぁ」
「あ、いえ……、その……」

申し訳なさで頭が下がる静に「気にせんでエエよ」とフォローを入れつつ、侑士がさりげなく謙也の脇を小突いて自己紹介を促す。それに反応して、謙也もにかり、と白い歯を見せて笑う。

「俺は四天宝寺中の忍足謙也や! 侑士とは従兄弟なんや! よろしゅうな! えっと、」

お前もか、と本日三度目のため息を吐き出して、侑士は静に聞こえないぎりぎりの声量で謙也に静の名を伝える。

「広瀬さんや」
「広瀬さん!」
「はい、よろしくお願いします。忍足先輩、忍足さん」

忍足先輩、は侑士に向けて。忍足さん、は謙也に向けて。それぞれの名前を呼ぶ際にきちんと相手の目と顔を見る。たったそれだけのことではあるけれど、とても重要なこと。そして、広瀬静という女子は誰に言われるでもなく、自然とそれができる人間であった。

「それじゃあ、皆さんが待ってますのでそろそろ戻りましょうか」
「せやなぁ。広瀬さん、迎えに来てくれてホンマすまんなぁ。そんでおおきに」
「え?」

まさか謝罪とお礼を言われるとは思ってもみなかった静は心底驚いたような表情を作る。静からしてみればこれくらいのことでという感覚なのだが、侑士からしてみれば静は年下とはいえテニス部の後輩でもない、今日初めて会った女子。しかも従弟のせいではあるとはいえ、勝手に会議室から抜け出したのだから本来であるならば迎えに来てもらえるような立場ではない。それなのに、静は迎えに来てくれた。しかも走って、だ。
会議室から噴水広場までそこそこの距離がある。普段部活で体を動かしている侑士と謙也からしてみれば大したことはないが、帰宅部である静からしてみればこの距離を走るというのはなかなかに大変なことであるというのは容易に想像できる。
だから、大変なことをさせてしまってすまんなぁであり、わざわざ走ってまで迎えに来てくれておおきになのだ。しかしこんなことを口にするほど侑士は野暮ではないため必要最低限の言葉で済ませる。

「侑士の言う通りやで! 広瀬さん、ホンマおおきに! 大変やったやろ!」
「いえ、そんな」
「こういう時は素直に受けとくもんやで」

な? と侑士が微笑むと静はためらいがちに浅く首肯する。

「はい」
「よっしゃ! ほな戻ろか」
「謙也はまず戻ったら跡部に謝らんとな」
「せやった!」

忘れとったんかと苦い表情を作る侑士と、どないしよと焦る謙也。そして二人の会話を後ろで聞きながら微笑む静。真夏の太陽がそんな三人の影を伸ばしていた。


「これこそ圧巻っちゅー話や」

合同学園祭、とは聞いていたがまさかここまでの規模だとは思ってもみなかった謙也が発した独り言は、学園祭という催しからは決して想像できない大規模工事の騒音によってかき消されてしまう。自分の知っている学園祭とは一風変わった目の前の光景にただただ感嘆のため息しか出てこない。

「侑士」
「なんや」
「跡部くんって、ホンマごっついな」
「せやろ」

普段から跡部のやることを見ているせいか、もうこれくらいでは驚かない侑士、向日、日吉は黙々と屋台設営を進める。ただ一人、謙也だけが氷帝学園での当たり前についていけず着々と建設されていく見た目からして豪華絢爛な建造物を眺めている。
今回の学園祭で氷帝学園テニス部が出す模擬店は二つ。跡部、樺地、鳳、宍戸、芥川が準備を進める喫茶店と侑士、向日、日吉、そして謙也が準備を進めるたこ焼き屋だ。
たこ焼き屋は至って普通の――というと語弊があるが、学生が企画、催す範囲内で比較的設営しやすい屋台であるのに対し、喫茶店はまずそれを建設するところから始まった。というよりも、跡部の中ではすでに喫茶店をやることは決定事項であり、企画立案をするよりも前にその工事は始まっていた。

「ちゅーか俺らのたこ焼き屋やってこんな本格的な屋台用意しとるなんて凄ない?」
「せやなぁ。普通こんな屋台なんて用意せんしな」
「え? そうなのか?」

スパナを手に持ちながら向日が会話に割って入ってくる。その際振り回した腕が日吉の眼前を掠め小さな非難が飛んできたが、向日はそれを聞こえなかったふりをして流す。

「せやで。こんな神社とかに出とる屋台やなんて普通の学園祭で出てこんわ」
「まずその普通の学園祭からしてよくわかんねーけど」
「岳人は幼稚舎から氷帝やもんな」
「え!? めっちゃお坊ちゃんやん!」
「お坊ちゃんじゃねぇよ!」

再度向日が腕を振るい、またしても日吉の眼前を掠める。二度目ともなれば日吉も持ち前の身体能力で避けはしたものの、さすがに二度も危ない目に遭ったとなると今度こそ大きく非難を上げざるを得ない。

「向日さん危ないじゃないですか!」
「は? 何が?」
「その手に持ってるスパナですよ!」
「スパナ? ってこれのことか?」
「そうですよ! ああ、もう!」

向日と日吉の言い争いを横目に見ながら、謙也は再び建設されていく建造物に顔を向ける。騒々しい工事音は日常からかけ離れていて、それだけでどこか学園祭という非日常を感じられる。
そして、謙也にとっての非日常がもう一つ。

「皆さんこんにちは!」

けたたましい騒音の中でも聞こえる声に、その場にいた全員がその声のした方へ振り向く。
その可愛らしい風貌にはとても似合わない腕の中のファイルの山。炎天下であっても暑さを感じさせない柔らかな笑み。風に揺れる栗色の髪と氷帝基準服のスカートは色々な意味で見る者の目を奪う。

「ああ、お嬢さんか。こんにちは」
「広瀬さんこんにちは! 今日もあっついな!」

侑士と謙也の温度差のある挨拶にも笑みを崩さず、静は腕の中にあるファイルの山から一枚の書類を取って侑士に渡す。

「忍足先輩、頼まれていたものですがこれで大丈夫ですか?」
「せやな。さすがお嬢さん、仕事が早いな」
「いえ、委員長のお力があってこそです」
「そこは素直に受け取っとき」

はい、と首肯して静は侑士に渡した書類を引き取るとそれをファイルに戻――そうとしたところで、目も開けられないくらいの突風が静の手から書類を奪い去る。咄嗟に手を伸ばすものの、それは寸でのところで届かず、あっという間にはるか彼方へ飛んで行ってしまった。
けれど静の顔が青ざめるよりも早く。速く。その足は、そしてその手は書類に届いていた。
感覚的には瞬きをしている間に、というのが正しいのかもしれない。とにかく、数メートル先の謙也の手には飛んで行ってしまった書類が握られていた。

「はっや! 謙也ってあんなに速いのか!?」
「さすが浪速のスピードスターですね」
「恥ずいから言わんといてや」
「別に侑士のことじゃないじゃんか」
「従弟がそないけったいなあだ名ってやけで十分恥ずいやん」
「そういうもんか? 俺はかっこいいと思うけどな」

向日の純粋無垢な瞳に僅かに眉を寄せ、侑士は肩を竦ませる。そうこうしているうちに謙也が戻ってくる。

「広瀬さん、これ!」

突風と謙也が勢いよく掴んだせいでしわくちゃになってしまった書類を静に渡す。それを受け取って、謙也の顔と手元の書類とを交互に見て、静は目を丸くする。

「ありがとうございます! 忍足さんとても足が速いんですね!」

ぱあ、と笑顔の花が咲く。それはもう満開の、可愛らしいそれに今度は謙也の瞳が大きく見開く。謙也の走力を初めて目にしたのだから静のその反応は当たり前で、そして謙也も異性にそんな反応をされるのは久しぶりで一瞬言葉が出てこない。

「お、おん……」
「なんや謙也照れとるんか」
「てっ、照れとらんわ侑士何言うとんねん!」
「めっちゃ早口になっとるやん」

侑士の指摘は的確で、図星を突かれた謙也はぐうの音も出ない。けれどそれを悟られるのは恥ずかしい。どうにか言葉を探す謙也であったが、結局出てきたのは「ちゃうねん」の五文字だけだった。そんな微妙な空気をぶった切るのは日吉の容赦ない言葉。

「どうでもいいですが作業の手を止めないでくれませんかね?」
「ど……! あ、いや、なんもないです」

日吉の射貫く視線に言い返そうとした謙也も空気を読んで口を噤む。作業自体に遅れが出ているわけではないが、これ以上手を止める道理もない。侑士と向日はいそいそと作業に戻り、静はそれじゃあと頭を下げて踵を返す。

「――……」

けれど謙也だけは不思議とその後姿から目が離せずにいた。静が角を曲がりその姿が完全に見えなくなるまで、いや見えなくなってからもしばらくの間謙也はその方向を見続けていた。
そしてそんな従弟の行動を一部始終目撃し、もしかして――なんて想像をする侑士。それは恋愛を題材にした作品に多く触れている侑士だからこそわかる心の揺れ動きであり、想いの始まりでもあった。

「春の訪れ、やなぁ」
「何言ってんだ侑士。今真夏だぞ?」

侑士の独り言に意味が分からない、と首を傾げる向日とそもそも気にも留めていない日吉。お前らも少しは恋愛小説を読んでみたらどうや、と言いかけたが、思い直して「せやな」とだけ呟くと、侑士は謙也の肩を叩き作業に戻るよう声をかけた。

燦燦と降り注ぐ日の光――なんて生易しいものではなく、えげつない熱量とカンカン照りの太陽光を背中に浴びながら、たこ焼き屋台組は作業を進めている。交互に休憩を挟みながらではあるけれど、さすがに長時間の外作業は知らず知らずのうちに体力を削っていく。
午前中の作業を終え、ひとまず一時間ほど昼休憩をとることにした四人は皆思い思いの場所へ散っていく。といっても、向かう方向は同じ――食堂がある本館だ。この暑さの中で弁当を持参することは何かと危ないし、仮に持参するとしても保冷剤、保冷バッグは必須。荷物が多くなること、そして食中毒のリスクを鑑みると食堂で出来立ての食事を摂る方がいい、というのが三人の、そしてその親の判断で、謙也だけは会場近くのホテルを利用しているから元より食堂を利用する以外の選択肢はない。
今日は何を食べようか、昨日はあれを食べたというような会話を交わしつつ、日陰をつたって行く。その道中、謙也の視界の端に入ったのは先日から気に留めている色。殆ど無意識のうちに足が止まり、その色に向けて首を傾ける。
栗色の髪。白いシャツと青地にチェックが入ったスカート。今日も今日とて腕の中にあるのは膨大な色とりどりのファイルの数々。
広瀬さんや……。
喉元まで出かかったそれを慌てて飲み込む。幸い、向日と日吉は既に食堂に向かったのか、その姿はなく。安堵のため息を吐き出しかけたその時。

「お嬢さんやん」
「うおぁ!?」

真後ろ――しかもかなりの至近距離からの声に、謙也は驚くのと同時に全身に鳥肌を立てる。いくら従兄とはいえ、こうも距離が近いとこそばゆさを感じるのは仕方のないこと。

「なんやそないに驚かんでもエエやん」
「驚くわドアホ! お前は俺のスタンドかっちゅーの!」
「誘わんの?」
「話ぶった斬りすぎひん!? って誰を何に誘うねん」
「お嬢さんを昼ご飯に」

当たり前だろう? と言いたげな侑士の視線。それに対し、謙也は何故侑士がそんなことを言うのかその意図が全く掴めずに、ただただ首を傾げるばかり。つい先日知り合ったばかりで昼食に誘うような親しい間柄でもないし、そもそも向こうにだって都合というものがある。そんなタイミングよくもいかないだろう。

「謙也、俺の見立てやとお嬢さんかなりモテると思うで」
「そらそうやろ? 可愛えし仕事早いしめっちゃエエ子やん」
「分かっててそれやと鳶に油揚げ攫われてまうで」
「え!? ここ鳶おるん?」

謙也が慌てて顔を上げ、雲一つない青空からいるはずのない鳶を探し、それを見て侑士は大袈裟とも取れるくらいの大きなため息をこぼす。
はぐらかす為にわざとこんな態度を取っているのか、それとも素で言っているのか。どちらにしても侑士の眉間に数本皺を寄せるには十分だった。

「でもまあまだしゃーないか」

こぼしたのは独り言。それが謙也に届くはずもなく、と言うより届かせる気もなかった。なので謙也がそれに対して疑問を投げかけるよりも早く、侑士の足は静に向いていた。

「お嬢さん、こんにちは」
「忍足先輩、こんにちは。今日も暑いですね」
「せやな。ちゃんと水分摂ってなるべく日陰におるん?」
「そこは委員長にも気を遣っていただいているので大丈夫です」
「流石跡部やなぁ。ところでお嬢さん昼ご飯もう食べたん?」
「え? まだですけど」

侑士の問いかけに対し意味がよく分かっていない静は僅かに首を傾げる。よっしゃ、と内心ガッツポーズをしながら、侑士は言葉を続ける。

「ほんなら俺ら今から食べるんやけど一緒にどうや?」
「あ、えっと……」

何やら言いにくそうにしている静の反応に、もしかしたら断られるかもしれないという可能性を察して僅かに緊張が走る。けれど静から返ってきたのはそんな侑士の思惑をいい意味で裏切るものだった。

「あの、私今日はお弁当作ってこなくて……。それとお財布も忘れてきちゃったので……」

それ以上は言葉にしなかったが、言いたいことはよく伝わった。何にせよ、断る理由がそれならなんとでもなる。というかする。主に謙也が、だが。

「ああ、それなら心配せんでもエエで。今日は謙也の奢りやから」
「え!?」
「なんでや!?」

前後から驚きの声が聞こえる。それもそのはず。謙也は侑士の思惑など全く知りもしない上に、勝手に話に巻き込まれたのだから。静も静でまさかここで謙也の名前が出ていくるとは思いもしなかったのと、奢りという単語に目を丸くしている。

「どうや? 悪い話やないと思うんやけど」
「え、……っと」
「肝心の俺抜きで話進めんといてや! 俺エエなんて言うてないで!」

数歩の距離を一瞬で詰め、謙也が二人の会話に割って入る。謙也のスピードに慣れていない静はまるで瞬間移動したかのように見えてしまい、再び目を丸くする。

「ご本人から了承を頂いていないのはちょっと……」

静の返答はもとより謙也の主張もまた尤もなものである。侑士だけが乗り気であるかのように見えてしまうこの状況は決して望んだものではなかった。けれどここで引くわけにはいかないし、今更引けるわけもない。強引に謙也の腕を引いて、静から距離を取る。

「いった! なんやねん侑士」
「エエからここは俺に話合わせとき」
「なんでやねん!」
「なんなら今日は俺が金出してもエエから」
「え!? どないしたん? 侑士がそないなこと言うやなんて明日雪でも降るんちゃうか!?」
「エライ言いようやな! まあエエわ。お嬢さんを昼ご飯に誘うんや。エエな?」

侑士の真っ直ぐ、真剣な眼差しが謙也の顔をじっと射抜く。断れない空気がひしひしと伝わってくるのか、謙也は首を縦に振るほかない。
そんな男二人の内緒話を静は微笑ましいものを見るような表情で眺める。静には歳の近い従兄弟姉妹がいない。だから、侑士と謙也の仲が良いやりとりを見ると、羨ましくもあり微笑ましくも感じるのだ。歳上、しかも異性に対して微笑ましいという感情を抱くのには若干違和感のようなものを感じるが、見ているだけで何故だか心が温かくなるのだから仕方がない。
ようやく話がついたのか、侑士と謙也は静の元へ戻ってくる。

「広瀬さん! 昼一緒に食べよか!」
「で、でも私……」
「エエから! 侑……やなかった、俺が奢ったる!」
「ご馳走になるのは……」

四天宝寺メンバーならすぐに飛びついてくるというのに、静の言動からは本当に申し訳ないと思っているのがとてもよく伝わってくる。こういうところがいじらしいと感じてしまう謙也であった。

「お嬢さん、ちなみに今日のスペシャルデザート、牧場直送牛乳を使うたアイスクリームパフェやで」
「……! そ、それは……っ、でもっ、」

侑士の援護射撃に静の心がぐらりと傾く。今や、行け! と目配せすれば謙也はトドメとばかりに最後の一押しを口にする。

「広瀬さん、今日財布忘れてしもうたんやろ? 昼抜きで作業するんはしんどいで」
「それは、そうなんですが……」
「俺は広瀬さんと一緒に昼食べたいんやけど、広瀬さんは嫌か?」
「いえ……っ! そんなことはないです!」
「ほんなら、行こか!」

殆ど話の流れに任されるような形で、いつのまにか静は承諾をさせられる。その様子を横目で見ていた侑士は謙也の人たらしっぷりに舌を巻く。
謙也、やればできるやん。
うっかりこぼしそうになったそれを飲み込んで、既に食堂への道のりを歩き始めた二人の後ろをついて行く。

「広瀬さんは何食べるん?」
「そうですね……。今日は特に暑いですから冷たいお蕎麦とかがいいかもしれないです」
「謙也の奢りやから何でも好きなもん頼んだらエエよ。ちゃんとデザートも頼むんやで」
「えっ、でも……」

静が躊躇うのも仕方のないこと。何せ、食堂で提供されるスペシャルデザートはおよそ定食一食分の金額をとるのだ。その分豪華であるし、値段相応の味は保証される。

「遠慮せんでエエよ! 広瀬さんデザート食べたいんやろ? さっきもぐらっと来とったみたいやし」
「それは……! そ、そうなんですが……」

日頃四天宝寺メンバーと一緒にいるからか、食事にデザートをつけるかつけないかで悩み、恥ずかしがる静の様子に謙也は頬を綻ばせる。
別に、特別なことをしているわけでも言っているわけでもない。けれど、静から返ってくる反応はとても新鮮で、楽しくて、そして――。その先の感情を謙也はまだ気づいていない。それに気づいているのは侑士だけなのだから。

「おせーよ! 何してたんだよ二人とも……って広瀬じゃん」
「こんにちは」

食堂に着くなり、向日の文句が飛んでくる。それを難なくかわして、三人は向日と日吉がとっておいた席に着席する。

「遅なって堪忍な! 今日は広瀬さんも一緒やで」
「それはいいですけど、三人とも早く注文しないとかなり待つ羽目になりますよ」

日吉の指摘通り、確かに注文口には既に列が形成され始めていた。待つことが苦手な謙也にとって、これは大変よろしくない状況だ。
今しがた着席したというのに、三人は急いで席を立ち、慌ただしく注文口へと向かう。その後姿を見届けると、向日と日吉は若干冷めかけている自分の昼食に手を付ける。

「あーあ、せっかくならアツアツのうちに食いたかったな」
「なら先に食べてればよかったじゃないですか」
「それはなんか嫌だろ」
「なら文句言わないでくださいよ」

向日と日吉がそんな会話をしていることなど露知らず、侑士、謙也、静の三人は並びながらメニューの看板とにらみ合いをする。と言っても侑士と静はすぐにメニューを決めてしまったので、残るは謙也のみなのだが。

「うっわ、こっちの美味そうやん! あ、でもあっちのも捨てがたい!」
「謙也、そろそろ決めんと順番来てまうで」
「どないしよ!」

ああでもないこうでもないと悩む謙也に痺れを切らし、侑士は仕方がない、と一つため息を吐き出す。

「浪速のスピードスターが聞いて呆れるわ。ほんなら、謙也はこっちのにし。俺があっちの頼んだるから半分にすればエエやろ」
「侑士……! お前……!」
「近い近い近い」

まるで仲の良い本物の兄弟のようなやり取りに、静はくすりと笑みを漏らす。

「お嬢さんに笑われてもうたやん」
「あ、いえ……すみません。お二人があまりにも仲が良いのでつい」
「俺らってそないに仲エエか?」
「俺に訊くなや」

そのやり取りすらも静からしてみれば面白かったのか、一度咲いた笑顔の花は萎むことはない。
そんなことをしていると、すぐに順番は回ってくる。注文口で各々メニューを頼み、受け取り口でお盆を持って待つこと数分。出来上がった料理を受け取ると、静のお盆には頼んだ覚えのないスペシャルデザートが乗せられる。

「あの、私これ頼んでないんですが……」
「それはあの金髪の子からよ」

給仕係の女性が視線を向けた先にはもちろん謙也の姿があった。それに倣い静も謙也に視線を向ける。

「いい子ね」
「はい。とてもいい人です」
「でも、あの手の子はいい子止まりで終わりそうね」

女性の的確すぎる一言に静はどうにも答えを見つけられず、曖昧に苦み交じりの笑みを作る。
それじゃあ、と浅く頭を下げて静は受け取り口から向日たちの待つテーブルに戻る。無事零さずに着席を果たすと、一分もしないうちに侑士と謙也が揃って戻ってくる。

「おう、おかえり。先食ってるぞ」

そう言う向日のお盆に乗る皿はそろそろ空になりそうだった。待たせた手前それは当然であるし、みんな揃っていただきます、は小学生までのこと。まさか中学生にもなって先に食べただのなんだの言うつもりはない。それに料理だって温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べたほうが美味しいに決まっている。
遅れて来た三人が手を合わせていただきます、と呟くと日吉の視線が自分のお盆から静のそれに向けられる。

「広瀬、スペシャルデザート頼んだのか。すごいな、それ」
「え? あ、これは忍足さんが……」

ご馳走してくれたの、という静の言葉は岳人の声によって掻き消えてしまう。

「広瀬だけズリー! 謙也、俺にも奢ってくれよ」
「なんでやねん!」
「自分ら静かに食えんのかい」

侑士の大きなため息は謙也と向日、そして何故か巻き込まれた日吉による喧騒に紛れて消えてしまう。そんな賑やかな昼食の一幕を、静は箸を進めながら眺める。
氷帝学園に入学してから今日まで、こうして男子と一緒に昼食を摂ることがなかった静からしてみれば、今のこの状況はとても楽しくて、興味深くて、面白いものだった。同性同士では――そしてことこの氷帝学園に於いては、決してこんな賑やかな昼食時間は味わえない。それはきっと謙也の存在が大きい。そしてそんな謙也に触発された向日、向日によって嫌々巻き込まれる日吉、一歩引いた場所で見ながら的確な箇所でツッコミを入れる侑士の三人がいてこそのこの賑やかさだ。
男の子同士だったら毎日こんなに楽しいのかな。いいなぁ。
そんなことを考えていると、楽しい昼食休憩はあっという間に過ぎていく。気付けば皿もスペシャルデザートが盛られたグラスもすでに空で、静の胸の内はとてつもない幸福感で満たされている。

