春、来たる


八月ももう下旬に入ったっていうのにうだるような厳しい暑さはまだ続いている。
俺、岳人、日吉が合同学園祭でやるたこ焼き屋の屋台は、冷房の効いた本館ではなく屋外の模擬店スペースに配置されたからか、準備中直射日光と熱気がこれでもかと襲い来る。
なるべく日陰に入って作業はしているものの、それでどうにかできるほど今年の夏の暑さは生易しいものではなく。制服に大きな汗染みを作りながらの作業は体力だけでなく徐々に気力さえも奪っていく。
ちゅーか暑い。無理。

「あっついわ。ちょっと休憩しよか」

岳人と日吉にそう声をかけて、ぱたぱたと手で煽ぎながらふらふらと歩きだす。
向かう先は広場。あそこならば、噴水があるから少なくとも今俺たちが作業しているところよりかは幾分か涼しい、はず。
涼しい場所を求めるなら本館に行けばいいのだろうけれど、あそこは冷房が効いているから一度入るともう二度と日の出ているうちに外に出たくなくなる。
ほんま文明の利器っちゅうんは恐ろしいわ。
そんなことをぼんやりと考えながら足を動かしているとようやく広場に到着する。
予想通り、噴水から常時噴き出している水が若干のミスト状になっていて、模擬店スペースにいた時よりも断然涼しく感じる。けれどそれでも暑いのには変わりはなくて、もうこのまま噴水に飛び込みたいくらいの気持ちだった。
けれど生憎と着替えなんて持ってきていないし、そもそもそんな年甲斐のないこと恥ずかしくてできるわけがないから諦めざるを得ない。
なので、せめて一番涼しくなるように、と噴水に腰かけて、そして一度空を仰ぐ。――とそこにあったのはカンカン照りの太陽と絵具でベタ塗りしたような雲一つない真っ青な空。
夏という言葉を表した空模様に一つため息を吐きだす。
しばらくそのまま空を見上げていたけれど、数分もしないうちに首が痛くなってくる。がくりと視線を落とした瞬間――一メートル先を何かが横切るのが見えた。反射的にそれを目で追うと、その正体は女の子であるということがわかった。
栗色の髪を風になびかせ、可愛らしい横顔をしつつも胸に抱える書類の量はその顔に似つかわしくなく。白と青を基調とし、ワンポイントで赤いリボンをあしらったセーラー服を身にまとった女の子。一瞬青学テニス部のマネージャーかとも思ったけれど、マネージャーにしてはやけに色白だしそれにまとっている雰囲気が運動部のそれとは違っていたことから学園祭の運営委員だと推察する。
青学はえらい可愛い子が運営委員やっとるんやな。……エエな。
そういえば氷帝の運営委員はどんな子だっただろう、と取ってつけたように思い出そうとするものの、いまいち顔が思い出せない。暑さで頭がぼうっとしているせいかとも思ったけれど、単に自分の興味が向かなかっただけの話だったというところに思い至る。
まあ、運営委員なんてこの学園祭が終われば全く関係なくなるわけやしな。
女の子は打ち合わせを終えたのかすぐさまどこかへ駆けて行ってしまう。仕事熱心なのか、やることが山積みなのか、それとも元気が有り余っているのか。
何にしたってこんな暑いのによぉ走るわ。
感心しながら行くあてのなくなった視線はもう一度空を見上げる。
そこは相変わらず夏真っ盛りな具合だったけれど、噴水のおかげで来た時よりかは幾分か涼しくなっていた。
あまりにも気持ちがいいものだからもうしばらくはここで涼んでいこうと思っていた矢先、遠くの方から岳人の声が聞こえる。
ああ、きっといつまでも休憩から戻らない俺を迎えに来たのだろう。
仕方ない、と少し勢いをつけて立ち上がると、呼ばれるまま岳人の元へ歩いていった。


今日も今日とて昨日と同じくらいの暑さにやられ、広場に涼みに来た。相変わらず噴水の近くは涼しくてどことなく気持ちも楽になる。
あー……屋台んとこもこれくらい涼しいとエエのになぁ。
また昨日と同じく空を見上げたその時だった。
突如として目も開けていられないような強風がここら一帯を襲う。咄嗟に顔を下に向けて目に砂埃が入らないようにする。
それは正しく突風というにふさわしい風だった。