「美味しかったです。ごちそうさまでした」

ぱちん、と胸の前で両手を合わせ、お盆に向けて頭を下げると、どういうわけかほか四人の視線が静に集中していた。何故自分に注目が集まっているのかわからない静は困惑と焦りであわあわとするばかり。

「広瀬さんってめっちゃ行儀エエなぁ」
「それ! 俺も思ったわ」
「お嬢さん、エライなぁ」
「ちゃんと手を合わせてお辞儀をするあたり育ちの良さを感じますね」

いつも自分が何気なくしている所作にこうも注目され、なおかつ称賛されるとは思ってもみなかったため、静は顔を真っ赤にして俯くしかできない。
しかも相手はいつも昼食を共にしている友人ではなく異性でかつ四人中三人は先輩だ。部活動に所属していない静は当然ながら先輩に手放しで褒められる機会が少ない。いや、ほぼ無いと言っても過言ではない。従って、今のこの状況は静にとって様々な感情が入り乱れて心の許容量を軽く超えてしまう。

「あ、えっと……あ、ありがとうございます……」

消え入りそうな声でそう返すのが精いっぱいで、この後どうしたらいいか真っ白になっている頭で考えようとするも上手く思考がまとまらない。
と、そこへまさしく救世主のようなタイミングで静のスマートフォンが着信を知らせる。すぐさま画面を見ればそこに映し出されていたのは跡部運営委員長の文字。すみません、と一言詫びて通話ボタンを押す。

「広瀬、今どこにいる?」
「食堂です」
「食事中か?」
「いえ、今食べ終わったところです」
「そうか、なら今から会議室に来い。打ち合わせしておくことができた」
「わかりました」

端的に、用件のみの通話を終えてスマートフォンをスカートのポケットにしまい顔を上げる。

「すみません、委員長に呼ばれたので……」
「お嬢さんも大変やな。片しとくから行ってエエで」
「いえ、そういうわけには、」
「エエよ! 跡部くんの用事の方が大事や。食器片すくらい訳ないんやし」
「謙也の言う通りだぜ。跡部待たせると後が怖ぇぞ」
「向日さんそうやって脅かすのはよくないですよ」
「日吉はいちいちうるせーな!」
「ほな、ここはエエから」

さあ、ほらと謙也が半ば強制的に椅子から立ち上がらせ背中を押す。申し訳なさでなかなか足が動かない静であったが、さすがにここまでされてしまっては跡部の待つ会議室に向かわざるを得ない。

「ありがとうございます」
「気ぃ付けてな!」
「はい!」

深々と頭を下げると、静は会議室までの道のりを駆ける。その後姿を見送った後、残った男四人も作業に戻るべく席を立つ。けれど、冷房の効いた食堂から灼熱地獄とも言える屋外に出るのは、どんなに気持ちを強く持っていたとしてもなかなかそれは行動には移せない。

「日吉から行けよ」
「何でですか。ここは先輩が先陣を切るべきでしょう」
「ほな、謙也で決まりやな」
「なんでやねん!?」

そんなやり取りが何回か続き、誰が先陣を切るかで数十分揉め、結局その日は四人とも日が傾くまで食堂から一歩も出ることはなかったのであった。


謙也のそれは殆ど無意識だった。
静が視界の端に入るたびに足を止め、その姿を見ようと体の向きを静のいる方へ変える。じっと、声をかけるわけでもなく、見ているだけ。
傍から見ればとても不思議で、言い方を変えれば悪目立ちをするような状態であるにも関わらず、それに気付いているのは侑士だけ。しかもその状態の謙也に対して特に何かを言うわけでもなく、侑士も侑士で見ているだけ。否、見守っているという方が適切であるかもしれない。謙也の、今はまだ本人すらも自覚していない静への特別な思いを、揶揄うでもなく笑うでもなく、ただ、見守っている。謙也本人が気付く、その時まで。
そして今日も謙也は足を止める。静の姿を遠くからじっと見つめ、たまに目を細め、わずかに口角を上げる。まるで愛おしいものをその目に焼き付けるかのように。

「なあ、侑士」
「なんや」
「謙也ってたまにボーッと突っ立ってることあるけど、どうかしたのか?」

流石の向日も何度も見かけるからか、その様子にようやく気づいたようで、侑士にそんな疑問を投げかける。侑士は少し考えて、「何もあらへんよ」とだけ返す。

「そっか? まあ侑士がそう言うならそうなんだろうけど」

だけど、と向日はボソリとこぼす。

「いつもやか……うるさいくらいの謙也がああやってぼーっと突っ立ってるとなんか……変な感じだよな」
「せやなぁ。やかましい謙也があない静かやとなんや不気味やな」
「お前! 言い方! 俺が気を遣ったってのに!」
「ん? ああ、気ぃ遣うとったんか。なんや変な言い方しとるなぁ思たわ」
「侑士って身内にはなんか辛辣だな」
「アホか。こんなん謙也だけや」

はぁ、と大きくため息を吐き出して今一度謙也を見やる。すると、すでに静の姿は無くなったのか、謙也は何事もなかったかのようにこちらへ歩いて来ていた。

「もうエエんか?」
「ん? 何がや?」

侑士の疑問に謙也は首を傾げる。その仕草は本当に何を尋ねられているのかわからないといったようで、侑士はそれ以上言葉をかけることはなく肩を竦ませるだけにとどめる。その様子を見て謙也も何かをくみ取ったのか口を噤む。そんな二人の独特のやり取りを隣で見ていた向日は眉を寄せる。

「お前らってたまに双子みたいだよな」

向日の言葉の意図を掴み切れず、今度は侑士と謙也が揃って眉を寄せる。

「岳人、何言うとるん?」
「いや、何でもねーよ。それよりもさっさと作業しちまおうぜ」
「……? ん、せやな」

多少の引っ掛かりを感じはするものの、向日がこれ以上詮索するなとばかりに背を向けてしまえば、侑士にそれ以上言葉をかける術はないし、謙也にはもっとそれがない。必然的に三人は閉口し作業に集中することとなる。けれどそれもものの数分限り。口火を切ったのはやはりとも言うべきか、向日だった。

「そういえば俺、たこ焼き屋のメニューですげーいいやつ思いついたんだけどさ」
「お? なんや」

向日の雑談ともとれる言いだしに乗ったのは謙也だけ。こう言う時の向日のいいやつは大抵ろくでもないことやものであることが多いことを経験上から学んでいる侑士は、再び眉を寄せ苦い表情を作る。その間にも向日と謙也の会話は盛り上がっていく。
これ止めなアカンやつっぽいな。
次第に熱が入る二人の会話を止めようと侑士が息を吸い込んだまさにその時。

「侑士! これから試作するから食べてみてくれよ!」

向日のその瞳は完全に揶揄いモードに入っている。いつもであるならのらりくらりと躱す侑士であったが今回、というよりこの場には謙也というイレギュラーな存在がいる。侑士が口を開くよりも前に謙也がその肩に腕を回し、逃がさないとばかりにがっちりホールドする。

「ちょ、謙也やめや」
「エエやん! 侑士もきっと気に入るで! 知らんけど」
「知らねーのかよ!」

向日の切れのあるツッコミに謙也の関西人としての血が騒ぐ。けれどそれをぐっと我慢して謙也はぐいぐいと侑士の肩を押し、食堂へ向かう。ずりずりと靴底がコンクリートにこすれ、その音が侑士の拒み具合を示している。

「押すなや」
「ならちゃきちゃき歩けばエエやろ」
「拒否ってんのがわからへんのか」
「ほら、侑士。諦めて歩いたほうがいいぞ」
「嫌やっちゅうねん……って岳人まで引っ張んなや」

あまりにも侑士が足を動かさないものだから、しまいには向日まで侑士の腕を引っ張り始める。謙也が押し、向日が引っ張る。まるでコントのような光景に周囲の視線は三人に釘付けとなる。さすがに好奇の目に晒されることが少ない侑士にとって、今の自分のこの状況はあまり芳しいものではなく。というよりもできることなら見ないでほしいとさえ思いつつ、けれどだからといって状況を打破するために自ら足を動かすほどこの二人の言う試作とやらに興味も関心もない。それどころか嫌な予感さえするのだから侑士が意思を持って足を動かすことは決して無い。
なんでこういう時に限って日吉は居らんのや。
もしこの場に日吉がいたのなら、理由はどうあれ少なくとも向日に関しては止めてくれるはず。けれど肝心要の日吉はいない。従って今この場に侑士を助ける人間は一人もいないわけで。
結局、押されるまま引かれるまま食堂まで連行、無理やり椅子に座らされ、向日が厨房に行っている間、謙也ががっちりと侑士を押さえつける。

「謙也、後で覚えときや」
「まあそない怒らんとエエやんか」
「お嬢さんにもチクったるわ」
「なんでそこで広瀬さんの名前が出てくんねん」

侑士の口から出てきた静の存在に謙也は僅かに首を傾げる。そしてその後にやってくる言い知れぬざわざわとした感覚。心が波立つようなそれは何に対しての、そしてどんな感情なのか、謙也自身もよくわかってはいない。けれど、片隅にぽつんと湧き出た嫌だ、という二文字。
何故だろう。どうしてだろう。
静の前では格好をつけたいと思う自分がいることに謙也は再び首を傾げる。
その答えを得る前に、向日が手に皿を持って戻ってくる。

「おー、出来たぞ! 自信作!」

皿の上に乗ったそれは至って普通のたこ焼きのように見える。が、向日の表情から侑士はこれが普通のたこ焼きではないことを悟る。そもそも普通のたこ焼きであるならばわざわざ食堂にまで足を運ぶ必要はない。それらを加味して考えられる結論に侑士は深く、そして大きくため息を吐き出す。

「岳人、食べ物を粗末にしちゃアカン」
「粗末にしてねーよ! 美味いものに美味いものを足しただけだっつーの!」
「それで成功した試しが一度もないやん」
「それは侑士が納豆嫌いだからだろーが! というわけでまずは謙也食ってみろ!」
「俺かい!」

そう言いつつ、謙也は楊枝でその中の一つを刺し口に放る。その瞬間、一気に顔色が変わる。

「どうだ!? 美味いだろ!」
「まっず!」
「はぁ!? お前の味覚どうなってんだよ!」
「いやこれは作っちゃアカンやつやろ!」
「言わんこっちゃない……」

一連のやり取りに侑士は肩を竦め、予想通りだと言わんばかりの反応を示す。

「アカン……これはアカン。破滅的な不味さっちゅー話や……。侑士水くれ」
「持っとらんわ」
「なんでやねん! ちょ、マジ、アカン! 水!」

手で口元を押さえ、謙也はスピードスターの名に相応しくあっという間に姿を消す。向日はその速さに呆気にとられ、侑士はもう跡形もないその姿に向けて「水ならそこに給水機あるで」とこぼした。

「うっわ……口の中まだ納豆やん」

ペットボトルの水を一本飲み干したというのに、未だ口の中に残る納豆のにおいと味。普段納豆を食べた時よりもそれらが強烈に残るのは、おそらくたこ焼きとの異色すぎるコラボレーションによるものだろう。

「向日の奴えらいもん作りよったな……」

体中の酸素を全て出し切るような大きな、大きなため息。自動販売機に背中を預け、首を傾け、雲一つない澄み切った青空を眺める。どうして空を見上げるのか不思議ではあるが、自然と首が傾くのだからしょうがない。
いったいどのくらいそうしていたのだろう。時間の感覚を忘れてしまうほど、というわけではないけれど、ずいぶんと長い間謙也はそうしていた。

「忍足さん?」

可憐な声に固まってしまった首をゆっくり下ろす。目に飛び込んでくるのは栗色の髪。

「お、わ……っ、えっ!?」

心の準備ができていない状態で視界に入った静の姿。驚きのあまり言葉が出てこない謙也と、そんな謙也の様子を可愛らしい笑みで見守る静。

「ひ、広瀬さんやんか! ど、どないしたん?」

完全に動揺が表に出てしまっている謙也の挙動不審な態度に、静は不審に思うこともなく笑みを崩さない。

「忍足先輩を探しているんですけど」
「ゆー、しを?」

静の口から出てきた侑士の名前。以前までの謙也であったなら特に気にすることもなかったのだろう。けれど無意識とはいえ静のことを意識し始めた謙也にとっては心のどこかで引っ掛かりを感じ、それが僅かに表に滲み出る。

「忍足さん、忍足先輩がどこにいらっしゃるか知りませんか?」
「え……、あ……その、」

いつも快活な謙也を見て来たからか、歯切れの悪い、ともすれば戸惑っている様子の謙也を見るのは初めてで、静は一瞬口を噤む。
もしかしたら訊いてはいけないことだったのかもしれない、もしくは訊かれたくなかったのかもしれない。静の心中に渦巻くそれは自然と頭を下げさせる。

「すみません、忍足さんなら知ってるかもと思ったのですが、四六時中一緒にいらっしゃるわけでもないのに忍足
先輩がどこにいらっしゃるかなんてわからないですよね。自力で探します」
丁寧に、自分の過ちでもないことに対しても頭を下げ、謝罪する真摯な姿は謙也の目にはとても輝いて見える。それじゃあ、ともう一度頭を下げて立ち去ろうとする静。
この輝きを逃したくない。
あ――と思った時には謙也の体は動いていた。

「……!」

咄嗟に伸ばした手は、静の白く華奢で滑らかな指を捕まえる。

「お、忍足……さん?」

戸惑い、困惑し、どうしたらいいかわからない。
手を掴まれた静は元より、掴んだ側の謙也も全く同じ心境だった。

「せ、せや! 今は侑士のとこ行かん方がエエで!」
「何故ですか?」
「めっちゃ不味いたこ焼きが待ち構えてるからや」
「めちゃくちゃ不味いたこ焼き、ですか?」

興味の引くワードだったのか、静は目をぱちくりとさせて聞き返す。謙也はこれまでの経緯を説明し、何故侑士の元へ行かない方がいいのかの理由付けをする。

「それは……、はい。急ぎの用件ではないのでもう少し時間を置いてから伺います」
「その方がエエよ。向日のことだから広瀬さんが居ったらきっと食わせるやろうし」
「それは遠慮したいですね」
「せやろ? やから暫くここで休憩してけばエエんちゃう?」

謙也の提案に、静はそうですねと頷く。けれど、一向にその場から動こうとしない静を見て、謙也は小さく手招きをする。

「そこ、日当たるやろ? こっち日陰やから」
「じゃあ、お隣失礼します」
「暑い日は日向に居るだけでも疲れるんやからどうしてもっちゅー時以外は日陰に居った方がエエよ」
「そうですね」
「…………」
「…………」

途切れてしまった会話。一度そうなってしまうと再び会話を続けるというのはなかなか難しい。しかも謙也と静との間にはまだその沈黙を良しとできるような空気感はなく、そして謙也自身も常に賑やかな四天宝寺テニス部に所属しているからか、沈黙というものに体が慣れていない。結果として謙也一人だけがそわそわとして落ち着かず右へ左へ視線が移動し、それと共に体も揺れる。傍から見れば奇妙、奇怪極まりない。

「忍足さん?」

あまりにも謙也がゆらゆら揺れているものだから流石に気になったのか、静は控えめに声をかける。声をかけられたことによって自分の体が揺れていることに気付いた謙也は動揺をうまく隠し切れないまま口を開く。

「なっ、なんや? あ、せや! なんか冷たいもん飲む!?」

自分が動揺していることに焦る謙也はそれを悟られないよう適当に、思いついたことを言葉にする。そんな謙也の思うところなど知る由もない静はそれに対して至極真面目に答えを口にする。

「え? いえ、でも私今お財布持ってないですし」
「そんなん俺が奢ったるわ!」
「そんな……、いえ、大丈夫ですので」
「遠慮せんと! 何がエエ?」

謙也の勢いに押される形で静はそれじゃあ、と自動販売機に並ぶ飲料の中から一つ選んで指を差す。白い指が示したものは一番安価な水のペットボトル。

「水でエエの?」
「はい」
「広瀬さん、遠慮しとるやろ」
「いえ、してません」

静の視線からそれが偽りのないものだというのは謙也にも分かった。静も遠慮はしていない。実際喉が渇いていたからがぶがぶと飲める水も飲みたいものの一つではあった。

「ほんなら、」

硬貨を投入口に入れ、まず謙也は水のボタンを押す。ガラガラ、という音とともに水のペットボトルが取り出し口に下りてくる。それを取り出して静に渡すと、すかさず再び投入口へ硬貨を入れ込む。次に謙也が押し込んだボタンはオレンジジュース。下りてきたペットボトルも静に手渡す。

「ほい」
「え? これ……」
「それ、美味そうやったからあげるわ」
「お金、あの、後で払いますので……!」
「エエて。俺からのプレゼントや」

ジュースを一本あげただけだというのに、静は本当に申し訳なさそうに眉と頭を下げる。先日の昼食もそうだが、四天宝寺テニス部には静のような謙虚さを持つ部員はほぼ――いや、皆無だ。だからなのか、謙也の心はどうしても揺れ動く。動いてしまう。
めっちゃエエ子やな……広瀬さん。
決して四天宝寺のメンバーが悪い人間というわけではない。むしろ彼らも彼らで皆個性的で一緒に居て楽しいし、笑いが絶えないのは土地柄というのもあるだろうが彼らの持ち味というのもある。比べるものではない、と理解はしている。静と四天宝寺のメンバーは所謂ジャンルが違うのだから。
そしてジャンルが違うからこそ今まで出会ったことのないタイプの人間――広瀬静という少女に謙也はどんどん惹かれていく。それは自身の意識していないところで、着々とそして深く、深く進んでいる。静の姿を見かけるとわざわざ立ち止まって、その姿をちゃんと見ようと姿勢まで正すほどに。

「でも……、じゃあ、何か、なんでもいいのでお返しさせてください」
「え!? いや、エエよ?」
「先日もお昼ご飯とスペシャルデザートを御馳走していただきましたし、今もお水とオレンジジュースを頂きましたし」
「あれは侑士が……、」

そこで謙也の思考が一度止まる。そういえば侑士からこの間の昼食代をもらっていないことに今更ながら気付いたからだ。

「忍足さん?」

謙也が急に口を閉ざし、何かを思い詰めるような表情をしたことから静は不思議に思い声をかける。その声に意識を引っ張り戻した謙也は静との会話中であることを思い出す。

「あ、いや……、なんもあらへんよ。で、えーっとお返しやっけ? そんなんエエよ」
「そういうわけにはいきません!」

ずい、と身を乗り出して迫る静と咄嗟に一歩引く謙也。先程とは逆。今度は謙也が静の勢いに押される番となる。じっ、と宝石のように輝く瞳にまっすぐ見つめられて、たじろかないと言えば嘘になる。というよりも多少なりとも気になっている異性からこんなにも見つめられて動揺をしないほど謙也は恋に慣れているわけではない。むしろ動揺しまくり、頭は真っ白になる。それは健全な男子中学生としては正しい反応で。そしていつまでも静からの熱心な視線を受け続けられるわけでもない。梃子でも引かないと態度で物語られてしまえば、謙也も諦めざるを得ない。かと言って、昼食とペットボトルを二本ご馳走しただけでそんな大層な返礼を求めるのも気が引けるし、そもそも謙也自身が大したことをしたわけではないと思っているから本来ならばありがとうの一言で済むような話だ。しかしそう説明したところで静の意思はきっと変わらない。それは静自身の性格であり、人柄なのだから。
だから謙也は真っ白になってしまった頭で必死に考える。考えて、考えて、ようやく糸口のようなものを見つける。

「土産……」
「お土産、ですか?」

謙也がぼそりと呟いた単語を静は復唱する。

「オカンに土産頼まれとったわ」
「えっと、それは東京土産でいいんですか?」
「いや、東京て限定はしとらんかったけど、なんでもエエから買うてこい言うてたわ」
「そうなんですか。でもせっかくなら東京でしか売ってない物の方がいい気がしますね」

うんうん、と静は一人首を振る。

「帰りの東京駅で適当に買えばエエやろて思っとったけど、俺やとよぉ分からんからもし広瀬さんがよければ一緒に選んでもろてエエ?」
「……! はい!」
「そんでお返しの件はチャラっちゅーことで」

上手いこと話をまとめられ、謙也は静に知られないように安堵のため息をこぼす。静の時間をもらうという点は多少なりとも申し訳なさを感じるが、金銭や物で返礼されるより、こちらの方が土産のことも含めて都合がいいし、何より謙也の気持ち的にも気が楽だった。

「よっしゃ、早速明日とか大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「ほんなら、明日の十時に駅前で待ち合わせでエエ?」
「わかりました」

気持ちがいいほどさくさくと予定が組まれ、最後に何かあった時の為に互いの電話番号とメッセージアプリのアカウントを交換する。

「よっしゃ、完了や! 明日はよろしゅうな!」
「はい。こちらこそよろしくお願いします。それと、お水とジュース、ありがとうございました」

丁寧にお辞儀をした後、静はそろそろ頃合いだろうということで食堂にまだいるであろう侑士の元へ向かう。
残された謙也の胸の音はいつもよりも大きく早く鳴っていた。

「それはデートやろ」
「……は?」

先日の昼食代を払うよう迫ったついでに先ほどまでの静とのやり取りを話したところ、侑士の指摘に謙也の頭は再び真っ白になる。

「いやいやいやいやデートやないやろ? やって、土産選ぶだけやで?」
「女の子と二人きりで買い物はれっきとしたデートやろ」
「デートっちゅーんは恋人同士がやるもんやろ!」
「別に恋人やなくてもデートくらいするやろ」
「そうなんか!?」

侑士の衝撃発言に謙也は脳天に雷を受けたかのようなショックを受ける。そんな従弟の様子を侑士は一つ大袈裟にため息を吐き出して流す。

「まぁ、エエんちゃう? お嬢さんとデートやなんてお前にしてはよぉやったやないか」
「誰目線やねん!」
「で、私服とか持って来とるん? まさか制服で行くやなんて言わんよな?」
「ん? ああ、持って来とるで!」

にかりと白い歯を見せて謙也は自分の胸を叩く。念のため、否、嫌な予感がして侑士はちなみに、と言葉を続ける。

「どんなん?」
「これや!」

と、謙也が自分のスマートフォンのアルバムから選んで見せた写真は、黄色や緑、紫など原色が強めの服を着た謙也の姿が映し出されている。
普段、他人の着るものに茶々を入れるような侑士ではない。それは似合っていればその人間がどんな服を着ていようがいいと思っているからなのだが、流石に従弟の――おそらく初めての、しかもまだ好意に対して無自覚な状態でのデートで着ていくには、画面に映し出されてたその服装はあまりにも挑戦的だった。

「アカン。その服でデートなんて絶対行ったらアカン」
「なんでやねん!」
「お前、ここはホームグラウンドの大阪ちゃうねんぞ。アウェイやアウェイ」
「ホームとかアウェイとか関係ないやろ!?」
「謙也、前にも言うたよな? そっちの普通はこっちやと当てはまらんこともある、て。ましてや相手はお嬢さんやで。おそらく向こうも人生初デートや。そこにお前の普段着てる服で行ってみ? 絶対引かれるわ」
淡々と、諭すように、侑士は謙也に言葉を突き刺していく。それこそ遠慮なんてしない。それは従弟だから、というのもあるがちゃんと言葉にしなければ伝わらないというのはこれまでの人生経験上で学んだことだ。

「うぐ……、ま、まぁ……侑士がそない言うなら……」
「それにしてもお前よくそんなけったいな服でお嬢さんとデート行こ思たな? びっくりするわ」

ため息交じりにそう言えば、謙也はなんでやねん! と反旗を翻す。

「けったいてなんやねん! 俺の勝負服やで!」
「その服着とるお前の横を歩くお嬢さんが可哀想やろドアホ」
「そない言わんでもよぉないか!?」

侑士のあまりにも歯に衣着せぬ物言いに謙也は若干涙目になる。いくら遠慮しない間柄とはいえ、流石の侑士も多少なりとも言い過ぎたと感じたのか一度口を閉ざす。

「とにかく服貸したる。明日はそれ着て行きや」
「納得できん」
「納得せんでエエわ。これはお前とお嬢さんのためや」

自分と静のため、と言われてしまってはこれ以上言い分は通せないと謙也は悟り、結果として口を噤むしかなくなる。

「おーい! 侑士、謙也ちょっと来てくれー!」

向日の声に侑士と謙也は揃って返事をし、話はここまでとばかりに一緒に向日のもとへ向かった。


八月二十八日、午前七時。
滞在しているホテルから侑士の家にやってきた謙也は寝ぼけ眼の侑士をたたき起こし、本人的には渋々ではあるが服の貸与を申し出る。未だにぼうっとする頭をぐらぐらと揺さぶられた気持ち悪さとたたき起こされたことによる不機嫌さで侑士が物理的に謙也に突っ込みを入れる。

「やめーや……。ちゅうか来んの早すぎやろ……。何時に何処待ち合わせやねん」
「え? 十時に駅前やけど」
「早すぎや……。着替えと駅までの距離と十分前到着で考えても小一時間あれば余裕やろ……」
目を擦り、大きな欠伸を零しながら侑士はベッドから起き上がるとクローゼットから何着か服を取り出してベッドにそれらを広げる。

「……ん。こん中から選びや」
「……地味やなぁ」

謙也のぼやきに侑士は眉一つ動かさず、ほなと朝の身支度を整えるために自室を後にする。
パタン、とドアが閉められ、残された謙也はベッドに広がる落ち着いた色合いの服を微妙な顔をして眺める。モノトーン、紺、深緑、濃いめの紫。その中でまだ明るいと言えるのはくすみがかった水色だけだった。

「ホンマ侑士と服の趣味合わんなぁ」

うーん、と首を傾げ謙也は一着ずつ見分していく。
トップスはパーカー、カジュアルシャツ、ティーシャツ、ベスト。
ボトムはジーンズ、カジュアルパンツ、カーゴパンツ、チノパン。
選択の幅を持たせようとしたのか、侑士がクローゼットから取り出した服は結構な種類があった。その中からあれやこれやと謙也が組み合わせを考えていると、身支度を整えた侑士が戻ってくる。

「服決まったん?」
「ん? おお、これとこれ借りてくわ」

謙也が手に取ったのはグレーの半袖パーカーと紺のカーゴパンツ。普段の謙也の服装からは考えられないような大人しめの色合い。それは本人も自覚しているようで、なんや落ち着かんわとこぼす。

「エエんちゃう? それならお嬢さんも引かへんやろ」

選ばれなかった服を片付けながら侑士が少し目を離した隙に、謙也は既に着替えを済ませていた。ミュージカルの早替えか? と思いつつもいちいち突っ込むのも面倒になって、特に何かを言うこともなく、侑士はまっさらになったベッドに腰を掛ける。謙也は謙也で姿見で何度も自分の恰好を確認し、眉間に皺を寄せる。

「やっぱ地味やな」
「地味地味うっさいわ。そういやオカンが謙也の分も朝飯作っとったで。食ってくやろ?」
「マジか! めっちゃ嬉しいわ!」
「これからデートなんやから零すなよ」
「ガキやないんやから零さんわ!」

そんなやり取りを終えて、謙也は姿見から視線をはずし侑士はベッドから立ち上がった。

同日、午前九時三十分。
気が急いて待ち合わせ時間よりも三十分早く到着したというのに、静の姿は既にそこに在った。
白と桜色のグラデーションがかかった半袖のパーカースカートに花のワンポイントがついたレースアップサンダル。右肩から左腰に掛けて下げられた帆布のポシェット。今日は特に暑いと天気予報で言っていたからか、いつも下ろしている髪は涼しさを感じさせる波紋模様が描かれ、金魚のチャームが付いたバレッタで纏められている。
当たり前だがいつもは氷帝の基準服を身に着けているため、静の私服姿を見ることは謙也にとって初めてで。だからその新鮮さと静らしさが出ている服装に大きく胸が鳴るのも仕方のないこと。

「忍足さん!」

静が謙也の姿を見とめ、右手を上げて所在を示す。そんなことをしなくても謙也は静の居場所を把握しているのだが、何故だろう。無性にそれが嬉しくて口角が上がりそうになるのを必死に抑える。
一歩、一歩。進むごとに縮む距離。たった十数メートル。いつもなら三秒とかからない距離だけれど。今日は――今日ばかりは速さを求めるのではなく。一歩を大事に、歩きたいと思った。

「広瀬さん早いなぁ! 待ったか?」
「いいえ、私も今来たところです。それに忍足さんもまだ待ち合わせには十分すぎるほど早いですよ」
「俺はまぁ、その、せっかちやからな!」

間違いではない。
本当のことを言っているわけでもないのだが。
けれどそれは静からしてみればあずかり知らぬところであるし、知らなくてもいいことだ。

「でもこの時間だとまだお土産物屋さんは開いてないですね」
「せやな……。どっかで時間潰そか」
「この時間帯から開いてるとなるとファストフード店か喫茶店くらいでしょうか」

謙也と静、それぞれが自分のスマートフォンを取り出して地図アプリを開く。現在地で検索をかけ、最寄りのファストフード店もしくは喫茶店を探すと、駅前というのもあってか、候補は片手で数えられないくらい出てくる。その中から比較的学生の小遣いでも飲食ができる店をピックアップする。

「こことかどうでしょうか?」
「お! エエやん!」

静が提案したのは現在地から徒歩三分以内にある、全国展開している喫茶店のチェーン店。値段も手頃であるし調べたところ座席数もここら一帯で一番多い。これならば余程のことがない限り満席になることもない。

「ほな行こか!」
「はい」

これが恋人同士の初デートであったならば手でも繋げたのだろうが、生憎と謙也と静の間柄は恋人はおろか友達にも満たない。先輩後輩でもないが、知り合いというと少しだけ距離が遠い。謙也も静も今の自分たちの関係性を何と表現したらいいかわからない。だから、手も繋げず、だからといって距離をあけることも出来ず、微妙な間隔をあけながら二人は目的の喫茶店への長くもない道のりを歩きだす。
徒歩三分以内の表記通り、あっという間に目的地に到着する。入り口まで行くとガラスドアが左右に分かれ、謙也と静の来店を歓迎する。店内は冷房が利いていて歩いて火照った体を心地良く冷やしていく。

「広瀬さん、先席取っといてくれるか? あと、何がエエ? 一緒に買ってくるで」
「えっと、じゃあ……」

そう言って、静は店員が立つカウンター上のメニュー表をじっと見つめる。けれど普段こういった喫茶店を利用しない静にはまるで魔法のような単語の羅列に見えてしまう。それに加え、味が想像できない飲み物ばかりでいったいどれを選べばいいのかわからず、ぐるぐるとメニューの単語が頭の中を駆けまわる。そんな様子の静を見て、謙也が助け舟を出す。

「広瀬さんは普段何飲んどるん?」
「えっと、紅茶とかジュースとかです」
「ほな、アレなんてどうや?」

謙也が指さした看板に貼ってあった写真には季節限定のメニューのうちの一つ、柑橘系のジュレを入れたアイスティーが写っている。見た目にも爽やかで涼やかで、かつ比較的味が想像しやすい。云々と悩んでいた静の視界が急に開ける。

「はい! あれにします」
「ん。買うてくるから広瀬さんは席取っといてな」

そう言って謙也は注文するためにカウンターへ、静は言われた通り適当な席を見繕う。
タイミング的に社会人は出社の時間を過ぎているためなのか店内にはさほど客の姿はなく、片手で数えられる程度。どうしようか、と静は店内を見渡して、なるべく外の熱気が入ってこない奥の方の席を見つけ、そこへ腰を下ろす。
ふぅ、と一息ついたところで謙也がグラスを二つ乗せたトレイを持ってやってくる。

「ほい」

席に余裕はあるが、わざわざ隣の椅子に座るのもどうなのだろう、と謙也は静の向かいに腰を下ろす。トレイをテーブルに置き、ストローを挿してから自分と静のグラスを取り分ける。
静のグラスは写真の通り爽やかで涼やかでかつ可愛らしさも垣間見えるジュレ入りアイスティー。一方、謙也のグラスはアイスクリームが乗ったソーダが入っている。今時の喫茶店にはなかなか無いそれに、静の視線は釘付けになる。

「それ美味しそうですね!」
「せやろ! 俺もそう思ってこれにしたんや。広瀬さんのも美味そうやな!」
「はい。忍足さんのおかげです」
「おん?」

静の感謝の言葉に謙也は首を傾げる。特に礼を言われるようなことをした覚えはない、と態度で示せば静はこれ、と自分のグラスを指差す。

「忍足さんにお勧めしてもらわなかったら私は多分これを選んでなかったです。というよりもまだメニューで迷ってたと思います。だから、ありがとうございます」

にこりと笑みを作ると謙也からは鈍い返しが戻ってくる。

「忍足さんはこういうところによくいらっしゃるんですか?」
「せやなぁ。結構白石とかと一緒に行くな」
「白石……さんですか?」

聞き慣れない名前に静は首を傾げる。それもそうだろう。静は謙也の人間関係や交流関係を殆ど知らない。家族構成も知らない。知っていることは侑士の従弟ということと四天宝寺中学校のテニス部に所属しているということくらいだ。

「ああ、白石っちゅーんは四天宝寺テニス部の部長なんやけど、めっちゃイケメンでバレンタイン校内ランキングは毎年一位やのに全然気取らんエエ奴なんやで! 左腕に包帯巻いとるから見たらすぐわかるし、確か今回山吹中にゲストで呼ばれてるって言うてたわ」
「そうなんですね。ふふ……、忍足さんはその白石さんって方のことが好きなんですね」
「え!?」

好きという単語に大袈裟に反応する謙也とそんな慌てふためく謙也を見て笑みを漏らす静。

「だって忍足さん、白石さんのことを話している時、とても誇らしそうでしたし嬉しそうでした」
「あ、そっちの好きか、なんやびっくりさせんといてな」
「そっちの好きってどっちのですか?」
「気にせんといて……。俺の早とちりやったわ」

小さくため息を吐き出して謙也はソーダを吸い上げる。しゅわしゅわと炭酸が口内を満たし、溶けたアイスクリームとソーダの甘さが混ざり合って丁度いい塩梅となっている。謙也がストローを口から離したタイミングで静がポシェットから財布を取り出す。

「忘れないうちにお支払いしておきます。忍足さん、お幾らでしたか?」
「ん? ああ、エエよ」
「そういうわけにはいきません!」

なんてことのないように言う謙也に食い気味で反論する静。テーブルに乗り出さんばかりの勢いに押されつつも、謙也は男に二言はないとまっすぐ視線を返す。

「今日は俺に付き合うてもらうんやしこれくらい当然やろ」
「いえ、でも」
「エエからエエから」

ははは、と笑いながら謙也は今朝侑士に言われた言葉を思い出す。

「エエか、謙也。今日はデートなんやから絶対お前一人で突っ走っちゃアカンで。それとお前の都合に合わせてもろうとるんやから支払いは全部自分が持つくらいの心持ちでいきや」

元よりそうしようとは思ってはいたが、侑士に口酸っぱく言われ謙也は改めて気を引き締めた。
だからいつもよりも意識して歩くスピードを落としているし、飲み物もいつもなら即行飲んでしまうところを静の飲むスピードに合わせている。早さを極めていると言っても過言ではない謙也からしてみればかなり気を遣っているし、相手が静でなければいつもの自分のペースを守っていただろう。
静でなければ。
静だから。
心に僅かにできた引っ掛かり。
なんで?
どうして?
そこから湧き出る疑問。単に女の子だから、というだけではない。
これは。この気持ちは――。
謙也がその答えを探している間にどうやら時間は面白いくらい経っていたようで、気付けば時計の針は十時をとうに回っていた。

「忍足さん? どうかしましたか?」
「ん? あ、や、何もあらへんよ。ボーッとしてすまんな」
「いえ」

見れば静のグラスはすでに空になっている。謙也は慌てて自分のグラスを手に取り、溶けてソーダと混ざったしまったアイスクリームごと喉に流し込む。静からは慌てなくて大丈夫ですよ、と声がかかるが人を待たせることに慣れていない謙也はそれを聞き流して殆ど残っていたグラスをものの数秒で空にする。

「よっしゃ! 行こか」
「はい」

同時に席を立ち、静が身支度を整えている間に謙也はトレイに二人分のグラスを乗せ返却口に向かう。

「ありがとうございます」

店員のにこやかな笑みにつられる様にして謙也も口角を上げる。

「ご馳走さんでした!」

くるりと踵を返し、謙也は静の元へ戻る。静もその場で店員に向け会釈し、謙也との合流を待って揃って店を出る。
二人が退店した後、しばらく店員の間で仲のいいカップルだと噂になったのだが、それはまた別の話である。
喫茶店を後にした謙也と静は再び駅前に戻ってくる。

「それじゃあお土産屋さん巡りを始めようと思うのですが、忍足さんのご希望はありますか?」
「えっ、あー……せやなぁ」

静に言われ、謙也は初めて自分が何も考えずにここに来ていることを思い知る。
土地勘がないのだから仕方のないことではあるが、せめてどんなものを買おうかくらいは考えてくるべきだった――と後悔しつつも、急いで候補をピックアップする。定番どころだと菓子や小物だろう。しかしただでさえ着替えやラケット、シューズなどでいつもよりも荷物が多い上に、帰りの新幹線の座席のことを考えるとなるべくなら手荷物は少なくしたい。きちんと考えながら買い物をしなければすぐに両手いっぱいの荷物を抱えることになるのは見えている。
謙也が云々と悩んでいる間に、静はポシェットから一枚の紙を取り出す。

「昨日一日しかなかったのと忍足さんのお好みがわからなかったのであまり調べられなかったのですが……」

そう前置きをして静はそれを謙也に手渡す。

「これ一日っちゅーか昨日帰ってから調べたん? めっちゃ書いてあるやん!」

謙也がそう言うのも頷ける。何せその紙には上から下までびっしりと候補先が書かれていた。有名どころからおそらく関東、東京でしか展開していない店、更には観光スポットまで多岐にわたる。
静は毎日重いファイル類を持って会場内を走り回っている。加えてこの連日は猛暑日で疲労度もかなり高い。運動部に所属していない静の体力はそこまであるわけではなく、家に帰ったらすぐにでも休みたいはず。なのに、昨日の今日でここまで調べたとなれば謙也の胸中はありがたさと申し訳なさでごちゃ混ぜになる。

「いえ、これくらい」

謙虚な姿勢でやんわりと手を振る静の姿に、謙也の心はぎゅっと締め付けられる。
ホンマ、エエ子や。エエ子すぎて心配になるくらいやわ。
心の奥底で、ひっそりとそんなことを考えながら謙也は今一度静から渡されたリストに目を落とす。さすがに上から順に、となると時間も予算も到底足りない。何か所か場所を絞らなければならないが、見れば見るほど興味を惹かれる所ばかりで一向に決められる気配がない。早いところ決めなければ延々とこうしていそうであるし、時間は有限だ。どうしようか、と悩んでいると、今度は静が助け舟を出す。

「えっと、リストアップしておいてなんですが、ここなら大抵のお土産が買えると思います」

そう言って静が指差したのはリストの一番下に書いてある大型商業施設の名前だった。

「全国展開しているお店も入ってますが、関東や東京にしかないお店も入っていたり、食品だけじゃなくて雑貨屋さんなども入っているので、たぶんここなら一か所で済むかもしれません」
「ホンマか! 何か所か行こかと思とったんやけど一か所で済むんならそっちの方がエエな!」
「じゃあここに案内してもいいですか?」
「頼むわ!」

決まれば早かった。それじゃあ、と歩き出す静を追って謙也も踏み出した。

件の大型商業施設は駅から数分歩いたところにある。建物自体もそうだが併設の駐車場もかなり広く、敷地全体でテニスコート何面分だろうか? などと考えながら謙也は入り口で一度立ち止まる。

「うっわ……めっちゃでかいやん」
「はい。この近辺では一番大きな商業施設で、ここに来れば大抵のものは揃うという謳い文句です」

自動ドアを入ってすぐのインフォメーションで館内案内をもらい、広げる。
地上五階建て。一階が主に食品フロア、二、三、四階が非食品・サービスフロア、そして五階がレストラン街となっている。一フロアを一通り見るのに一時間は余裕でかかるくらいの大きさに謙也は感嘆のため息を零す。

「行きたい場所が決まっていればそこから行きますが、特に決まっていないようでしたら上から順繰りに行きますか?」

静の提案に謙也はせやな、と頷く。

「店の名前とジャンルだけやとよぉわからんし、一通り見るんがエエかな」
「わかりました。じゃあエレベーターで一気に四階まで行きましょう」

インフォメーションの奥手側にあるエレベーターで四階まで上がり、フロアに降り立つ。消音機能のあるマットが敷かれた廊下には各店舗の看板が出され、個性的なそれらは見ているだけでも十分楽しい。
謙也と静、二人並んであちらこちらへ首を傾けながらウィンドウショッピングをし、気になる店があればその都度入っては買い物をする。土産半分、自分の買い物半分といった感じでどんどんフロアを移動していき、二階フロアに到着する頃には謙也の手にはいつの間にかショッピングバッグがいくつもぶら下がっていた。
流石の静も見兼ねてか、右手を謙也の方へ差し出す。

「忍足さん、よかったら持ちますよ」
「エエて! 俺の買い物なんやし」
「でもまだお買い物されるんですよね? このままだと手が一杯になっちゃいますよ」

静の言い分は尤もであるのだが、謙也としては全部自分の買い物であるし、そもそも女子である静に物を持たせるというのはどうしても気が引ける。重いものはないが、それにしたって、である。

「ほんなら、持てんくなったら頼むわ」
「はい!」

持てそうにないくらいは買わない。それは自分への戒めだった。静に持たせるわけにはいかないし、そもそも帰りの新幹線で困るのは謙也自身。最終的に無理そうだと判断したら宅配便で送るということも視野には入れているが、なるべくなら余計な出費は抑えたい。配送料も馬鹿にならないのだから。

「あ、忍足さん。ちょっとお手洗いに行ってきます」
「ん。ほな俺はあっちの隅に居るわ」
「はい、すぐ戻ります!」
「ゆっくりでエエよ」

静が手洗い場へ消えたのを見て、謙也は店のガラス壁にもたれ掛かりずりずりと腰を落とす。大きく息を吐き出して、がくんと頭を落とす。

「なんなんやろうなぁ……」

ぐっと右手で心臓のあたりを掴むと、運動をしているわけでもないのにいつもよりも早い鼓動が伝わってくる。
広瀬さんと朝会うてからずっとこん調子なんよなぁ……。
はぁ、と再び大きく息を吐き出す。
それがどうして起こっているのか――。謙也は気付きかけている。
そして自分の、静に対する気持ちにも――気付きかけている。

「帰ったら侑士にでも相談して……あー、でもなぁ……」

ガシガシと頭を掻いて謙也は頭を上げる。
そして、見つける。それは謙也が背中を預けている店の向かいの店舗にディスプレイされていた。
謙也はすぐさま立ち上がり、荷物を持ってその店に駆け込む。

「あの、あそこにあるやつ……! あれ、ください!」

謙也の勢いに押され、店員は僅かに身を引きつつも、そこはプロらしくすぐさま笑みを作り「畏まりました」と一礼する。

「プレゼント用でしょうか?」
「はい」
「リボンシールが赤と青からお選びいただけます」
「赤で」
「はい。では少々お待ちください」

手際よく商品を包み、ものの数分で会計まで終え、謙也が店を出たところで静が手洗いから戻ってくる。

「すみません、お待たせしました……!」
「ん、全然待ってへんよ。それよりも広瀬さん、腹空かん?」
「そうですね、空いてきました」
「ほな、そろそろ昼飯食おか」
「はい。レストラン街は五階ですけど、軽食ならこの階にある喫茶店でも摂れるみたいです。忍足さんのご希望はありますか?」