「きゃっ」

小さくて短い悲鳴。
風が吹きやんだのを確認してから何だろうかと伏せていた視線を上げれば、昨日見かけた女の子が木を――正確には木の枝を困り顔で見つめていた。
随分とおかしなところを見ているものだ、と俺もそこへ視線を移すと、白い紙きれが一枚引っかかっていた。
もしやさっきの突風でプリントが飛んで引っかかった、とかか? そんなベタな……と思いつつも、どうやらそれが正解だったらしく、女の子はどうにかしてそれを取ろうと手を伸ばしている。けれどどう考えてもその子の身長と腕の長さでは届くはずがない高さだ。
数秒粘ってはみたものの、女の子は自力では届かないと悟ったのか、今度は視線を下に向けきょろきょろと何かを探している。けれど探し物はなかなか見つからないらしく、女の子は小さくため息を吐きだす。
なんだかその様子を見ていられなくてそっと彼女に近づく。

「あれを取ればエエんか?」
「え?」

突然知らない男から声をかけられたことに驚いたのか、女の子は慌てて視線を上げて、そして次に目を丸くする。
その表情の変化が何やら面白くて、けれどそれを口にできるほど俺とこの子との間にはまだ何もなくて。
結局返事を待たずに勢いをつけてその場で飛び上がる。木の枝に引っかかっていたプリントを取って、ほいと彼女に差し出すと、深いお辞儀と共に綺麗で可憐な声が返ってくる。

「ありがとうございます。えっと……」
「ああ、氷帝の忍足や」
「忍足、さん。私は青学の広瀬です」
「どうも、広瀬さん」
「…………」
「…………」

自己紹介から後が続かない。それもそうだ。何を話したらいいのか、まだお互いのことを名前しか知らないのだから。何か話題を探そうにも共通項すらわからない。しかもそれが他校で、異性であるならばなおさらだ。

「あの、私、そろそろ……」
「ああ、引き留めてしもて悪かったな」
「いえ、失礼します」

にこりと笑みを浮かべて、広瀬さんは行儀よくまた頭を下げてくるりと踵を返す。
その後ろ姿が見えなくなるまではなんともなかったのに、完全に彼女が去った後、不思議と心臓がバクバクとがなり立て始める。

「あー……いや、俺単純すぎひん?」

ぼそりとこぼした独り言はゆっくりと真夏の空に溶けていく。
たまたま見ていられなくてプリントを取っただけなのに、彼女は本当に行儀よく接してくれた。
数秒会話しただけだというのに。
笑みを返されただけだというのに。
たったそれだけなのに。
――俺の心はあの子に落ちていた。


暑く蒸した空気を一つ、大きく吸い込んでからゆっくりと吐き出す。そんなことをしても全然涼しくなりはしないけれどとりあえず、とばかりに手を団扇代わりに顔面に風を送る。
今日も例にもれず気温も湿度も高く、作業の手を止めて一度空を仰ぐとそこは昨日と同じく青々しい空が広がっている。

「…………」

この暑さの中、広瀬さんは走り回っているのだろうか。……真面目そうな彼女のことだからきっと今日も相変わらず頑張っているのだろう。

「ボーッとしてどうしたんだ、侑士」

隣から聞こえる岳人の声に視線を下ろす。

「ん? ああ、いや、何もあらへん」
「それ、何かある時の言い訳じゃね」

岳人の指摘は正しくその通りで、正論を突かれて俺の表情は渋く歪む。それを見て岳人は

「ほらやっぱり何かあるんじゃねえか!」

なんてニヤニヤした顔を返してくる。
カマかけたんか。
正解だと正直に言うにはどうにも自分の心に納得がいかなくてまた渋い顔を作る。

「で、どうかしたのか?」

やや声のトーンを落として、岳人は真剣な面持ちで俺に視線を投げる。それがどうにも真っ直ぐで、岳人の問いかけに答えるかどうしようか一瞬迷う。
迷った挙句、柄にもなく俺は岳人にこの心の内を開くことにした。