せやなぁ、と謙也は首をひねる。普段ならガッツリ昼食を摂るところだが、今日は静と一緒であるし、多少は気を遣うべきなのかもしれない。
静の服装だと汁や油が跳ねる系は控えた方がいいだろうし、かくいう謙也も今日は侑士から服を借りている。なるべくなら汚さずに返したい、という思いはある。そしてここで大事な要素となってくるのは予算だ。財布の中身を思い出しながらあとどれくらい使えるかを計算する。そうすると候補はだいぶ絞られる。
ポケットに突っ込んでいた館内案内を引っ張り出し、予算などを鑑みて二つほど候補を上げる。

「オムライスか丼物がエエな」
「それじゃあその二店に行ってみて混み具合で判断しましょうか」
「せやな」

頷いて、謙也と静は並んで歩き出す。エレベーターに乗り込み五階まで一気に昇る。目的の二店はエレベーターを降りて少し進んだところに隣り合ってあった。
昼時を少し過ぎたからかどちらもさほど混んではおらず、すぐに席に案内してもらえそうだった。ディスプレイと掲示されているメニューを交互に見て、迷いはどんどん加速する。

「どっちも美味そうやな」
「そうですね。迷っちゃいますね」
「広瀬さんはどっちがエエ?」
「え? えーっと、そうですね……。家であまりオムライスは作らないのでどちらかといえばオムライスの方がいいかなって思います」
「ん。ほなオムライスにしよか」

メニューから顔を上げ、店に入る。レトロな雰囲気の店内は趣があり、ゆっくり食事をするには最適だ。謙也の荷物のこともあるからか、広めの四人掛けの席に通される。グラスと氷がたっぷり入ったピッチャーがテーブルに置かれ、続けてメニューを手渡される。

「こちらがランチメニューでそちらが季節のメニューと今月のおすすめでございます。それと本日はカップルデーとなっておりますので、アイスクリームをお付けできます」

店員の流れるような説明でついうっかり聞き逃してしまいそうになったところを、静が驚いて手元から視線を急上昇させる。

「え、今……、カップルって……」
「はい。あ、もしかしてご家族様でしたか?」
「カップル! カップルです俺ら!」
「おっ、忍足さん……!」

静の慌てた声を制して、謙也はそう宣言する。店員も特にそれ以上追及することなく「決まりましたらベルでお知らせください」と言い残し去っていく。後に残ったのは何とも言えない表情を作る静と僅かに苦みを帯びた笑みを浮かべる謙也。

「忍足さん……」
「あ、いや……その、勢いっちゅーか、アイス付くんならエエかなと思て」
「もう言ってしまったことはしょうがないですけど、忍足さんのご迷惑じゃないですか?」
「迷惑? どういうこっちゃ?」

言っている意味がよく掴めないとばかりに謙也は首を傾げる。

「その……私が忍足さんの恋人として見られることが、です」

モジモジと恥ずかしそうに、呟くように、静は視線を右へ左へやる。そんないじらしい様子に気付いてか、気付かないでか、謙也は真っ直ぐ思っていることをそのまま言葉にする。

「え? 全然迷惑やないけど。むしろ役得やん」
「役得、ですか?」
「やって、広瀬さんめっちゃ可愛えしエエ子やしむしろ俺の方がエエんか、って感じやろ」

意識をして言ったわけではない。むしろ無意識の内に心の奥底に在った想いを口にしてしまった。だから、謙也は気付かない。聞きようによっては、それは告白のようなものだということを。

「そ……、そう、ですか……」

真っ直ぐ向けられた視線と言葉に耐えきれず、静は頬を染め顔を伏せる。そして周りの客もそんな二人のやりとりを見て微笑みを向ける。

「広瀬さん、何にする?」
「えっ、あっ……、そうですね……」

謙也の導きにより静は手元のメニューに目を向ける。空腹も手伝ってか、どれもこれも美味しそうに見えてしまう。

「よっしゃ、俺はこれにするわ」
「えっ」

メニューを見てからまだ一分も経っていないというのに謙也はもう食べたいものを決めてしまい、静は思わず顔を上げる。

「もう決めたんですか?」
「実は入る前からもう決めてたんや」
「す、すみません……! 急いで決めます!」
「ゆっくり悩んでエエで」

薄く笑って謙也は深く椅子にもたれ掛かり、ちらり、と数あるショッピングバッグの中からある一つを視界に入れる。そしてその中に入っている物を思い浮かべる。
いつ、どうやって渡そうか。
脳内シミュレートをしてみるものの、こういったことに不慣れなためか、なかなかうまくいかない。こんなことなら侑士に恋愛小説の一冊でも借りて読んでおくんだった、と若干の後悔を覚える。
喜んでほしい。そしてできるなら気に入ってもらえたら嬉しい。
異性に対して何かを買ったことも。そしてそれをプレゼントしたいと思ったことも。謙也にとっては初めてのことだった。

「決めました」

静のその声で謙也は意識を目の前のことに切り替える。というよりもなんやかんや考えたりシミュレーションしたところで結局その通りにはならないだろう、と思ったからだ。だから出たところ勝負。どう転ぶかはわからないけれど、いい結果になればいい――と願う。

「どれにするん?」
「これです」

静の白くて細い人差し指はランチメニューのきのこの和風オムライスを指し示す。ランチメニューだからか、値段も手頃でドリンクもついてくる。学生向け、というわけではないだろうが内容は十分だ。

「忍足さんはどれにするんですか?」

静の問いかけに謙也はこれや、と静が指さしたメニューの隣――ハンバーグ付きのデミグラスソースがかかったオムライスを指し示す。ボリュームも価格も申し分ないそれに静はふふ、と笑みをこぼす。

「ん?」

変なタイミングで笑いが起きたことに謙也は不思議に思う。別にギャグやネタを披露したわけではない。ただ単にメニューを指さしただけだ。

「たぶん、忍足さんならこれを選ぶだろうなって思ってました」
「なんや、広瀬さんエスパーか?」
「違いますよ。ただ、なんとなくこれが一番ボリュームがありそうだしハンバーグとオムライスどっちも食べられてお得だろうなって思っただけです」
「やっぱエスパーやん。あ! すんません!」

はは、と今度は謙也が笑みをこぼす。
すぐ近くにいた店員を呼び、注文を終えると途端に会話が途切れてしまう。
まだそれほど仲が良いとは言えない謙也と静にとってこの沈黙、間はどうしたものかと悩まされるもので。できれば食事が来るまで何かを話していたいが、その何かがわからない。
普段は違う学校に通い、歳も一つ違う。そして運動部と帰宅部の二人の間にある共通点といえば学園祭に関したものしか思い浮かばない。けれど、咄嗟に思い浮かばない上に必要な連絡などはその都度しているから今急いで確認をすることもない。
一分、二分。時間だけが過ぎていく。
どないしよ。
どうしよう。
まるで心の声が互いに聞こえてきそうなほど二人の表情はひっ迫している。事情を知らない人間が見たならば眉を顰めそうなほどである。
けれどその痛いほどの沈黙を破ったのは静の方だった。

「……今日は忍足さんと二人なのに忍足先輩も一緒にいるみたいですね」
「ん? どういうこっちゃ?」

謙也と二人のはずなのに侑士の存在を感じる、という意味なのだと思うのだが、何故静がそう思い口にしたのか、そこがよくわからなくて謙也は大きく首を傾げる。今日は朝の待ち合わせから今まで侑士の話題は一度も出していない。

「えっと、忍足さんの今日のお洋服、多分ですけど忍足先輩のものですよね?」
「え!? 何で分かったん?」

もしかして静は本当にエスパーなのかもしれない。謙也が本気で驚いていると、静が種明かしを始める。

「柔軟剤の香りが違ったのでそうなのかなぁって」

確かに言われてみれば、侑士の服からは謙也の家で使っている柔軟剤の香りはしない。流石に従兄弟とはいえそこまでは同じにはならないだろうし、その家の好みの問題になってくるのだから違って当たり前なのだが、謙也は特にそんなことを気にも留めなかった。ただ、侑士の匂いがするなと思っただけだ。

「広瀬さん凄いなぁ! 柔軟剤の違いなんて気ぃ付けてへんとわからんやろ」
「凄くないですよ。たまに家事を手伝うからわかっただけです」
「いやいや、凄いやろ? それに家事も手伝ってるやなんてめっちゃ偉いやん!」
「帰宅部でやることがないからですよ」

どこまでも謙虚に、控えめに、大したことではないと言う静に、自分には出来ないことを出来るというだけで凄いと褒める謙也。先程までの沈黙は一体何だったのかというほど二人の間で会話が弾む。しかしそれもそう長くは続かない。

「お待たせ致しました。きのこの和風オムライスのお客様」
「あ、はい」

店員が両手に料理を持ってやって来る。控えめに手を挙げた静の前にオムライスとアイスティーが置かれ、謙也の前にはハンバーグとセットになったオムライスと同じくアイスティーが置かれる。

「美味しそうですね!」
「せやな!」

謙也も静も互いの料理を見合い、ニコニコと笑みが漏れる。そんな様子を店員や周りの客も微笑ましく見守る。

「いただきます!」
「いただきます!」

二人、声と手を揃えて頭を下げる。
スプーンを手に取り、オムライスに入れる。ふわふわでとろとろな卵とバターライス。静のオムライスにはソテーされたきのこを入れた和風餡がかけられ、そして謙也のオムライスにはデミグラスソースとハンバーグが乗せられている。
一口サイズにスプーンの上に乗せ口に運ぶ。予想と見た目通りの美味しさに、二人は笑みを崩さずどんどん食べ進めていく。
気付けばあっという間に皿は空になり、代わりにアイスクリームが置かれる。店側が気を利かせてなのか、それともそういう仕様なのか謙也にはチョコレート、静にはバニラ味。オムライス同様、クオリティが高そうで普通に頼んだのなら三、四百円はするだろうということが窺える。

「広瀬さんのも美味そうやなぁ」

ぼそりとこぼした独り言。謙也自身それを静に拾ってもらおうなどと思っていたわけではないが、静の耳にはちゃんと届いていて。

「よかったら半分いりますか?」

と、既に半分に分けられた自分のアイスクリームを謙也の器に持っていく。まさか半分もくれるだなんて思ってもみなかった謙也は驚くのと同時に急いで自分のアイスクリームも半分に分け静の器に移す。

「半分こにしよか」
「いいんですか?」
「エエよ。俺も半分もろうたし」
「ありがとうございます」

まるで恋人同士のようなやり取りに、謙也の心中は僅かにむず痒くなる。
もし、広瀬さんと恋人同士になったらこんな感じなんやろか。
アイスクリームを口に運びながら、そんなことを考える。そして次に思うことはいいな、素敵だな、だった。

「アイスも美味しいですね」
「せやなぁ」

しみじみと答えながら、口の中に広がる甘さを楽しむ。
バニラもチョコレートもどちらも甲乙つけがたく、予算に余裕があればもう一つないしは別の種類も食べてみたいと思うほどだった。けれど、今日の目的はあくまで土産を買うということで、静と昼食を楽しむことが主ではない。また別の機会に、と思ったけれど東京に住んでいない謙也にはそれがあるかどうかわからない。
次があるかどうかわからないなら、と一瞬そんなことが頭を過ぎるが、謙也は今の自分と静との関係性を改めて見直す。友達でもなければ同じ学校や部活の先輩後輩でもない。知り合いというと少し遠いがそれ以外に適切な呼び名が思い当たらない。人並くらいの仲の良さは自覚しているが、特別な仲というわけではない。そんな、言ってしまえば微妙な関係なのに、これ以上静を付き合わせてしまってもよいものなのだろうか。謙也からしてみれば静ともっとこうして楽しい時間を過ごしていたいというのはある。けれど、静からしてみたら、と考えた時に立ち止まってしまうのは無理からぬこと。
結局謙也は立ち止まったままを選択する。

「ご馳走さんでした」
「ご馳走様でした」

食事の終わりも同じく手を合わせ頭を下げる。
朝はご馳走になったのだから今度は自分がご馳走する番だ、と張り切る静。ポシェットの中から財布を取り出そうと視線を外したタイミングを見計らって伝票を取り、謙也は荷物を持ってレジに向かう。追いすがるような声が背中にぶつかるが聞こえないふりをして提示された金額をトレイに並べていく。

「ご馳走さんでした!」
「ありがとうございました。よろしければ次回使えるクーポン券ですのでご利用ください」

店員の丁寧な挨拶とともに手渡された小さな紙にはお好きなアイスクリーム一つ無料、という魅力的な文章が書かれている。次回はないかもしれない。けれどそれは謙也だけであって、静には来られるチャンスがある。振り返って静にクーポンを渡し、店員に頭を下げて店を出る。すると渡されたクーポンを握りしめた静が回り込んで謙也と対峙する。

「忍足さん!」

その目は強い意志が宿っている。何故、支払いを済ませてしまったのか、と。

「さっきも言うたけど、今日は俺に付き合うてもらっとるんやから俺が出すんが当然やろ?」
「当然じゃないです! ご馳走になってばかりなのは心苦しいです」
「広瀬さんにはいつも世話になっとるんやし、今日だって場所とかめっちゃ調べてきてくれたやん。そのお返しやと思うてくれ」
「それにしては対価が大きすぎます」
「そないなことあらへんよ。むしろ足りないくらいやろ」
「それこそそんなことないです! 私の方こそお返しさせてください!」

むぅ、と頬を膨らませる静に謙也は苦みを交えた笑みを見せる。
こう、と決めたら貫く静に、どうしたら引いてくれるだろうかと思考を巡らせる。いや、引いてくれなくても納得してくれればいい。見返りを、対価を受けるだけの仕事をしたのだ――と。どう言えばいいか悩む。悩んで、悩んで出た結論は謙也の弁論力と話術ではどうにも難しそう、ということだった。
謙也はどちらかといえば冷静に、理路整然に言葉を繋ぎ合わせるというよりかは感情と勢いで話すタイプで、人を諭したり納得させたりというのは侑士の方が得意な分野だ。
どうしようか。
どうしたらいいのだろうか。
これは店先でやることではない、というのは重々理解しているけれど、この空気のままどこかに移動するというのもまた無理難題なことで。早々にこの話に決着をつけなければならない、という焦りから謙也の頭の中は時間が経つごとにぐちゃぐちゃになっていく。それでも何か言わなければ――と、後先考えずに口を開く。

「あー、えっと……せやな、」
「はい」

静の期待に満ちた瞳。まっすぐ、揺るぎないそれは謙也の視線を泳がせるに十分すぎるもので。

「いや、何も浮かばんわ。やって、広瀬さん今でも十分すぎるくらいやってくれとるしこれ以上何かを求めるのは割に合わんよ」
「でも……!」

昨日と同じく何かを提案しない限りは梃子でも動かないとばかりの静の姿勢と態度に、謙也は本気で困ってしまう。こんな時にスマートな返答ができればいいのだが、生憎と謙也にはそのための経験値が圧倒的に足りない。これが男友達や同じテニス部の仲間であったならもっとやり易かった。けれど今目の前にいるのは歳下で、知り合い以上といった関係の異性。おまけに一度決めたら芯を通すような強い内面の持ち主だ。適当に誤魔化して終われるほど易しくはない。
律儀で、真面目で、それでいて自分の価値には無頓着。
静のおかげでどれだけ準備が捗っているか、そして助かっているか。できることならつらつらと並べ立てたいくらいなのに、当の本人はたとえそれを受け取ったとしても何て事のないような口ぶりで流してしまう。
まるでそれが当然であるかのように。
普通であるかのように。
自分にできることをやったまで、で終わらせてしまう。
どれだけ自分が優秀であるかを、静は全く理解していない。だから平然と言ってしまう。対価が大きすぎます、と。そんなことないです、と。
謙也をはじめ、侑士、向日、日吉は静の働きぶりをあまり表立っては言わないが、高く評価しているし、とても感謝している。おそらく跡部率いる喫茶店チームも同様だろう。それに今日も土地勘のない謙也のために土産物屋をリストアップして来ている。しかも紙に上から下までびっしりと、だ。インターネットを利用して調べたにしてもその作業は五分、十分で終わるようなものではない。かなりの時間を割いて調べたことは明白だ。そして今日は一日謙也の買い物に付き合ってもらっている。
そんな静に対して謙也が返せるものといったら、精々飲み物や昼食をご馳走するくらいしかない。それでも足りないくらいだというのに、静はそれに対して貰いすぎだと言う。
どこまでも自分の価値に無頓着。
それは、傍から見れば心配になるくらいのレベル。
けれど、堂々巡りもいい加減終わりにしなければ、流石に周囲の目も気になってくる。これ以上は限界だ、と謙也は仕方なく右手に持っていたショッピングバッグの中から軽いものを選んで二つほど静に差し出す。

「あー、えっと、じゃあこれ持ってもろてエエ?」
「え? それでいいんですか?」
「広瀬さんにさっき言うたやろ? 持てんくなったらお願いするて。まだ買い物するし頼むわ」

きょとん、として大きな瞳が何度か瞬きをする。それはまるで拍子抜けだ、と言わんばかりだ。
本当なら静に持たせるつもりはなかったのだけれども、こうなってしまっては仕方がない。
こうでもせんと広瀬さんずっと動かんやろうしな……。
金銭的負担を負わせるわけにもいかないし、かといってずっとここで問答を繰り返すわけにもいかない。謙也の中での妥協案としては一番だった。それに静からも先ほど荷物持ちを提案されていたし、これから一階に降りて饅頭やらクッキーやらを買う予定で、ちょうど手も空いて一石二鳥といった感じではあった。謙也の提案に静はにこりと笑んで喜んで、とばかりにショッピングバッグを引き受ける。

「そっちのも持ちますよ!」
「こっちのはエエよ。流石に全部持ってもろたら悪いし、女の子に荷物持たせとるやなんて格好悪いしな」
「そうなんですか? 私は全然構いませんよ?」
「俺のプライドの問題やから勘弁してや」
な? と笑えば、静からはわかりましたと小さな了承が聞こえてくる。
「ほんなら、あとは一階か」
「はい!」

止まっていた歩みがようやく再開され、二人は元来た道を戻りエレベーターに乗り込んだ。

結局、一階でも大阪では売っていないお菓子や食品をあれやこれやと買い込み、謙也の両手にはこれでもかというほどショッピングバッグがぶら下がっている。静が心配して半分渡すよう迫ったが、これ以上持たせることはできないと突っ撥ねると納得はいっていなかったが渋々引き下がった。謙也もさすがに買いすぎたという自覚はあり、帰りの新幹線でこの荷物の量をどう積もうか、いやいっそのこと纏めて送ってしまおうかなどと考えながら朝入ってきた自動ドアへ向かう。
だから、気付けなかった。

「ああ、せや。広瀬さ――」

いつの間にか自分が静を置いていってしまっていることに。
先ほどまで隣にいたはずの静の姿がないことに。

「――!」

一瞬で謙也の顔面から血の気が引く。
アカン……! やってもうた!
引き返そうにも、もしかしたら静もこちらへ向かっているかもしれない。もし行き違いになってしまったらそれこそ最悪の状況になりかねない。
どうしようか、と必死に考えを巡らせていると、ポケットに入れているスマートフォンから着信音が響く。驚きつつもそれを取り出すと、画面には静の名前が表示されている。着信ボタンをタップして受話口を耳に当てる。

「忍足さんですか? すみません、ぼーっとしている間にどうやらはぐれてしまったみたいです……。今どこにいらっしゃいますか?」
「すまん! 俺も考え事しながら歩いてて広瀬さんを置いてってもうた……。今俺、入り口のとこにおるけど広瀬さんどこにおる? そっち行くで」
「あ、いえ、大丈夫です。もう見つけました!」

静の言葉に謙也はあたりを見回す。すると五十メートル後方でスマートフォンを耳に当てながら手を振る静の姿を見つける。通話を終え、謙也も静も相手の方へ速足で向かう。

「ホンマすまん!」

無事合流して謙也は一番に頭を下げる。静は大丈夫ですよ、と顔の前で両手を振り、なんて事のないような表情を作る。それに謙也の胸はぎゅっと締め付けられる。
普通なら文句の一つでも言うところであるし、静にはその権利がある。けれど、どうだ。自分を置いていった男に対してもこの寛大さである。申し訳なさと失態から謙也は目を合わせていられなくて静から視線を切る。
気を付けていた――はずだった。けれどそれは本当にはず、であり実際謙也は静を置いて行ってしまった。考え事をしていたからなんて言い訳は通用しない。そもそもどんなに言い繕ったとしても事実は変わらないのだから。

「忍足さん」

小さく名前を呼ばれ、謙也はゆっくりと静に焦点を合わせる。完全に目が合ったところで静の両手が謙也の左手に伸び、優しく挟み込まれる。

「置いていかれないように手を繋いでもいいですか?」

静からの提案は意外なもので。そして謙也の両眼を大きく見開かせる。

「え……、あ……」

言葉を見つけられなくて謙也は金魚のようにぱくぱくと口を開け閉めする。そんな謙也の様子を芳しくないと捉えたのか、静は眉を僅かに下げる。

「だめ、ですか?」
「だめやない!」

不安を吹き飛ばすような、大きくてはっきりとした返答。一瞬周囲の視線を集めたが、他人に無関心なのかそれとも興味がないのか、誰一人として二人に声をかける人間はいない。

「ありがとうございます。それじゃあ、半分いただきますね」

そう言って、静は謙也の左手にあったショッピングバッグを抜き取る。引き留める隙も無く、静は抜き取ったそれらと持っていた二つを左手に持ち替えて、右手で謙也の空いた手を握る。その流れるような動作に謙也が目を奪われていると、静からとどめの一撃が撃ち込まれる。

「今度は置いていかないでくださいね、忍足さん」

ぎゅっと繋がれた手。
柔らかな笑み。
大きく鳴った鼓動。
ああ、俺――。
それは、ようやく気付いた春の訪れだった。


「侑士、俺広瀬さんのこと好きになってもうたかもしれん」

昨日のデートからずっと考えていたことを謙也が打ち明けた時、侑士はやっとかと思うと同時に安心した。それは、もしかしたらこのまま謙也が自分の恋心に気付かないまま大阪に帰ってしまうかもしれないという不安があったからで。
かもしれない、と語尾には付いているが、恐らくもう謙也の中では確信があるのだろう。その話を始めた謙也の表情はとても真剣みを帯びていた。

「昨日、半日一緒におって朝からホテル着くまでずっとドキドキしっぱなしやったし、手繋いだ時なんてやばかったわ」
「なんや、手繋いだん? お前にしては上出来やん」
「やから誰目線やねん! って、話の腰折るなや!」

真面目な話しとるんやぞ! と謙也がこぼせば、侑士はせやなぁ、と肩をすくめる。
侑士からしてみれば何を今更といった感じなのだが、そんなことを言葉や態度に出せば面倒なことになるのは目に見えている。それにせっかく謙也がこうして打ち明けてきたのだから茶化して不貞腐れても良いことはない。
いつもは作品の中でしか見ることができない恋愛模様を間近で見られるのだ。ラブロマンスが好きな侑士にとって、従弟の恋愛などこれ以上ないくらい興味と関心をそそられる。

「で? いつ告白するん?」
「告……っ、いや、その、まだ早ないか? 俺まだ広瀬さんのことなんも知らんし、告白なんて遠いわ」

謙也のそれを聞いて、侑士は大きく、それはそれは大きく、大袈裟とも取れるくらいのため息を吐き出す。なぜ侑士がそんなに大きなため息を吐き出すのかわからない謙也は思い切り眉を寄せる。

「謙也、お前あと一週間しかこっちにおらんのやで? ちゅうかお嬢さんがどんだけ人気高いかわかってへんのか」
「は?」
「少なくとも俺が知る範囲で五人はお嬢さん狙いの奴おるで」
「五人!?」

まさかそんなに静狙いの男がいるとは思ってなかったのか、謙也は目を見開いて驚く。
しかしなるほど、それなら侑士が大袈裟なほど大きなため息を吐き出すのも頷けるというものだ。この学園祭の規模で考えるならばそんなに多い人数ではないのかもしれないが、その数はあくまでも侑士が把握している数、である。実際にはもっといるのかもしれないし、これから増えないという確証はない。何せ静は外見もさることながら、性格もよく、仕事もそつなくこなし、更にはあの跡部にも物怖じせずに正面から意見を言える数少ない人間だ。悪しからず思う人間は少なからずいるし、そこから好意に結びつくこともないとは言い切れない。
謙也はこの学園祭にはゲストとして呼ばれている。関東の学校、もっと言うなら氷帝学園の生徒とはスタート地点が圧倒的に違う。同じ学校に通っているという時点で謙也とは一歩も二歩も先んじているし、同じ学校に通っているからこそ通じる話題というのもある。例えば、教師の話。科目の話。行事ごとやクラスメイトの話など、上げ始めたらキリがない。
それに謙也はこの学園祭が終われば大阪に帰る身だ。今日を含めて後一週間しか東京に滞在できない。そう考えると、侑士のいつ告白するのか、という問いは全然早くはないし、むしろ静の人気の高さと残り時間を考えると焦りを覚えて然るべきなのだ。

「……マジか」
「やから言っとるやろ」
「でも、まだ好きになって一日やねんけど」
「時間なんて関係ないやろ。それに横から掻っ攫われたらどないするん?」
「それは……嫌や」

ボソリとこぼした本音。それを聞いて、侑士は僅かに肩をすくめる。せやろ、と。言葉にしなくてもそれは伝わったようで、謙也はこそばゆしさに表情を崩す。

「それに一日やないやろ」
「おん?」

侑士の指摘に謙也は首を傾げる。一日ではない、という言葉に引っ掛かりを覚えたからだ。謙也自身の感覚では昨日から自覚した恋心であるのだが、ずっと謙也のことを、ひいては謙也の恋心を見守っていた侑士からしてみればようやくというところではあるし、何ならこの六日間ずっといつ自覚するのだろうとさえ思っていたほどだ。六日前、静が飛ばしてしまった書類を持ち前の俊足で捕まえたあの日から、ずっと、ずっと。

「まあエエわ。俺のできる範囲で手伝ったるわ」
「手伝うって何をやねん」
「まあ色々と、や」

楽しそうに侑士は笑う。その笑みに謙也は何やねんとこぼすものの、決して悪い気はしなかった。何せ今まで恋愛はおろか人を好きになったことも殆どない、言わば恋愛初心者の謙也にとって告白というのは未知数なものである。どう伝えればいいのか、場所は、時間はなどと考えるだけで頭の中がごちゃ混ぜになる。
その点侑士は彼女こそ作ったことはなかったが、恋愛を題材にした作品を今までいくつも嗜んできた。謙也よりかはその点で優位であるし、いつも一歩引いて人間観察をしていることが多いからか、物事を客観的に捉えることができ、どうしたらいいのかというのが当人たちよりも導きやすい。
そして一番大きなポイントは従兄弟だ、ということだ。三日に一度電話でやりとりをするような気心の知れた相手。恋愛相談という、クラスメイトや部活の仲間には少しし難い内容でも侑士にならできる。それは静が氷帝生であるというのも要因の一つであるし、他の話題ならいざ知らず、恋愛相談という好みど真ん中な話題において侑士は茶化したり揶揄ったりすることはないだろう、という確信が謙也の中ではあるからで。心強い相談相手を選んだとさえ言ってもいいだろう。

「とりあえず謙也はお嬢さんとの親睦をもっと深めんと、告白なんて夢のまた夢やろ」
「せ、せやな……」
「あとプレゼントは早いとこ渡しとき」
「な……、何でそのこと知っとるん!?」

本気で驚いたのか、謙也が一歩後ずさる。おまけに頬は赤みを帯びてそれを隠すように左腕で顔を覆う。
何やこいつ、天然か?
ついうっかり口をついて出そうになったそれを侑士は慌てて飲み込む。

「昨日服返しに来たとき持ってたやろ。明らかに家族用でもましてや自分用でもない、雑貨店の紙袋」
「侑士……お前の目どないなっとるん?」
「俺の目がおかしいみたいな言い方やめぇや。大体あんな小さくて可愛らしい紙袋持ってたら普通気付くし気になるやろ」
「え……、やから気になって調べたん? 怖……」
「お前な……」

体中の酸素を全部吐き出すかのような重くて大きなため息。だがこんなやりとりは日常茶飯事。今更目くじらを立てることもない。

「謙也のことやから勢いで買うたはエエけど渡せんかったんやろ?」

目くじらは立てないがちょっとした仕返しはする。侑士のまるで見てきたかのような言い方に謙也はぐうの音も出ない。
本来であるならば、昨日のうちに渡してしまう予定だった。しかし、帰り際に静と手を繋いだことで頭からすっぽり抜け落ちてしまったのだ。そして渡し忘れに気付いたのはホテルの部屋に戻った後のこと。ベッドの上にショッピングバッグを乗せた際に目に入ったそれに謙也は思わず「あ……」と呟いた。
別れた後でまたこれだけを渡しに行くのも気が引ける上に、謙也は静の自宅を知らない。家に帰って一息ついているであろう静にもう一度出てきてもらうのは躊躇われた。なので、とりあえずいつでも渡せるように、とショッピングバッグから中身だけを取り出して制服のポケットに入れては来ているのだが、なかなか渡すタイミングが掴めない。そしてどんな風に渡したらいいのかも分からないのだから困ったものだった。

「まあ、お嬢さんに何かしてもらった時にお礼として渡したらエエんちゃう?」
「せ、せやな」
「そのチャンスが来るかどうかは知らんけど」
「急に放るのやめぇや」
「なんだなんだ、二人とも何の話してんだ?」

侑士と謙也が何やら楽しげに話しているのを見た向日が会話に割り込んでくる。流石に向日を巻き込むとなれば話が大事になりかねない。大事というよりも大騒ぎになりかねないという方が正しいのだが。

「ん? ああ、謙也がチキンやって話や」
「そんな話やったか!?」
「え? 謙也お前前世鳥だったのか?」
「そっちのチキンちゃうわ! ちゅーか前世の話なんてしとらんわ!」

向日の狙ったわけでもないボケに謙也がすかさずツッコミを入れる。侑士との会話では得られないエネルギッシュなツッコミに向日は楽しくなってしまう。作業そっちのけで会話が盛り上がる三人に日吉の今にも爆発しそうなストップがかかったのはそれから十分後のことだった。

「えーっと、これは確認してもらったからあとはこっちを委員長に承認してもらえば……、……?」

それは自然と静の耳に入ってきた。通りの良い美声。そして何より、知っている二つ名がリズムに乗って聞こえてきたからで。

「歌……? いったい誰が……」

興味本位でその声の出所を探し、歩く。
そして見つける。
ベンチにゆったりと腰掛け、左腕に包帯を巻き、亜麻色の髪を風に靡かせ、静がこれまで出会ってきたどの男子よりも整った顔を持つその人物は、昨日謙也との会話の中に出てきた外見そのものを持っていた。
もしかして、この人――。
静の視線に気付いたのか、美男子こと白石蔵ノ介は歌うのをやめ、ぎこちなく笑みを作る。

「えーと、こんにちは」
「こ、こんにちは! ジロジロと見てしまってすみません!」

慌てて静が頭を下げる。と、白石も謝られるとは思ってもみなかった為、次の反応に困る。
白石にとって人に色々な思惑を持って、時には好奇な目で見られるということは日常茶飯事である。だから見られることに対して特段気にしてはいなかったし、まさかそのことで謝られるなんて考えもしなかった。
だから、困ってしまう。他の人間のように適当に遇らうことができないのだから。

「あの、変なことを訊くのですが……」
「なんや?」

彼女はいるのかだの好きな人はいるのかだの、そんな恋愛方面のことを訊かれるのかもしれない。もし違ったとしてもじゃあ何を訊かれるのだろう、と白石は僅かに身を強張らせる。けれどそんな心配はすぐに杞憂に終わる。

「もしかしてさっきの歌、忍足さんを唄った歌ですか?」
「……! せやで! よぉ分かったなぁ」

ぎこちない笑みが本物のそれに変わる。
この学園祭会場内で積極的に話しかけてきた人間の中で白石自身のこと以外を訊いてきたのは静が初めてで。そして今まで誰もがツッコミどころかスルーさえしてきた、謙也のことを唄った歌を気にかけたのもまた静が初めてで。この時点で白石の中での静の評価は高い位置にあった。

「えっと、前に忍足さんがスピードスターって呼ばれてるっていうのを聞いたことがあったので」
「ケンヤ、結構いろんなとこでそう呼ばれとるからなぁ」
「そうみたいですね。向日先輩や日吉くんも知ってましたし」
「そのメンバーと制服から察するに、自分、氷帝生か?」

白石の指摘で自己紹介がまだだったことに気付いた静は再び頭を下げる。

「自己紹介もしていないうちにお話ししてしまってすみません! 氷帝の広瀬です」
「あ、いや……俺の方から声かけたんやから気にせんといて。俺は四天宝寺の白石や」
「白石さん! やっぱり!」

静の納得したような表情に白石は何の話だ、と首を傾げる。

「どっかで誰かに俺のこと聞いたん?」

スルーすることも出来たけれど、なんとなく訊いてみたくなって白石は問いを投げる。

「はい! 昨日忍足さんに聞きました。めちゃくちゃイケメンでバレンタイン校内ランキングは毎年一位なのに全然気取らない良い人で、左腕に包帯を巻いているから見たらすぐわかるよって」
「け、ケンヤの奴そないなこと言うとったんか……。なんや恥ずかしいわ」

本気で恥ずかしいのか、白石は僅かに頬を染めて右へ左へ視線をさ迷わせる。
普段から容姿に関しては主に異性から褒められることの多い白石だが、ずっと共に戦ってきている仲間から――しかも内面を褒められるのはこそばゆい。けれどそれが嫌ではなく、むしろとても嬉しかった。それが表情にも出ていたのか、

「白石さんも忍足さんのことが好きなんですね」

と静から声をかけられるほどであった。

「せやなぁ、ケンヤとは同じクラスで部活も一緒やし。それに、裏表ないから付き合いやすいしな。やけど女子にもそんな感じやから、人間としてはエエ奴なんやけどエエ奴止まりで終わるっちゅうんで気にしてたな」

エエ奴止まりで終わる。
静がその言葉を聞くのは二度目だった。
一度目の時は曖昧に笑って流してしまった。それは謙也のことをあまりよく知らない人間の言葉だったからというのもあったし、そこで会話を広げてもしょうがないという考えもあった。けれど、今回は違う。白石は謙也とは同じ学校、同じクラスで部活も一緒。人も状況も違う。
だから、なのかもしれない。

「良い人止まりでは、ないと思います。少なくとも、」

私は、と言いかけて静は慌てて口を噤む。けれどまるで最後まで聞こえていたかのように、白石は満面の笑みで応える。

「そうか、広瀬さんはケンヤのこと男として好きなんやな」
「……っ!」

静の頬が、いや顔全体が真っ赤に染まる。咄嗟に手で顔を覆うも、到底隠し切れるものではなく。端々から見える赤さに白石の頬は緩む。
可愛えなぁ。ケンヤ、めっちゃエエ子に惚れられたやん。
まるで自分のことのように嬉しくなって、白石は静に自分の隣に座るよう手招きする。一瞬戸惑うも、根が素直な静はその招きに応え、白石から少しだけ距離をとって腰を下ろす。

「なんでしょうか?」

何か話したいことがあるから座るよう促したのだろう。白石の意図を汲みとって、静の方から投げかける。

「広瀬さん、ケンヤのことあんま知らんやろ?」
「そうですね。あまりというより殆ど知りません」
「ほんなら俺が教えたるわ。あと、出来る範囲で手伝ったる」
「手伝う、とは……?」

予想しない言葉が出てきたことで静は首を傾げる。その言葉を使った意図を知りたくて自然と体が前のめりになる。ぐっと近づいた顔に内心驚きつつも何でもないような表情を作り、白石はせやなぁ、と続ける。

「架け橋っちゅうか、うーん……、あ!」

何かを思いついたように、白石はポンと手を叩く。その仕草がどうにも幼く見えて、白石の美貌とミスマッチする。

「キューピットやな!」

目を細めて笑う白石に日の光が差しキラキラと輝く。それはダイヤのようで、眩しくて。きっと静以外の異性が見たら一発で落とされていただろう。

「ええっと……、あ、ありがとうございます……?」

よくわからないながらも、とりあえず静は一礼をする。そんな律儀さにまたしても白石の中での静の評価が上がる。

「まずはせやなぁ、何から話そか」

ワクワクとソワソワ。ウキウキとドキドキ。白石の心中に渦巻く感情は自然と頬を緩ませる。美男子の笑みに静も自然と表情が柔らかくなるのは道理で。
そしてそんな二人の様子を偶然通りかかった侑士が見つけてしまい、悪いとは思いつつもスマートフォンのカメラを起動してその様子を収めてしまうのもまた道理だった。侑士から見て、白石と静の雰囲気はとても良好で。付き合いたての初々しさが垣間見えるような甘酸っぱくて柔らかい表情と仕草。

「謙也、めっちゃやばいやん……」

ぼそりと呟いたそれは静かに溶けていく。メッセージアプリを起動し、謙也に今しがた撮った写真を送信する。そして一言、広場のベンチと添える。これだけで十分伝わるだろう。流石にこれ以上覗き見をするのは二人に悪いと思い、侑士はスマートフォンをスリープモードにしてスラックスのポケットに突っ込む。
頑張らんとなぁ。
それは自分に対してなのか、それとも謙也に対してなのか。もしかしたら両者に対してなのかもしれない。湧き出た思いは侑士の気を引き締めた。

「え……? は? なん……、え?」

スマートフォンを持つ謙也が捻り出せたのは正しく困惑を極めた言葉にならない音だった。画面に映し出されているのは白石と静が仲睦まじく話しているように見える画像と場所を示したメッセージ。頭が真っ白になって思考が回らない。
白石と広瀬さんが、話して、仲良さそう、に……?
画像からそれだけを読み取り、考える間も無く謙也は走り出した。向かう先は侑士が示してくれた。全速力で目的地までの最短ルートを駆け抜ける。
行って何かしたい、どうにかしたいという訳ではない。ただ、じっとしていられなかった。それこそ足が勝手に動いたと言っても過言ではない。
それは焦りからか。それとも嫉妬からか。はたまた違う感情が突き動かしたのか。もしくはそれら全部なのか。
それは謙也自身にもわからない。わからないけれど、わからないまま動き出した。
人とぶつかりそうになったのを寸でのところで避け、障害物を飛び越え、白石と静がいるであろうベンチまで足を緩めない。
胸が苦しい。
息ができない。
それは全速力で駆けているから、ではない。
もしかして。
もしかしたら。
広瀬さんは――、
そんな不安からくるものだった。
侑士からメッセージが届いてからものの数分で広場に到着する。けれどベンチに腰かけているのは白石だけで、静の姿はどこにもない。あれ? と思う間もなく、白石が謙也の姿を見とめ左手を上げる。

「ケンヤ!」
「し、白石……」

白石はにっこりと笑顔で。対する謙也はどんな表情を作ったらいいのかわからず、けれど呼ばれてしまった手前、行かないわけにもいかないということで、結果顔が決まらないまま白石の傍まで行ってしまう。そんな謙也の様子を白石は特に何も言うことはなく迎え入れ、先ほどの静同様隣に座るよう促す。

「ケンヤ! お前めっちゃ可愛いくてエエ子と知り合いになったんやな!」

このタイミングでのことだ。おそらく静のことだろう、というのは予想がついた。しかしどうしたことだ。白石がこんなにも異性のことを嬉しそうに、楽しそうに話すなんて謙也は全然思いもしなかった。
四天宝寺でも、そしてこの学園祭会場でも白石の顔の良さは知られている。おまけにテニス部部長も務めているから毎日色々な女子に声を掛けられて困っている、というのを一昨日あたりに宿泊しているホテルの部屋で聞いた。その白石が、だ。こんなにも嬉々として話している。謙也が絶賛片思い中の静のことを。
それは本来であるならば喜ばしいことのはずだ。なのに、今の謙也にはそれをなかなか祝福することができない。
白石がライバルになるんか? んなもん勝てるわけないっちゅーねん。
ざわざわと心がさざめきだつ。考えないようにすればするほど、嫌な方へ、ネガティブな方へ思考が流れて行ってしまう。苦しくて、苦しくて、自然と右手がシャツの胸元を握る。

「ケンヤ? どっか調子でも悪いん?」
「いや……、何も、ない」

無理やり口から吐き出した言葉はどうしたって何でもないようには聞こえない。それは謙也にだってわかっている。けれど、自分ではどうしようもできなかった。誤魔化しきれなかった。
どないしよ……。白石の口から広瀬さんの話を聞ける自信ないわ。
謙也の頭の中ではどうやってこの場を立ち去ろうかと、そればかりがぐるぐると回り、いつしか顔が俯いていた。だから、白石のそれを一度は聞き流してしまった。

「……ケンヤ、聞こえてたか?」
「え? 何? 白石、何か言うた?」

顔を上げて謙也が白石の顔を見ると、白石は困ったような、それでいて何故だか嬉しそうな表情で謙也の瞳をまっすぐ見つめる。

「やから、広瀬さん明後日時間あるみたいやからデートに誘ったらどうやって」
「ああ、デー……トぉ!?」

謙也は目をひん剥き、白石はそんな謙也の驚きっぷりと表情の変化に驚くと同時にあまりの変わりように吹き出してしまう。

「ははっ、ちょ、ケンヤ今の顔やばいわ!」
「そない言わんでもエエやん! ちゅーかデートってなんでやねん。白石が行ったらエエんちゃう」

思ってもいないことが口から出てしまう。いくら白石といえど、やはり片思いの相手とデートには行ってほしくはない。けれどここでじゃあ自分が行くと言えるほど謙也は自分の気持ちにまだ正直になれない。
そんな謙也の天邪鬼な気持ちの右往左往ぶりが見て取れる白石は一切茶化そうともせず、けれどそれはそれは楽しそうに、にこにこと笑みを崩さない。

「ホンマに俺が行ってエエの?」
「そ、それは……」

言いよどむ謙也に、白石はここぞとばかりに決め球を打ち込んでいく。

「広瀬さん、めっちゃ可愛えし、真面目やし、何よりエエ子やん」
「せやな……」
「やから、俺はケンヤとお似合いやと思うんやけどな」
「せや……え? なんて?」

予想もしない返答が戻ってきて、謙也の目は先程とは違った意味で大きく見開く。白石は言う。きちんと、目を合わせて。ちゃんと、言葉にする。

「広瀬さんはケンヤと一緒に居るんが一番楽そうやで」

正面から受け止めたことで謙也の心にその言葉はスッと入ってくる。けれど、それならなんで、とも思うわけで。
なんで、どうして。
広瀬さんは白石とめっちゃ楽しそうに話してたん?
隠しきれない思いがそのまま表情に出てしまう。

「なんでそんなことわかるん?」

謙也の投げた疑問に白石はにこりと笑む。その意味がわからず謙也は首を傾げる。

「やって広瀬さん、ケンヤの話しとる時めっちゃニコニコしてたで。それに俺がお前のこと話した時も真剣に聞いとったし」
「え?」

それはつまり、先程侑士が謙也に送った写真の場面を話しているということで。仲が良さそうに話していたように見えたあの場面は、謙也のことを話していたということで。

「エエなぁ、ケンヤ」

にこにこと微笑ましいものを見るような笑みを向け、白石は侑士と同じ言葉を贈る。

「手伝える範囲で手伝ったるわ」
「そういや侑士も同じこと言うてたわ」
「忍足くんも?」

白石が何かを考えるような素振りを見せ、謙也はそれに首を傾げる。当人たちの与り知らぬところで着々と話が進んでいく。けれどそれに対し謙也の中では不安はなかった。
何せ、何でも話せる従兄と一番の信頼を置く四天宝寺テニス部の部長なのだ。そしてこと、恋愛方面において侑士ほど頼りになる人間は謙也の交友関係には存在しない。