「……この間、めっちゃ可愛え女の子と知り合いになってな」
「ふーん、それで? その子を好きになっちゃったとか?」
「……岳人、自分エスパーか?」
「え? なに、マジ?」

自分の失言と岳人の驚きに満ちた表情に居た堪れなくなる。穴があったら、というのは今のこの状況のことを言うんだろう。
……いやホンマどっかに穴ないんか。
大きく息を吐き出して目頭を押さえる。それを見た岳人は自分の問いかけが正解であったことを思い知ったように顔をハッとさせる。頼むからこれ以上居た堪れなくなるようなことせんでくれ。

「そっかー、侑士にも春が来たんだな」
「その言い方やめえや」

思い切り眉間に皺を寄せて岳人へじっとりとした視線を向ける。だけど見事に躱され岳人は好奇心を隠すことなく俺に問いかけを投げかけてくる。

「その子って同い年なのか? ていうか同じ学校なのか? なんて名前なんだ?」
「一気に訊きすぎや」
「じゃあじゃあ、今度会わせてくれよ!」
「なんでやねん。まだ名前しか知らん相手を紹介なんてできるか」
「え」
「あ」

しまった。岳人の軽口に乗ってつい言わなくてもいいことまで言ってしまった。

「侑士、その子に一目惚れしたのか!?」
「一目惚れちゃうわ」

そう。一目惚れではない。正確には二目惚れだ――ってそんなことはどうでもいい。問題は岳人に名前しか知らない女の子のことを好きになってしまったことがバレたということだ。どうにかして誤魔化そうと考えるけれど、どうにも上手い誤魔化し方が見つけられない。いっそのことこの話題ごと流してしまおうかとも思ったけれどここまで好奇心に引っ張られた岳人にそれは通用しないというのは火を見るよりも明らかだ。

「でも名前以外知らないんだろ? そんなの一目惚れと似たようなもんじゃねえか」

そこ突っ込んでくるな。どんだけ俺を女の子に一目惚れした男にしたいんだ。というか……。

「岳人声でかいわ。ちゅうか興奮しすぎやろ自分」
「これが興奮せずにいられるかっての!」

言っても聞かない岳人を一度視界から外し、先ほどの岳人の言葉を心の中で噛みしめる。
そうだ、俺は広瀬さんの苗字と学校しか知らない。年齢も好みも、そしてどういった人物なのかもまだ知らない。だけどあの別れ際の笑顔はとても好きだと思った。あの笑顔に心惹かれた。自分でも単純だ、というのは自覚している。二言三言喋っただけで、別れ際に可愛い笑顔を見せられただけで恋に落ちてしまったのだから。

「なあなあ、どんな子なんだ?」

岳人の興味は尽きることはない。そんなに俺の好きな子が気になるのか。

「めっちゃ可愛え子」
「それじゃよくわかんねえだろ!」

当たり前だ。よくわからないように言ったのだから。というか容姿の可愛さと名前しか俺にはまだわからないのだから他に言いようもない。
俺の心中を察したのか、それとも頑なに何も情報を渡さない――というか渡せるような情報を持っていない俺への興味が薄れたのか岳人は唇を尖らせながら「なんだよ」とそっぽを向いてしまう。
やれやれ、ともう一度岳人から視線を外したところで視界の隅に入り込むのは栗色の髪。岳人に気取られないようにそっと首をその方向へ傾けると、視線の先にあったのは広瀬さんの姿。
今日も姿を見ることができた嬉しさでほんの少し口角が上がる。たったこれだけのことでこんなにも嬉しくなるのだから自分のお手軽さがなんともむず痒い。
広瀬さんの腕の中には今日も大量のファイル類が肩を並べている。いつもあれだけの量のファイルを持って疲れないのだろうか。――いや、疲れるだろう。けれどそれを一切表には出さず、広瀬さんは笑みを浮かべ青学の生徒と話している。

「…………」

何かの拍子でこっちを向いてくれないだろうか――と思った矢先、広瀬さんの首が僅かに傾き俺の姿を捉える。
どきりとひときわ大きく心臓が鳴る。
広瀬さんは浅く会釈をした後、相変わらず忙しいのかまたどこかへ駆けて行ってしまう。
その後ろ姿をじっと見つめていると背中に岳人の声がぶつかる。