「ちゅうわけやから、ケンヤ。明後日広瀬さんとデートやからな」
「ちゅーわけやからの意味がよぉわからんのやけど」
「エエからエエから」

楽しそうに、それはそれは楽しそうに。白石は終始笑みを崩さない。

「せや、忍足くん今どこ居る?」
「おん? んー、どうやろな。なんなら呼ぼか?」
「あー、うん、せやなぁ。お願いしよか」
「任せとき!」

言うや否や、謙也はスマートフォンを取り出し数タップして侑士の番号を呼び出す。

「侑士か! 今どこ居る? ああ、せや。白石がなんや話したいみたいやからこっち来れるか? せや、広場やねん。おん。じゃ」

通話を終えてスマートフォンの画面を切る。ポケットにそれを突っ込んで謙也は白石へ視線を投げる。

「侑士今からこっち来る言うてたで」
「おおきに。ほな、ケンヤは広瀬さんをデートに誘ってきや」
「今からか?」
「今からや。すぐ行動せんとアカン」

まっすぐ、真剣な視線は謙也の迷いを撃ち抜く。

「やけど今から侑士来るんやで? 白石、侑士と話したことないやろ」
「話したことなくても共通の話題があるんやから大丈夫やろ」
「その妙な自信はなんやねん」

謙也のため息交じりの言葉を白石は僅かに肩を上げてそれを返答とする。それを見てこれ以上言葉を繋げたとしても意味はないと悟り、謙也は口を噤む。

「ほらはよ行きや」

背中を軽く叩かれ、立ち上がるよう促される。ここまでされてしまって、座り続けるというのも難しい。謙也はむず痒そうな表情で腰を上げる。

「後のことは任せとき」
「いや何を任せるっちゅーねん……」

左手をひらひらと振って、いってらっしゃいとばかりに謙也を送り出す白石の表情は嬉しそうで、楽しそうで、慈しみのあるものだった。


八月三十一日。
今日で八月が終わりという日に、静の姿は待ち合わせ場所である駅前にあった。
三日前の服装とはまた違い、今日は動きやすさを重点に置き、白地に裾部分に花の刺繡が施された半袖パーカーと黄緑色のショートパンツ。そして小ぶりなリュックサックとフラットなストラップサンダル。髪は先日と同じく一つにまとめ上げバレッタで留めている。というのも、先日の謙也とのデートの際、想定以上に動き回り服装の選択を失敗したと思ったからである。それに加え、謙也には気付かれていなかったが、おろしたばかりのサンダルで歩き回ったために靴擦れを起こしてしまっていた。なので今日の服装は失敗と経験を踏まえたものだった。
ふと顔を上げ、空を見上げる。八月最後の日にしては分厚い雲がひしめき合っていて、静は僅かに眉を下げる。

「……なんだか、曇ってきちゃったな」

家を出た時は晴れていたのに、駅前に到着する頃には空模様はすっかり変わっていた。しかもあと数時間もすれば雨が降りそうな、黒くて暗い雲。何とか持てばいいけれど、と思いながら静はスマートフォンを取り出して時間を確認する。
九時三十分。待ち合わせ時刻まであと三十分。先日のデートの時と同じく気が急いて三十分も早く到着してしまった。
スマートフォンの画面を切り、一つ息を吐き出す。
ドキドキと胸が高鳴る。何度深呼吸をしてもそれは治まらない。

「…………――、はぁ……」

苦しくてぎゅっと握りしめた拳で胸を押さえる。
緊張しているから、だけでは決してない。それは一昨日白石と話したせいでもあった。

「…………」

一番初めの印象は元気な人、だった。
そして次に会った時には目が離せなくなっていた。
書類を追って、瞬きの間にそれを掴んだその背中はとても格好良くて。
きらきらとしていて。
そして、素敵だと思った。
恋をしたことがない静の心に吹いた金色の風。その日からその風は吹き続けている。
昼食に誘われた時も。
飲み物をご馳走された時も。
そして三日前のデートの時も。
ずっと、ずっと――吹き続けている。
今まで波風なんて立ったことのない静の心に小さく、断続的に、けれど時に大きく波を立たせ、渦を作り静を飲み込んでいく。
きっと、そうなのだろうと静自身も思っていた。
恋愛を扱ったドラマや漫画、小説でヒロインが葛藤する様に自分の状態がとてもよく似ていたから。
時たまクラスメイトに恋愛相談という名の惚気話を聞かされていて、その心理状態が自分と合致していたから。
そして、謙也の姿が視界の端に入るたびにその姿を追って、足が止まるから。
ああ、私は――。

「広瀬さんはケンヤのこと男として好きなんやな」

静の胸に今も残る白石の言葉。
それこそが答えだった。答えを得て、確信を持った途端、ますます風が強く吹くようになった。そしてそれは静の背中を押す追い風となった。
けれど静はほぼ恋愛初心者だ。幼少期の、まだライクとラヴの違いが分かっていなかった頃を除けば謙也は初めて好きになった異性。
だから、どうしたらいいかわからなかった。これは静から謙也に向けての一方通行の想い。そして届かせようとしても相手はとても遠い場所にいる。静の一歩はとても小さくて、何百、何千と踏み出さなければ到底届かない。
謙也はこの学園祭が終われば大阪に戻ってしまう。ならば諦めた方がいいのかもしれない、と思ったこともあった。この二週間の間に出会って、別れた、素敵な思い出にした方がいいのかもしれない、と思ったこともあった。けれど、結局静は諦められなかった。否、諦めるならせめてやれるだけのことはやろうと思い直した。
叶わないかもしれない。
けれど、ならば――。
せめてこの思いを伝えたいと思った。
恋人になりたいとは思わない。隣に居たいとも強く思わない。
ただ――、ただ、あなたのことが好きです、と伝えたい。きちんと自分の想いを口にすれば、あるいは綺麗に終われるかもしれない。
自分勝手であることは百も承知。
迷惑かもしれないというのも理解している。
それでも。
それでも、誰かのために働き続けている静の、精一杯の我儘であり願望だった。
告白の意思を固めた静に今日のデートの誘いはまさに渡りに船であった。
明日は準備最終日で何かと忙しいことが予想される。慰労会を除けばあとは学園祭本番のみ。特に担当を振られていないとはいえ、当日に何もトラブル等が起きないとも限らない。そうなれば謙也とゆっくり話す時間は意外と残されていない。
今日を逃せば、また静は学園祭実行委員として会場内を走り回り、謙也は四天宝寺のテニスプレイヤーとして、そして氷帝学園に呼ばれたゲストとして学園祭準備にかかり切りになってしまう。

「……――、ふぅ……」

大きく深呼吸をして、待ち人がやってくるのを静は待ち続ける。
一分、一秒がやけに長く感じられる。何度もスマートフォンの画面で時間を確認するも、一向に時間は進まない。
およそ十回目の時間確認をした時だった。
静の鼻腔を擽る柔軟剤の香り。画面から顔を上げ、まず目に飛び込んできたのは眩しいくらいの黄色だった。

「広瀬さん待ったか!?」

焦ったような声に静はもう少し視線を上げる。と、額に玉のような汗を作り、息を荒げる謙也の顔が映り込む。

「いえ、全然待ってませんよ」

静は正直に待ったと言えるような性格ではないし、そこまで謙也との親密度も高くはないので気を遣うのは当然のこと。それに仮に待ったと言えば謙也は恐らく気にするだろうというのも容易に想像ができた。だから静はにこりと笑むだけに留めておく。

「いや、あの、忘れ物してもうて、」
「そうだったんですね。でもまだ待ち合わせ時間よりも十五分も早いですし、走って来なくても大丈夫でしたよ?」

言いながら、静はリュックサックから汗を拭うためのタオルを取り出し謙也に手渡す。躊躇いはしたものの、あまりの暑さと吹き出す汗に謙也はそれを受け取り、申し訳ないと思いつつもそれで顔面を押さえる。

「それはまあ、そうなんやけど」

前回は静に先を越されてしまったから今回は自分が先に待ち合わせ場所に居ようと思っていただけに、謙也の返答は濁る。
静に渡そうと思って買ったプレゼント。いつでもその時が来てもいいように制服のポケットに入れていたのだが、うっかり出掛けにそれを取り出し忘れたことに気付き、半分ほど来た道を慌てて引き返した。それさえなければ、と謙也は悔しそうにため息を吐き出す。
貰っちゃいますね、と謙也の手からタオルを抜き取り、元あったようにリュックサックに戻すと静は謙也の服装に目を向ける。

「今日は忍足さんのお洋服なんですね」

静がぼそりとこぼしたそれに謙也はどう反応したものか困る。それがどういう意味で口にされたのかがわからなかったからだ。
謙也の今日の格好は持って来ていた私服だ。黄色の半袖に黄緑のハーフパンツ。四天宝寺カラーのそれは割と、否、かなり目立つ。
侑士にはアウェイでしかもデートで着るような服ではないと苦言を呈されたのだが、そう言われたところで持ってきている服はこれしかないし、新たに買いに行くと言っても毎日夕方まで学園祭の準備をしているから買いに行く時間もない。そして服の好みはなかなか変えられるものではないのだから、結局似たような色、柄のものを手に取るのは目に見えている。それならば、と謙也は持ってきていた服を選んだ。
また侑士に服を借りるというのも考えたのだが、そう何度も借りるのも芸がない上に、そもそも侑士とは服の趣味が真逆と言っていいほど合わないのだ。前回は侑士に押し切られた為、半ば渋々と言った感じで服を借りたが、できれば自分が気に入っている服でデートに行きたいと思うのは自然なこと。そして好意を自覚した後なら尚更である。
謙也自身の服という単語が、肯定的なのかそれとも否定的なのか掴みきれないでいる謙也に、静は続けて言葉を紡ぐ。

「忍足さんらしくって素敵ですね」
「え? ホンマ?」

侑士に散々なことを言われていただけに、まさか褒められるとは思ってもいなかった謙也は驚き、目を丸くする。

「はい。前に見たお洋服も似合ってましたけど、あれは忍足先輩っぽさがあったので」
「侑士っぽさ?」
「えっと、落ち着きがあるというか、シックというか。なので最初に見た時にすごく意外だなぁって思ったんです。でも後から忍足先輩のお洋服だって知って納得がいったんです。忍足さんってお日様ってイメージがあるので明るいお洋服が好きなのかなって勝手に思ってました」
「お日様……」
「あ、えっと、本当に私の勝手なイメージなので!」

すみません、と静は慌てて頭を下げる。それに対し謙也は嬉しそうに口角を上げる。怒られはすれど喜ばれるとは思っていなかった静は、謙也の表情の変化に困惑する。

「広瀬さんにそないなこと思われとるやなんて知らんかったし、嬉しいわ。おおきに」
「いえ、その……はい」

途切れてしまった会話。何か繋げようと謙也も静も自分の中で言葉を探す。けれど、これといったものもなく、時間だけがどんどんと過ぎていく。
一分、二分。
三分ほどが経ったところで流石に耐えきれなくなり、謙也の口が開く。

「ほな……、行こか!」
「はい。今日は何処へお買い物に行くんですか?」
「あー、せやなぁ」

謙也は視線を彷徨わせながら頭の中で急いでプランを組み立てる。
一昨日、白石に背中を押され静をデートに誘ったまではいいが、完全に勢いに任せてしまったため、プランも何も考えてはいなかった。
そもそも誘い方もまた買い物に付き合ってくれといった言い方をしてしまったのがよろしくなかった。けれど、それが謙也の精一杯であったし、ストレートにデートに誘えるような言葉選びもトークも今までの経験や交友関係では得られなかった。だから仕方がないという面はある。
どうしようかと悩み、悩んだ挙句、謙也は逃げとも言える答えを導き出す。

「この前は俺の買い物に付き合うてもろたから、今日は広瀬さんの行きたいとこに付き合うっちゅーんはどうや?」

買い物に付き合ってくれ、という体で誘ったというのにこれでは前提が崩れてしまう。けれど、買いたいものは前回買えてしまったし、無駄にダラダラと時間を過ごすくらいなら静の行きたいところへ行った方が時間を有用に使えると思ってのことだった。

「え? 私の行きたいところですか?」

自分に話が振られ、今度は静が目を丸くする。てっきり謙也にプランがあると思っていたばかりに、いきなり投げられてしまうと頭が真っ白になってしまう。それでもどうにか行きたいところを考える。
雑貨屋、服屋、靴屋。思いつくところはその辺りだが、どうしても行きたいという程の強い気持ちはないし、時間潰しになりそうな予感すらある。折角誘ってもらったデートなのだから、と思うと有意義な時間を過ごしたいと考えるのは自然なことで。
ああ、でもそうなると行きたいところがないってことになってしまって、忍足さんを困らせてしまうかもしれない。それに忍足さんも楽しんでもらえるような場所じゃないと申し訳ないし……。
静の心中がグルグルと回る。そして云々と悩む静を見て、謙也は罪悪感に悩まされる。きっと、静なら行きたいところを挙げてもらえるだろうと軽い気持ちで行き先を託してしまったが、まさかこんなに真剣に悩んでくれるとは思ってもみなかった。
否、よく考えれば分かることだった。
真面目で、自分よりも他人に優先順位を置き、中学生とは思えない程の気遣いを見せる静が、素直に自分の行きたいところを示せるわけがない。謙也が退屈せず、かつ自分も行きたい場所を選ぶとなると、それは思い悩むのも道理である。
もっと仲良ぉなって――例えば下の名前で呼び合えるような仲になれたら、もう少し我儘とか言うてもらえるようになるんやろか。
恐らく家族と仲の良い友人以外には四六時中気を遣っているであろう静の我儘を聞いてみたい。ありのまま、気なんて遣わず、自分の思っていることを口にして欲しい。
仲の良い友人以上の関係になりたい。堂々と手を繋いで、下の名前で呼び合って、隣に居られるような――そんな、関係。
一度話を振ってしまった手前、謙也は静の返答を待つことしかできない。それから何分か経った頃、ようやく静の視線が上がり、決めましたという表情が返ってくる。

「えっと……、ここから駅二つ行ったところに、小さいですけど遊園地があるんです。そことかどうでしょうか?」
「遊園地?」

まさかの返答に謙也は単語を繰り返す。確かに遊園地といえばデートの定番であるし、規模にもよるが老若男女問わず楽しめる場所である。しかも謙也と静であるならば、身長制限や年齢制限に引っ掛かることはまずない。絶叫系からのんびりと楽しめるものまで好きなように、好きなだけ楽しむことができる。

「あ、でも、忍足さんがお好きでないなら違う場所に、」
「エエよ! 遊園地行こか!」

静の弱気な姿勢を吹き飛ばすように謙也は白い歯を見せる。そもそも謙也からしてみれば静が一生懸命考えて出した提案に却下を出したり難色を示すようなことはしないし、できるわけがなかった。

「いいんですか?」
「広瀬さんが行きたいとこなんやろ? それに俺も遊園地好きやし」

静の最後の確認に謙也は満面の笑みで返す。太陽のように眩しく、それでいて温かい謙也の笑顔は静を自然と微笑ませる。

「はい。ありがとうございます」
「ほな、行こか!」

意気揚々と改札に向かう二人の間には、心の距離を表すように一人分の隙間が出来ていた。

「…………」
「…………」
「すごいですね……」
「せやなぁ……」

たった二駅離れただけ。
たった十数分経っただけ。
それなのに。
たったそれだけなのに、自然の悪戯――否、悪戯なんてものではない。現在進行形で嫌がらせに遭遇し、謙也と静は駅のホームで立ち尽くしている。
二人の眼前は今もバケツをひっくり返したような、という形容が相応しい豪雨で真っ白になっている。ここまでとなればもうどうしたって諦めがつくというもの。それにこんな荒れ模様では遊園地のアトラクションも休止しているだろうし、万が一これからすぐに止んだとしても、室内アトラクションでもない限り座席はびしょ濡れだろう。それに加え、湿度がかなり上がり暑さに拍車をかけている。
端的に言って不快な状況だ。いくら遊園地が楽しかろうと、気分が上がらないのでは行ったところで楽しめるはずがない。
天気ばかりはどうしようもない、と納得させようとしてみるものの、やはり折角のデートを台無しにされてしまった感は残ってしまう。
どうにかして挽回したい、と謙也は頭を悩ませる。最後に静に楽しかったと言ってもらえるような一日にしたい。そしてそれは静も同じで。生憎の天気だけれども、それでも謙也の貴重な一日を貰っているのだからなんとか楽しんでもらいたい。
視線をホームに向けたまま、口を噤み、二人は考える。そして最初に動いたのは静だった。

「あの」

意を決した、とホームから謙也へと視線を移す。身長の高くない静がちゃんと目を合わせようとすると必然的に顔が上がり、謙也を見上げるかたちとなる。その姿勢がなんとも男心を擽る。
一気に上がる心拍数。
下手をしたら静にまで聞こえてしまうのではないかというほど大きく高鳴る心臓。意識しないようにすればするほど意識してしまう。
栗色の髪。
ブラウン・ダイヤモンドの大きな瞳。
薄い唇。
見れば見るほど一つ一つが綺麗で、整っていて。美人というよりもあどけなさを残す可愛らしさ。
謙也のクラスメイトの女子は校内、校外問わず化粧をしているが、静はそんな気配は一切ない。興味がないのか、それとも必要性を感じていないのか。何にしてもそれも一つの魅力として見えてしまうのだから、謙也の中での静に対する好感度はかなり高いことが窺える。

「な、なんや?」

静に悟られないように一歩引き気味に返事をしてみる。あまりにも静の顔が近くにあったからというのもあるし、これ以上至近距離で静の顔を見ていられる自信がなかったというのもある。

「そういえばここ、駅直結のショッピングモールがあるんですけど、よかったら行ってみませんか?」
「そうなん? 直結っちゅーことは濡れずに行けるんか! エエな!」

傘の用意をしていなかった謙也にとって、そして予定が真っ新になってしまった静にとって、救いとも呼べる施設を思い出せたことは幸運とも言えた。
流石にこの豪雨の中、傘も差さずに歩き回るのはいくら八月の終わりといえど風邪をひきかねないし、ずぶ濡れでは何処かに入ろうとしても入れない。
当初の予定とは全く違うし、結局ショッピングデートになってしまったが、ここにあるショッピングモールもなかなかの広さとテナント数がある。どこかしら楽しめる場所は見つかるだろう。
善は急げ、ということで二人はさっそく改札を出て、表示板に従い歩いていく。屋根付きの通路は豪雨を受け止めてか、かなり大きな音を立てている。それだけでも今降っている雨が凄まじいことが分かってしまう。
件のショッピングモールは三日前に訪れた大型商業施設の半分もないほどの規模ではあるが、こちらは地元に古くからある店やこの近辺にしか支店を出していないような中小企業、または個人店など地域密着型とでもいうような施設だ。商店街を一つの建物にまとめたと言えばわかりやすいかもしれない。
入り口のガラス戸を入ってすぐのところにある館内案内を抜き取り、謙也はざっと目を通す。

「なんやここ……めっちゃおもろいやん!」

案内から視線を上げて、そのまま静に顔ごと向ける謙也のその瞳はきらきらと輝いている。まるで小さな子が玩具を貰った時のようなそれ。思わず静は頬を緩ませる。

「よかったです」
「広瀬さんどこ行きたい!? 俺、ここと、ここと、あとこの階全部見たいんやけど!」

手にしている案内を静に見せながら、謙也は自分の行きたいところを次々と指さしていく。

「はい。忍足さんの行きたいところに行きましょう」
「ホンマ!? エエの?」
「忍足さんの行きたいところが私の行きたいところです」

無意識。
無自覚。
謙也も興奮しているために聞き流してしまったが、きちんと聞けばなかなかの口説き文句にも聞こえるそれは日の目を見ることなく消えてしまう。

「また上から見ていきますか?」
「せやな!」

意気揚々とエレベーターに乗り込み、どこからどうまわろうかとわくわくしながら案内を見る謙也とそんな謙也を微笑みながら見つめる静。
同じエレベーターに乗り込んだほかの乗客は二人の様子をそわそわとしながら見守る。なにせ、恋人同士なのか、それとも友人なのか、はたまたただの知り合いなのか。関係性が全然見えてこないからだ。
恋人、友人にしては距離が遠いし、かといって知り合いというには近しい。不思議で謎が深まる意中の二人。乗客が関係性を図りかねている間に目的階にたどり着いたため、謙也と静は揃ってエレベーターから降りていってしまう。結局何だったのだろう、と消化不良の思いだけが乗客の心の中に残ったのだった。

一通り店を見て回り、またしても謙也の手には複数のショッピングバッグがぶら下がる。両親に土産代としていつもよりも多く小遣いをもらっていたが、このままのペースで買い物をしていけば底が見えるのは予想よりもかなり早い。明日からの飲食などのことも考えると、ここらへんで止めておかなければ後で泣きを見るのは自分自身である。
また今日もめっちゃ買うてしもうたなぁ……。
自分の手にぶら下がるショッピングバッグを見ながら、謙也は一つ息を吐き出す。
買いたいものであったし、欲しいと思ったものばかりだから買ったことに対しては後悔していない。けれど先日の荷物と併せるとこれは確実に宅配で家に送らねばならないだろうという現実が見えてきてしまう。それが手間であり、面倒なことだった。
最初は持って帰ることを考えて最低限の買い物だけにしようと思っていたのに、蓋を開ければこの様だ。
自業自得なのだから仕方がないと割り切って、果たしてホテルで段ボールは貰えるだろうかと考えながら歩いていると、静のスマートフォンが着信を知らせる。
すみません、と一言詫びてカバンからそれを取り出して画面を見る。そして首を傾げる。一連の動作に疑問を抱いた謙也は静に問いかける。

「どないしたん?」
「あ、えっとお父さんから電話で……」
「そらはよ出た方がエエで。俺向こうの方行っとるから終わったら呼んでや」
「わかりました、ありがとうございます」

浅く頭を下げ、静は画面をタップしスマートフォンを耳に当てる。謙也は話し声が聞こえないよう、少し離れた場所にあったベンチに向かい、そこに腰を下ろす。
三分もしないうちに静が謙也のもとへ駆けてくる。走らんでもエエよ、と声をかけてはみるものの、言い切った時には既に静は目の前にまで来ていた。

「あの、忍足さん今日はこの後ご予定はありますか?」
「ん? いや、ないけど」

謙也の返答に、静はそうですか、と小さく呟いてから何度か深呼吸を繰り返す。只事ではない様子に謙也も僅かに身を強張らせる。そして放たれる、大きな爆弾。

「その、ですね……忍足さんさえよければ家で夕飯食べていきませんか?」
「…………なんて?」

直撃を喰らった謙也の思考はしばらくの間停止したままだった。

時刻はまもなく十七時になろうかというところ。
借りてきた猫という諺を現在進行形で体現している謙也は、じっとおとなしく窓の外を流れる景色を眺めている。
助手席に座る静は運転している父親と何やら話し込んでいるようだ。けれどその内容は一切入ってこない。何せ、思いを寄せる女の子の父親が運転する車だ。しかも行先は自宅。そして待ち受けるのは夕飯。緊張のし過ぎで胸がつっかえそうになるのを何とかごまかす。
事の発端は静の父親が久しぶりに料理の腕を振るい、そして久しぶりすぎて感覚をど忘れしたことと、端的に言って調子に乗った結果、大量にできてしまった夕飯が家で待っているということだった。
静の家族は両親と静の三人家族。どう考えても寸胴鍋いっぱいに出来上がってしまったシチューは食べきれない。
何故この暑い時期にシチューなぞ作ったのか。そして何故静の家に寸胴鍋があるのかなど突っ込みたい点はたくさんあったが、下手なことを言って場の空気を悪くしてしまうのは望むところではない。
むしろ静の親、特に父親とは良好な関係を築いておきたいとさえ思っている謙也にとって、突っ込むことができない以上黙っていることしか選択肢がない。
ぼーっと景色を眺め、車の快適具合を再確認していると、静の父親がそういえば、なんて話題を振ってくる。

「名前をまだ聞いていなかったね」
「あ、はい、忍足謙也です」
「忍足……ふむ。謙也くんでいいかな?」
「はい、なんとでも呼んでください」

娘との関係性がよくわからない男子に対して、静の父親は意外にもフランクな態度をとる。身構えていた手前、こうも軽い感じで来られてしまうと謙也の方は困ってしまう。畏まりすぎても、緩めすぎてもいけない絶妙な加減での接し具合を求められることは思うよりもかなり難しい。
社会に出てある程度広い人付き合いをしている社会人ならまだしも、謙也はまだ中学三年生だ。大人との接し方も勉強中であるし、そもそもここはホームグラウンドの大阪ではない。大阪では許されるような接し方を、静の父親に対してできるはずもない。故に一言一言に気を遣って話さなければならない。
それなのに、静の父親は構わずにどんどんと話しかけてくる。
出身の話。家族の話。学校の話。部活動の話。余程謙也に対して興味があるのか、話題は次から次へと湧き水のごとく出てくる。しまいには家に到着するまでその調子なものだから、静が止めなければもしかしたら家に入ってからも続いていたのかもしれない。
静に招かれ、リビングにあるソファに腰を下ろした謙也に、静は申し訳なさそうに頭を下げる。

「忍足さんすみません。うちのお父さん、興味が傾くといつもあの調子で」
「いや、エエよ。確かに色々訊かれてびっくりしたんはホンマやけど、見ず知らずの男を車に乗せるんやからあれくらい当然やろ」
「それにしたってさすがに道中ずっと話しっぱなしなのはどうかと思いましたので後でお母さんに言って釘を刺してもらいます」
「そこまでせんでも……」

苦い笑みを浮かべる謙也だが、流石に他人の家族のことにそれ以上何も言えなかった。

「こんばんは、えーっと、忍足くんでいいのかしら?」
「あ、はい! こんばんは、はじめまして。忍足謙也です」

静の母親の登場に、謙也はソファから立ち上がり会釈する。
初対面の人間には髪色で誤解されがちだが、謙也は基本的に育ちが良いと言われることが多い。それは謙也の両親がきちんとしているからに他ならない。そして静の母親も例にもれず、この時点で謙也の評価はかなり高い位置にあった。

「礼儀正しくていい子ねー! 静がいつもお世話になってるみたいでありがとうね」
「いえ、こちらこそ広瀬さんにはいつもお世話になってます」
「忍足くん。私も広瀬なのだから、静のことは名前で呼んでもらってもいいかしら?」
「えっ」
「え?」

母親の爆弾に謙也は当然のこと、流れ弾を受けた静も驚く。母親だけがにこりと笑みを浮かべ、ね? と謙也に視線を向ける。さすがに母親相手に嫌だと言えるはずもなく。それに加え、雰囲気に押される形で謙也はしどろもどろになりながら、なんとか承諾の意を示す。

「わ、わかりました……」
「お、忍足さん!」

何で、どうしてと言いたげな静の視線。けれど、どう考えたところで母親の意に沿う以外の未来は見えてこない。その道を選ぶ以外許されない、といった雰囲気だったのだ。

「し……、静、ちゃん」

戸惑いがちに、一字ずつ選ぶかのように、確かめるように、その名を口にする。その瞬間、静の内では様々な感情が沸き上がる。
嬉しい。恥ずかしい。緊張する。そして――ずるい。
最初に嬉しいという感情が来ている時点で静の中では結果は見えていた。けれどそれと同じくらい恥ずかしさがあるのも事実で。
それもそのはずである。静は生まれてから今まで、親族を除いた異性に下の名前を呼ばれたことなどなかったのだ。
だから、ぐるぐると感情が渦巻いてしまう。どうしたらいいかわからなくなってしまう。
そして、そんな娘の様子を隣で微笑ましそうに見る母親。春なのね、なんて口にすればこの繊細な二人の関係にひびを入れてしまうかもしれない。だから黙って見守る。色々な感情を抱え、百面相のように表情を変える謙也と静のことを。
けれどそんな楽しくも辛い時間はあっという間に終わってしまう。

「シチュー温め終わったよ」

父親がキッチンから顔を出したからだ。
母親が手伝うためにキッチンに向かうと、静は謙也をすでにランチョンマットが敷かれたダイニングテーブルに案内する。

「座って待っててください」

謙也にそう言い残し、静もキッチンへ向かう。
言われた通り椅子に座ったはいいものの、ポツン、とただ一人残された謙也は落ち着かず、きょろきょろとあたりを見回す。他人の家をじろじろと見るのは不躾だとはわかっていても、どこに視点を置いたらいいのかがわからない。
広瀬宅は玄関から始まり、廊下やリビング、そしてもちろん目の前のテーブルにも埃一つ見当たらない。いつも掃除が行き届いているようで謙也は感嘆する。
キッチンの方では広瀬一家が総動員で夕飯の支度をしている。時折楽し気な声が聞こえてきて、静とそしてその両親との仲の良さに謙也は人知れず笑みを漏らす。

「お待たせしました!」

そう言って三人が戻ってくる。その手にはシチュー皿とサラダを盛りつけた小皿、そしてトーストしたパンにカトラリーが見受けられる。
手早く、慣れた手つきであっという間にテーブルの上にそれらがセットされ、そして全員が着席したところで静の父親が両手を合わせる。それに連なる様に、母親と静も同様に手を合わせ、最後に謙也が手を合わせたところで食事を始める合図が放たれる。

「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
「い、いただきます」

スプーンを手に取り、まずは具材たっぷりのビーフシチューを一口。野菜は当然のこと、肉も柔らかく仕上がっていてかなりの時間をかけたことが窺える。野菜や肉から旨味がたっぷり出ていて、お世辞抜きにとても美味しく、謙也はあっという間に皿を空にした。

「謙也くん、おかわりたくさんあるから遠慮しないでいいよ」
「むしろ食べてもらえた方が助かるわ」
「あ、えっと、じゃあ、いただきます」

ここは遠慮すべきところなのかもしれないが、シチューの量と美味さ、そして静の両親からの是非食べてくれと言わんばかりの視線に、謙也は皿を父親に渡しおかわりをもらう。

「食べっぷりいいねぇ。作った甲斐があるよ」
「別に忍足くんが来るからって作ったわけじゃないでしょうに」
「そうだけど、こうも食べてくれると嬉しいね」
「確かに我が家ではこんなに食べる人間はいないからね」

両親の会話を聞きながら、静はすみませんと眉を下げ、謙也に苦笑して見せる。それに対して謙也も同様の表情を作る。
結局、謙也はその後三度おかわりをし、パンやサラダも完食した。
流石にご馳走になったままでは申し訳ないというわけで、洗い物をしようと謙也が席を立った瞬間に広瀬家全員が謙也を止めに入る。

「謙也くんは座ったままでいいよ」
「お客さんなんですからね」
「そうですよ! ゆっくりしててください!」

三人の圧に負け、はい以外の返事を出来ない謙也は大人しく席に座り直すしかない。けれどやはりとも言うべきか、落ち着かない。食事前と同じく視線を右へ左へやっていると、キッチンから静が顔を出す。

「忍足さん、食後にコーヒーと紅茶と緑茶が出せますけど、何か飲みたいものありますか?」
「えっ、いや流石にそこまでは、」
「子どもが遠慮するものではないよ」

自然な流れで会話に入ってきた父親にもはや驚きもしない。それじゃあ、と一呼吸置いて緑茶を選択する。はい! と明るい返答と同時に静は顔を引っ込める。それから数分の後、静がお盆に湯呑みを乗せてやって来る。

「どうぞ」
「おおきに」

まるで夫婦のようなやり取りに、謙也は内心ドキドキしながら湯呑みを手に取り、緑茶を一口含む。香りと甘味が抜群で、丁寧に淹れられたことがわかる。

「めっちゃ美味いで!」
「ふふ、ありがとうございます」
「ひ……し、静ちゃんはお茶淹れんのも上手いんやな!」

この場に両親――特に母親はいないのだから慣れている名字呼びでもいいところを謙也は敢えて名前で呼ぶ。それは謙也自身がそう呼びたいと思ったからに他ならない。広瀬さんよりも静ちゃんの方が親しい感じがするし、距離がぐっと近づいた気になれたからだ。

「あ、ありがとう……ございます。け、謙也さん」
「ん……ん?」

危うく聞き流してしまいそうになって、謙也は今一度静の言葉を咀嚼する。
あ、ありがとう……ございます。け、謙也さん。――謙也さん。
咀嚼し終えた途端、謙也の頬がぼっと染まる。

「謙也さんだけ私のことを名前で呼ぶのはなんだかずるい気がしたので……」

小さく、ともすれば溶けて消えてしまいそうな微かなそれは、謙也を完全に仕留める。
そしてそんな初々しく甘酸っぱい二人の様子に、広瀬夫婦は少し遠い未来、娘の隣を歩く義理の息子を見たのであった。


「は?」

九月一日。
学園祭準備最終日。
といっても、侑士たちのたこ焼き屋台を含め殆どの出し物は準備を終えており、最終チェックをするだけとなっている。だから、時間も比較的余裕があり、そうなれば必然的に会話も増えるわけで。
謙也から昨日の顛末を聞いた侑士は眉をしかめ、怪訝な表情を作る。

「謙也。もっぺん言ってみ」
「やから、昨日なんやかんやで静ちゃんの家で夕飯ご馳走になったんや」
「ちょぉ待ち。情報量が多すぎや。今静ちゃん言うたか? ちゅうか夕飯ご馳走になった? どういうことやねん。あとなんやかんやの部分が一番大事やろ」

まさか一つ言って三つ返ってくるとは予想していなかった為、侑士の怒涛かつ的確なツッコミに謙也は一歩退く。しかし侑士は更に追い討ちをかけるかの如く詰め寄る。

「家に行ったっちゅうことはもう告白したんか?」
「え? いや、しとらんけど」
「なんでや! そない親密度上げといてまだしとらんのか? ちゅうか告白しとらんのに家行ったんか」
「やから、なんやかんや言うたやろ」
「そのなんやかんやがわからんのや」

侑士の指摘は尤もで。流石にそこを説明しなければ話が進まないというのは謙也も理解している。
一つ息を吐き出して、謙也は昨日のあらましを順序よく話していく。

「昨日、遊園地に行く予定やったんやけど駅着いた途端めっちゃ雨降ってきて、急遽ショッピングモールに行ったんや。で、なんや知らんけど静ちゃんのオトンがめっちゃシチュー作りすぎてもうたから夕飯食ってけって話になってん」
「端折りすぎなとこは多めに見るとして、それならそうと先に言えや」
「はっ、恥ずいやろ!」

何を今更恥ずかしがることがあるのだろうと言いかけて、侑士は口を噤む。今まで散々馬鹿話から近況までなんでも話してきた二人ではあるけれど、恋愛ごとに関してはつい先日初めて話題に挙げたのだ。
思春期真っ只中な男子中学生にとって、恋愛話はすること自体、気恥ずかしいと感じるもの。いくら気心の知れた従兄弟同士といえど、やはりそこは恥ずかしさが先に来てしまう。そんな謙也の意図を汲み取って、侑士は小さくため息を吐き出すだけに留めておく。

「まあ、かなりステップアップしたんやないか? エエやん」
「やからお前は誰目線やねん」
「それにしても謙也が女の子のことを名前で呼ぶやなんてな。昔はめっちゃ恥ずかしがってたやん」
「見事にスルーしおったな……。まぁ、そこは俺もびっくりしとるんやけど」
「なんでやねん」
「まぁ、成長したっちゅーことやろ。知らんけど」
「自分のことやろ」

てっきりいつもの馬鹿話の延長かと思いきや、謙也は一つ息を吸い込むとワントーン声を落とす。真剣な話をする前触れを察し、侑士は意識を切り替える。真面目な話をしようという時に軽い態度は取れないし、謙也相手だからこそ取りたくないというのもあった。

「ちゅーか、名前で呼べるようになったんはエエけど、なんや友達感が強なってもうて、どないしたらエエ?」
「それは……」

どうしたものだろう、と侑士は首を捻る。言われてみれば、というより謙也の気質をよく考えてみれば確かにその通りだった。表裏のない性格であるし、男女関係なく平等に付き合うことができるのはある一点から見れば良いことづくめなのだろう。これが静と友達になりたいという到達点であれば完璧であったのだが、謙也の目指すところはそこではない。名前で呼び合える程の仲の良さが、恋愛方面ではなく友情方面に強く出てしまったというわけだ。
これこそが謙也が良い人止まりで終わってしまう最たる原因である。本来美点であるはずの誰とでも分け隔てなく付き合えるという点はこと恋愛ごとに関しては悪い方向へ働いてしまう。
しばらく考えた末に、侑士は捻った首を元に戻す。

「友達やないアピールをしてったらどうや?」
「なんやそれ」
「友達なら言わんやろうってことを言うとか」
「例えば?」
「可愛えとかか?」
「なんで疑問形やねん。ちゅーかそれはハードル高ない? 俺、女の子にそないなこと言うたことあらへんのやけど」

謙也がもじもじと恥ずかしそうに視線をさ迷わせる。けれど侑士はそれをばっさりと斬り捨てる。

「ハードル高かろうとなんやろうと自分から状況を打破せんと前に進めへんわ。それに言うたことないなら好都合やん。お嬢さんにしか言わへんでっちゅうんが使えるやろ」
「侑士お前天才か?」
「俺は氷帝の天才や」
「自分で言うなや」

ひとまず進むべき道と打開策が見えたことで、謙也の中にあった靄が少しずつ晴れていく。
最初の舵取りを少し間違えてしまったが、まだ軌道修正は間に合う。
そう、言い聞かせて謙也は自分の中のボキャブラリーを確認するのだった。

同時刻。
この会場内で一、二を争うほどの美貌の持ち主である白石は、静から昨日の出来事を聞いてその顔を僅かに曇らせる。そしてその後、それはそれは大きなため息を吐き出す。

「いや、その、まぁ、うーん、まさかなぁ……」
「すみません……」
「広瀬さんは何も悪ないやろ。これは完全にケンヤのピュア善性が悪い方に出てもうたな……。普通、男女間で名前で呼び合えるようになったらそういう方へ行くんやけどな……。なんでケンヤ相手やと友達感が出てしまうんやろ」

侑士と謙也が悩んでいたことをこちらの二人も同じように悩んでいた。しかも相談している静以上に白石の方が悩むという変な状況だ。

「それが忍足さんの良いところでもありますし」

必死にフォローするものの、白石の表情は曇ったまま変わらない。
何せ話題を振ったのも、手伝うと言ったのも白石自身だ。このままでは格好がつかないし、これでは面白半分に首を突っ込んで踏み荒らして立ち去る野次馬と同じだ。一度関わったのであれば最後まで責任を持つし全うしなければならない。
友達であり、同じ部活の仲間であり、従兄の侑士を除けばおそらく一番仲の良い人間である白石。いつも傍で見てきたからこそ、謙也の良いところをちゃんと知っている。そしていつか謙也のことを本当に好きだと言ってくれる人間が現れたら、全力でその助けをしようと考えていた。
最初こそ興味本位で話を聞いていた。けれど、謙也のことを良い人でも良い先輩でもなく、一人の男子として見て、好いていてくれている静のまっすぐな思いに触れて、真剣に応援したいと思った。いつも良い人止まりで終わってしまうと自嘲気味に言っていた謙也に、静を引き合わせたいと思った。
だからこのままでは終われない。引き下がれない。

「ケンヤ、ホンマ手強いな……。伊達にエエ人呼ばわりされとらんな」

むむ、と悩む白石の横で静も眉を下げ口を結ぶ。そしてこの大きくて厄介な問題に対する解決策を模索していく。
もしかして私に女の子としての魅力が無いから、謙也さんは友達、ひいては後輩としか見てくれないのかな。
若干見当違いな方向へ静の思考が流れていく。魅力以前に謙也の気質の問題であるのだが、そこは静の性格とも言うべきか、問題の焦点を他人に移すことをしない。何かあればまずは自分を見つめなおす。それも美点と言えるが、今抱えている問題に対しては全く別のアプローチと言える。
白石と静、両者ともに誰に言われたわけでもなく沈黙を守り続ける。状況を理解していない人間が見ればそれは何とも奇妙な光景に映ったのかもしれない。なにせ、見るからに他校の制服をまとった男女が何やら重苦しい雰囲気を出しながら思い悩んでいるのだから。けれど今この場には白石と静の二人だけだ。この様子を見る人間がいないのは幸いであった。
解決策を見つけられないまま時間だけがどんどんと過ぎていく。感覚的に五分ほどが過ぎた頃、白石がいまだ悩みの渦中に居ながらも顔を上げる。

「上手くいくかどうかわからんのやけど、一つ思いついたことがあるんや」
「なんでしょう?」

白石の不安が混じる提案に、静はじっとその瞳を見つめる。
良くも悪くも静は人と話すときには相手の目を見る癖がある。それが良いように働くときと悪いように働くときがある。今回の場合は後者側に寄ってしまった。まるで期待されているようなまっすぐな視線は、白石を期待外れだったらどうしよう、と
若干尻込みさせる。
けれどここで引いてはいられない。気を取り直して白石はそれを口にする。

「押してダメなら引いてみろ作戦や」
「押してダメなら引いてみろ作戦、ですか?」

白石の言葉を復唱して、静は首を傾げる。静自身、押した自覚はあまりないのだが、それを言えばまたややこしいことになると思い、言葉を飲み込んで白石の作戦に耳を傾ける。

「今まで仲良ぉしとったのにいきなり距離取ったらなんで? ってなるやろ。もしかしたら広瀬さんも俺のこと気になっとるん? ってなるはずや」
「そう、でしょうか?」

白石のことを疑うわけではないが、謙也がそのタイプに当てはまるかどうかはわからない。
しかし静だけではこのままの関係から抜け出せない可能性も無きにしも非ずといった感じだ。
ならば、取る道は一つしかないのかもしれない。

「俺自身もこれならいける! っちゅう確たる自信はないんやけど、これくらいしか思いつかんわ」
「わかりました。その作戦でやってみます」

折角アドバイスをもらったのだから。作戦を考えてくれたのだから。
静は笑い、白石に頭を下げた。

この日、謙也と静は氷帝、ゲストで呼ばれた四天宝寺メンバー内でちょっとした話題になるようになった。
何せ片や謙也は静に持てるすべての語彙を持って褒めちぎっているし――その内容はかなり幼稚なものという少々お粗末なものではあるが、片や静はそれから逃げ回っているというのだ。
その光景は傍から見れば大変面白いものであるし話題になることも納得なのだが、当人たちはそれこそ必死だ。謙也は静を見つけるなりその姿を追いかけるし、逆に静は謙也の姿を見かけるなり避ける上に、もし捉まってしまったら無理やり用事を作りその場から立ち去る。
奇しくも侑士と白石のアドバイスが見事にダメな意味で嚙み合ってしまった。
押してダメならさらに押せ。
押してダメなら引いてみろ。
暖簾に腕押しとでも言うのだろうか。謙也も静も面白いくらい空回りしてしまい、しまいには慣れないことをし続けた為、肉体的にも精神的にも疲れてしまった。
広場のベンチにどっかりと腰掛けて、謙也は身体中の空気を全て吐き出すかのように大きなため息をこぼす。

「なんで俺避けられとるんやろ……」

ぼそり。
独り言は誰に拾われるでもなくコンクリートにぶつかる。
もしかして名前で呼ばれることに抵抗があったのだろうか。それとも昨日のデートで静の機嫌を損ねるようなことを言った、もしくはしてしまったのだろうか。はたまた嫌われてしまったのだろうか。
好かれているかはともかく、嫌われてはいないだろう、と思っていた。けれどそれも自惚れだったのかもしれない。
色々なことが頭の中でぐるぐるとメリーゴーランドのように回る。一周、二周、三周目に突入しようかというところで背中に、否、脳天に声が突き刺さる。

「おい、忍足従弟」

謙也がゆっくりと首を後方へやると、声の主は片眉を上げ、謙也のことをじっと見据えていた。

「跡部くん」
「お前、うちの運営委員を追いかけまわしてるみたいだな」
「うぐ……、跡部くんも知っとるんか」
「俺様はこの学園祭の運営委員長だぜ。知らねえことはねえよ」
「さよか……」

途切れる会話。気まずい空気があたりを包み込む。

「えっと……ここ座る?」

耐えきれなくなった謙也が自分の隣を指さす。けれど跡部は、いやとその誘いを断る。

「俺様も忙しいんでな。端的に言って、お前は何をやってやがるんだ?」
「何って……、」

何だろう、と謙也は言葉が出てこない。
静のことを好きだと自覚してから、侑士に相談をして、デートに行き、名前で呼び合えるようになった。
今まで彼女がいたことのなかった謙也にしてみればここ数日は怒涛で、夢のような日々だった。
そして恋愛に不慣れな謙也が身近で話しやすい相手――侑士にアドバイスを求めるのは当然のこと。侑士もそんな謙也を思ってアドバイスをしたのだ。
けれど、けれど――。
そもそも、侑士の恋愛についてのあれこれは恋愛小説や映画などの作品を介して得たものだ。実際に経験したわけでもないし、侑士自身も彼女がいたわけではない。全てが知識でしかないのだ。

「今日一日、お前の奇行ぶりを見聞きしたが何を目的にしてるのかが全くわからねぇ。運営委員に嫌がらせでもしたいのか?」
「奇行て……、いや、奇行、なんかもな……。でもこれだけは言わせてくれ! 俺は静ちゃんに嫌がらせをしたくて追いかけまわしてたわけやない」
「まぁ、そうだろうな。お前はそんな人間じゃないというのは日頃の行いやらを見ていればわかる。大方、忍足あたりに何か吹き込まれでもしたんだろ」
「跡部くん、もしやエスパーなんか?」

跡部は謙也と静の間に起こった出来事は何も知らないはず。謙也が侑士に相談したのも知らないはず。なのにこの言動はまるでその場に居たかのような的確さがあり、謙也は目を丸くすること以外できない。

「だから言ってるだろ。俺様に知らねえことはねえ」
「それにしたって限度っちゅーんがあるやろ」

謙也の困ったような、驚いたような感情が入り混じった表情を見て、跡部は得意げに笑みを作る。

「何をしたいのかは知らんが、他人にアドバイスをもらうよりも前にまずは自分で考えてやってみるんだな」
何をしたいのかは知らない。跡部はそう言うが、その表情は完全に知っていると言いたげなものだった。
「自分で、考えて……」

跡部に言われなければ気付かなかった。
確かに、恋愛という未知の領域に足を踏み入れる際に、謙也は自分で考えるよりも前に侑士に相談をしてしまった。どうしたらいいかわからないから、という言い訳を心のどこかでしていたのかもしれない。
まずは自分で考えて、行動する。
中学生――しかも三年生になってそんな基本的なことも頭からすっぽ抜けていたなんて。

「あー……、せやな。せやったわ! 跡部くん、おおきに!」

勢いよく立ち上がり、パチン、と両頬を叩き、気合を入れなおす。謙也の表情が変わったことに跡部は満足したのか、くるりと踵を返す。

「うちの運営委員をモノにしたいんなら頑張ることだな。あいつはお前が思っている以上に周りに気に入られているからな」
「……やっぱ跡部くんエスパーやん」

去り際の跡部の爆弾をまともに受けた謙也の独り言は今度も誰にも拾われなかった。

跡部からの指摘を受け、謙也は自分の行動を見つめなおした。どうにも性に合わないことをしているという自覚もあった為、静を褒めちぎることをやめ、追いかけることもしなくなった。
侑士ならともかく、俺には向いてへんわ。
そもそも侑士と謙也とでは恋愛に対する考え方や好きな人へのアプローチも違うのだから、それもそのはずなのだ。
そのことを侑士に伝えれば、そうかとだけ返ってきた。侑士自身もこうなるだろうという予想があったのかもしれない。
そして時を同じくして、静も白石からの進言を受けて謙也のことを避けるのをやめた。
いくら白石から授かった作戦とはいえ、静自身謙也を避けることにかなりの抵抗があったのだ。元より人を避けるということに苦手意識を持つ静にとって、押してダメなら引いてみろという作戦は合わなくて当然とも言える。
そんなこんながあり、互いに好意を抱きつつも自然な態度で接するように戻れたわけなのだが、だからといって謙也と静の間にある友達感というものが変わったというわけでもなく。むしろ自然に接することにより二人の中では更に友達感が強まっていくのを感じていた。
しかし謙也は静と他の女子生徒で、話すときの表情や声色が明らかに変わった。表裏のない、明るいというのは変わらずだが、静と話すときだけそれに加えて優しさや愛おしさを思わせるような色味が混じるようになった。そして静も基本的な応対は変わらずだが、謙也と話すときだけいつもよりも笑顔が輝いている。
好意を自覚した上での無意識なそれ。いわゆる両片思いという状況は周りを甘酸っぱい気持ちにさせるだけでなく、謙也、静狙いの人間を牽制する効果もあった。
けれど、気付いているのは周りだけで、肝心の当人たちは全く気付いていないというのがなんとももどかしい気持ちにさせる。

「忍足くん、なんやあれ」
「俺が訊きたいわ」
「あんなわかりやすい雰囲気出しとんのになんでステップアップせぇへんの? なんでその場で足踏みしとんの?」
「お嬢さんも見てる感じやと鈍そうやし、謙也は謙也で恋愛ビギナーやし、順当な結果やろ……。まぁ、見とるこっちはめっちゃ恥ずかしい上にもどかしいけど」
遠目から謙也と静の様子を窺っている侑士と白石は小さくため息を吐き出す。
「でもまぁ……」
「せやな」

けれどその表情は何故だか嬉しそうでもあった。
従弟が、仲間が、初めて歩む恋の道。右も左も分からない中で、それでも頑張って一歩、また一歩と歩もうとしている。そんな姿を見て、嬉しくならないはずがなかった。

「それにしてもケンヤ、こっちに居るの後三日てわかっとんのかな」
「さぁの。まぁどうにかなるんやないか? 知らんけど」
「忍足くんてたまにケンヤに対して放る時あんな」
「もう放っても大丈夫やろ。ちゅうか俺のアドバイスもどきは最初から的外れみたいやったしな」
「その件に関しては俺も同じや」

互いに顔を見合わせた後、二人して苦い笑みを作る。

「侑士ー! 白石ー! そろそろ門閉まるらしいで!」
「ん。ほな帰ろか」
「せやな」

謙也が手を挙げ、大きく振っている。その横で静もいつも見せる笑みを浮かべる。
そんな二人を見て、侑士と白石はぎゅっと心臓を掴まれた心地だった。


遂に迎えた学園祭初日。
どこもかしこも活気に溢れ、これぞ学園祭という賑わいに謙也は浮き足立つ。とは言っても、持ち場であるたこ焼き屋台が予想以上に繁盛し、四人で切り盛りしてもまだ猫の手を借りたいといった程であるため、ゆっくり会場内を見て回ることも叶わない。
九月に入ったばかりだからか、まだまだ暑さは引くことを知らない。太陽は燦々と輝き、銅板から昇る熱気も相まって屋台の内側は想像以上に暑い。滝のように汗が流れ、タオルで拭ったところで次から次へと吹き出てくるものだから、制服には大きな染みが出来てしまう。

「溶けるんちゃうか……」
「虎じゃねーんだから人間が溶けるかよ! 謙也、次!」
「いや岳人、虎も溶けへんよ」
「忍足さんそれは絵本の話ですよ」
「マジレスはいいから手を動かせよ!」

喧騒に負けないくらいの賑やかさを見せながら四人は次々とたこ焼きを焼き、舟皿に盛り付けて、会計を終え待っている人々に渡していく。

「お疲れ様です!」

背中にかかる可憐で元気な声。謙也が振り返ると、太陽に負けないくらいの明るい笑みが飛び込んでくる。

「静ちゃんもお疲れ様やで」
「いえ、私は何もしてないので……。これ皆さんでどうぞ」

担いでいたクーラーボックスを下ろす。かなりの大きさと重量のあるそれは、静一人で持ち運ぶには大変であるはずなのに、そんなことを表情に一切出さず、静はいつものようににっこりと笑みを見せる。

「広瀬気が利くじゃん!」
「おおきに、お嬢さん」

岳人と侑士が揃って礼を言う。日吉も銅板から視線を外さずに小さく礼をする。

「私、午前中は手が空いてるのでお手伝いします」
「エエの?」
「はい!」

任せてください! と静は息巻く。
時間を見つけては屋台組と一緒にたこ焼きを焼く練習をしていた甲斐があってか、静の腕前はかなりのもので。それに加え、男四人世帯に折り紙付きの可愛さを持つ女子が入ったことで道行く男子の目が集中し、足が向き、忙しさに拍車をかけることになる。
ただでさえ人集りが出来ていた屋台前には遂に待機列が出来るほどになってしまう。

「……客寄せパンダか?」

日吉がこぼした独り言に誰一人として反論できず、慌ただしく時間が過ぎていった。

楽しい時間はあっという間、という言葉があるように、初日、二日目と目紛しく過ぎていった。
そして他の追随を許さぬ圧倒的、かつぶっちぎりの結果を持ってして、たこ焼き屋台が優勝を飾った。
残すは最後のキャンプファイヤーと有志によるダンスのみ。
これで終わりだから。
いい思い出にしたいから。
この機を逃す手はない。
様々な思惑が錯綜し、キャンプファイヤーの周りではドラマが頻発する。といっても主に告白イベントなのだが。
笑う者、泣く者、初々しさ全開のカップルにそんなの関係ないとばかりにはしゃぎ回る団体など、右を見ても左を見ても人間観察には事欠かない状況の中で、例に漏れず静も声をかけられる。

「広瀬さん、一緒に踊りませんか?」
「広瀬、俺と一緒に踊ろうぜ」
「広瀬先輩、僕がエスコートしますよ!」

先輩、後輩、同級生、自他校関係なくここぞとばかりに言い寄ってくる男子を、静は次々と斬り捨てていく。
何故自分に声をかけてくるのかわかっていない静の心中は困惑しかない。そもそも一度も話したことのないような男子に最後のダンスを誘われたところで靡くわけはないし、静もそこまで度の過ぎたお人よしではない。
何人目かの相手に断りを入れたところで一つ息を吐き出す。そして自然とキャンプファイヤーに目が行く。めらめらと燃え、周囲を照らす炎。その周りで音楽に合わせ踊る男女。
胸を過るのは金色の髪を持つ思い人。
賑やかなことが好きだからもしかしたらあの中にいるかもしれない。四天宝寺の面々といるのか、それとも――。
それとも、ほかの女子と踊っているのか。

「それは……嫌だなぁ」

ぼそりと零した本音。
それを拾ったのは――。

「何が嫌なんだ?」

今まで聞いたことのない声の主だった。
キャンプファイヤーからその声の主に視線を移動させる。やはり声同様姿も見たことがない相手で、静は今度こそ困惑を表情に出してしまう。
誰、だろう……。
氷帝の基準服を身に着けているから自校の生徒だというのはわかるのだが、それ以外の情報がないためにどう対処したらいいものか悩んでしまう。そして初手を切るのが遅れたために、相手が間合いに入ることを許してしまい、あっと思った時には手を取られていた。

「広瀬、相手がいないなら俺と踊ろうぜ!」

強引に手を引かれ、静はバランスを崩す。けれど男子生徒は構わず、一歩を踏み出してしまう。

「え……っ、あの、待っ、」
「おい、何しとんねん」

転びそうになっている静の体を支え、一方的に掴まれていた手を振りほどき、静と男子生徒の間に自身の体を滑り込ませたのは、ほかの誰でもない――、

「謙、也さん?」

静の視界には真っ白なシャツしか入ってこないけれど、顔を見なくてもわかる。
わかってしまう。
謙也は今、ものすごく怒っている、と。
背中しか見えない状態でこんなにも怒気を孕んでいるのだから、面と向かっている男子生徒はとても怖いものを見ているのではないかと思ってしまう。

「な、なんだよお前!」
「お前こそなんやねん」

場の空気が凍り付く。いつも温厚で誰にでも分け隔てない明るい態度を取っている謙也からは想像できないほどの冷たい言葉。

「俺は広瀬と踊るんだよ! な! 広瀬」
「は? 無理やり手引いといてよぉ言えたな」

じっ、と怒気しか宿していない瞳で睨まれ、男子生徒は怯む。けれどここで退くのは男としてのプライドが許さなかったのか強い視線を謙也に向ける。――が、その威勢はほんの一瞬で終わってしまう。
謙也の目に映るのは男子生徒の肩に手をかける侑士と白石の姿。

「すまんなぁ、うちの部員が迷惑かけたみたいやな」
「まぁ、やけど昔から言うやろ? 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえってな。お前もまだ死にたないやろ?」
「忍足くん、それ慣用句やろ」

のほほんと男子生徒を挟みながら会話をする侑士と白石ではあったが、肩においた手はがっちりと、それこそ力の限り握りしめ、これ以上は言葉にしなくても理解しろと言外に伝える。
肩の痛みと自分よりも頭半分大きな男二人による圧力に耐えきれなくなり、男子生徒は逃げ出すようにその場を後にする。

「ゆ、」
「忍足くん、むこうで跡部くんがオンステージしとるらしいから見に行こうや」
「跡部の奴またそないなことやっとるんか……」

謙也が侑士と白石に礼を言うよりも前に、二人はさっさと踵を返してしまう。
残されたのは呆気に取られている謙也とその後ろで匿われている静の二人だけ。そして謙也の後ろで会話のやり取りしか聞いていなかった静は状況が飲み込めない。けれど今明確に分かっていることは自分が謙也によって助けられたということだ。

「謙也さん」
「おん?」

名前を呼ばれ、謙也は静の方へ向き直る。静を見つめる謙也の表情はいつものそれで。先ほどの冷たく怒気を孕んだオーラは綺麗に霧散していた。
てっきり機嫌が悪いものだと覚悟をしていた静はその変わりように内心焦る。けれど、名前を呼んだ手前、言うべきことは言わなければと口を動かす。

「あの、助けていただいてありがとうございました」
「や、俺が見てらんなかっただけやし」
「でも、助けられました」
「さよか」

僅かに苦みを混ぜて謙也は笑う。その表情に静の手が伸び、謙也の右手を取る。

「――、え、あ……」
「…………、っ」

感情が表に出るよりも先に手を取ってしまったために、静は言葉が出てこない。そして謙也もいきなり手を取られたことにより思考回路がショートして同じく言葉が出てこない。

「――、あ、あの……! もしよければ、一緒に踊りませんか?」

それでも何か言わなければ、と口を突いて出たのは先ほどの男子生徒と同じ言葉だったことに静自身思うところはあったが、一度出てしまった言葉は戻すことはかなわない。
それに今日で最後だから。
明日になれば謙也は東京にはいないのだから。
この手を離してしまえば、多分、もう会うことも話すこともかなわないのだから。
けれど、断られるかもしれない。
もしかしたらほかに思い出を作りたい人がいるかもしれない。
様々な思いが絡まり、苦しくて、息をするのもやっとの状態の静の手を謙也は優しく握り返す。

「エエよ! 踊ろ!」

眩しく輝く太陽のような笑みに、静の胸中はすっきりと晴れる。

「やけど俺フォークダンスとか踊れんから適当やけどエエ?」
「はい!」

元気な返事は謙也の笑みを更に明るくさせる。
謙也が踏み出すと、静もそれに合わせて右足を出す。型のない、適当で、その場のノリとテンポに合わせたものではあるが、この場の誰よりも楽しそうに踊るその様子は、いつしか周囲の視線を集めていく。

「ふふっ、楽しいですね」
「せやな!」

キャンプファイヤーの炎によるものなのか、それとも至近距離に互いの顔があるからなのか――恐らく後者であろうが、頬は火照り、握った手はどんどん熱を持つ。その変化に否が応にも気付いてしまう。
それがどんな意味を持つのか、今更わからない二人では、ない。

「――静ちゃん」
「……はい」
「この前は追いかけまわしてすまんな」
「いえ、私こそ避けてしまってすみませんでした」
「慣れないことはするもんやないな」

はは、と笑い謙也がターンをすると静もそれに合わせて体をくるりと翻す。髪がふわりと舞い、シャンプーの香りが謙也の鼻を擽る。

「実は謙也さんに褒められてとっても嬉しかったんです。恥ずかしくもありましたけど」
「嬉しかった? ホンマ?」
「はい、本当です。でも、あんまりああいうこと女の子に言わない方がいいですよ? 誤解されちゃいますし」

ふふ、と静が笑うと謙也は間髪入れず否定する。

「静ちゃんにしか言うたことない。ちゅーか、静ちゃんにしか言わんよ」
「へっ?」

静の意識が足元からすっぽ抜け、危うく転びそうになったところを謙也が上手くフォローする。ぐっと近付く顔に、静の頬はこれ以上ないくらい真っ赤に染まる。
まっすぐ、じっと、謙也がきらきらと輝くブラウン・ダイヤモンドの瞳を見つめる。

「好きや。俺は静ちゃんのことが好きなんや」
「えっ、あ、その……」
「気持ちに応えてほしいとは思ってへん。ただ、今日で最後やしちゃんと伝えんとなって」

いくら態度で示したところで言葉にしなければ伝わらないというのは先日学んだこと。
そして、実るにしても散るにしても、区切りをつけなければ大阪に帰ったところで燻る思いに引き摺られるような気がした。

「この二週間、めっちゃ楽しかったで。大阪に帰るんが惜しいくらいや」

惜しいと言いつつも、じゃあ東京に残るという選択肢は謙也の中には存在しない。慣れ親しんだ土地を離れるのはやはり寂しさもあるし、中学生の身分で一人暮らしをするのは経済的にもそして両親の心情的にも難しい。侑士の家に居候するという手段も取れるが、謙也は四天宝寺中学校ひいてはテニス部のことが大好きで、彼らと共に全国制覇を成し遂げたいと思っている。それに志半ばで仲間と袂を分かつことも、仮に周りが許したとしても謙也自身がこれからずっと後悔を背負うことになるのは見えている。
だから、残らない。どんなに後ろ髪引かれようが、そこは曲げられない。曲げられるはずがない。
謙也の中で、テニスへの情熱が恋愛感情よりも下になることは、少なくともこの先数年は決してないのだから。

「……謙也さん」
「ん?」

静かに、囁くように、名前を呼ばれた謙也は視線を落とす。するとそこにあったのは耳まで真っ赤に染めた静の顔。

「好きって気持ちは、遠く離れても通じ合えると思うんです。謙也さんのお邪魔にならない程度で構わないので、私の気持ちも置いてもらえませんか?」
「……えーっと?」

静の言葉の意図がわからず、謙也は首を傾げる。それに対し、静は一度口を引き結んだ後、もっとわかりやすい言葉を選んで口にする。

「私も謙也さんのことが好き、です」
「ホンマ?」
「はい」
「嘘やない?」
「嘘なんてつかないですし、気も遣ってません。本心です」

謙也の瞳をじっと見据え、その言葉を信じさせる。

「ちゅーことは、俺ら恋人同士になるんか?」
「そう、ですね?」

恋愛レベルが互いに低すぎる二人にとって、告白をした後から先がわからない。とりあえず恋人同士という間柄を手に入れはしたものの、じゃあどうしようという話になってしまう。

「あ、せや」

思い出したように謙也は制服のズボンからくしゃくしゃになってしまった包みを取り出して、それを静に差し出す。それは初めてデートをした日に静に内緒で買って、そしてずっと渡せずにポケットに入ったままだったもの。

「これ」
「はい?」

謙也から受け取り、静は中を確認するよう促される。丁寧に封を開け、傾ける。と、中から華奢な音を奏でて出てきたのはガラスビーズとチェーン、そして花のチャームでできたアンクレットだった。

「初めて二人で出かけた時、静ちゃんの綺麗な足見て似合いそうやなって思て買うてたんや」
「足が綺麗って、謙也さん、忍足先輩みたいなこと言いますね」
「侑士と一緒にせんといてや!」
「俺かて謙也と一緒にされたないわ」
「うぉ! 侑士!?」
「広瀬さんおめでとさん」

いきなり背後からぬるっと現れた侑士と白石に謙也と静は目を丸くする。
いったいどこから、否、どこまで見ていたのだろう。
気が気でない二人をおいて、侑士と白石は謙也に対し場の雰囲気も考えずに容赦なく突っ込んでいく。

「謙也、流石に女の子に二度も告白させるんはどうかと思うで」
「あと、プレゼントを制服のポケットに入れてぐしゃぐしゃにしとるんも減点や」
「まぁ、でも」
「せやな」

侑士と白石は顔を見合わせて、うんうんと二人だけで意思疎通を図る。

「ちゃんと自分から言いだせたんは合格や」
「よぉやったなケンヤ!」
「親か!」

謙也の渾身の突っ込みを見事にスルーして、二人は静の方へ視線を投げる。まさか自分に話が振られるのでは、と静が心の準備をしている間に、事は済んでいた。

「――――」
「――――」

静の両耳に囁かれる、中学生とは思えない色気を帯びた声。こそばゆくて肩を上げ、反射的に瞼を閉ざす。

「ほな」
「俺ら跡部くんのステージに呼ばれとるから」
「跡部くんまだオンステージなん!? ちゅーか静ちゃんに何言うたん!?」

謙也の叫びもむなしく、色男二人は颯爽と去っていく。再び残された謙也と静の間には何とも言えない空気が漂う。

「侑士と白石に何言われたん?」

どうしても気になったのか、謙也が控えめに、かつ興味津々の目で静を見つめる。

「えっと……、内緒です」
「なんで!?」
「でも変なことは言われてないですよ」
「余計気になるやん!」
「というか二人同時に言われたので上手く聞き取れなかったんです」

少しの嘘を混ぜて静は微笑みと共に返す。

「大事な従弟なんや。謙也のことよろしゅうな」
「大事な仲間なんや。ケンヤのことよろしゅうな」

それは謙也と静の恋路を応援してきた二人からの大切なお願いだった。

謙也を除く四天宝寺の面々と侑士の協力のもと、左足首に花を咲かせた静が謙也を訪ね大阪に赴くのはもう少し先の話のことである。