「へー、あの子が侑士が一目惚れしたって子か。確かにすげー可愛いじゃん」
「……岳人。自分見とったんか」
「なんだよ、見ちゃダメなのかよ」

なんでそんな拗ねたような言い方をするんだか。
さっきまでどこか他所を見ていたくせに、どうして広瀬さんが首を傾けたタイミングで岳人もこっちを向くのだろう。まるで見計らったかのような完璧なタイミングだ。間がいいというか、悪いというか。

「ホンマ、タイミングエエんやか、なんやかやな」
「え? 何?」
「気にせんでエエ。ただの独り言や」
「……?」

一通りやり取りを終えた俺たちは止めていた作業の手を動かし始めた。


いくら恋愛ものの映画をよく観るからと言って、自分の小指と誰かの小指との間に赤い糸が繋がっているかもしれない、なんてことを信じられるほど夢見がちな性格ではない。
けれど、けれど。広瀬さんに恋をしてからというもの、頻りに自分の小指を見ることが多くなった気がする。あるはずのないものを見ようとするなんて、なんて滑稽なのだろうと思うけれど。だけど広瀬さんが他校の生徒である以上、何か運命めいたものにでも頼らなければ――いくら好意を寄せているからといって他校の、しかもテニス部でもない運営委員の女の子に声をかけるのは至難の業なのだから。

「……はぁ」

広場の噴水に腰かけて小さくため息を吐きだす。学園祭の準備日程も半分が過ぎた。このままではただの知り合い――いや、それ以下の関係で終わってしまう。他校の、しかもちょっと話しただけの男のことなんて学園祭が終わってしまえば忘れてしまうのが普通だろう。
彼女がテニス部のマネージャーや関係者であったなら。そうしたら青学と試合をするたびに会えたのかもしれない。だけど現実はそう甘くはない。なら、どうにかしてこの学園祭が終わるまでに広瀬さんとの仲を一歩どころか二歩、三歩進めておかなければならない。
そこで問題になるのが最初の、広瀬さんが他校の運営委員ということ。
どう頑張ったところで運を天に任せなければ話すらもできないこの状況。
どうやって仲良くなれ言うねん!
一応、広瀬さんに会える確率を少しでも上げるため、休憩のたびに広場に来るようにはしている。最初に彼女を見かけたときも、そして話しかけたときもここだった。だからここにいればもしかしたら――というとても低い可能性に縋っている。
だけど時間が悪いのか、それともタイミングの問題か広瀬さんはいっこうに姿を見せない。今回は諦めるしかないか、ともう一度ため息を吐きだしかけた時。

「忍足さん、こんにちは」

例えるなら花。そんな声が隣から聞こえる。
俯きかけていた顔を上げて、ゆっくりとその声の方向へ首をやる。と、そこに居たのはずっと会いたかった意中の人物――広瀬さんだった。
驚きと歓喜と動揺とでごちゃ混ぜになった感情を悟られないように、ひとまず笑みを作る。

「こんにちは、広瀬さん」

なるべくフラットな声色を目指したけれど、大丈夫だっただろうか?

「今日も暑いですね」
「せやな。広瀬さんもちゃんと休憩せなアカンで」
「ふふ、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。こう見えて結構丈夫なので」

ぐっと拳を握りしめて、広瀬さんは笑みを作る。その仕草に、笑みに、心臓がぎゅっと掴まれる。

「広瀬さん、今時間あるか?」
「……? はい、ありますよ」
「それなら少し俺と話でもしてかへんか?」
「はい」

短い了承の後、広瀬さんは俺に倣って噴水に腰掛ける。
さて、いい返事を貰えたはいいものの何を話そう。訊きたいことはそれこそ山のようにあるのに、いざ話そうと思うとうまく言葉が出てこない。
そうこうしているうちに、広瀬さんの方から言葉が投げかけられる。

「この間氷帝の運営委員の子に訊いたんですけど、忍足さんって先輩だったんですね」
「ってことは自分、歳下か?」
「はい。二年です」
「さよか。そりゃエエこと聞いたわ」
「いいこと、ですか?」
「ああ、気にせんでエエ。ただの独り言や」
「はぁ……?」

僅かに首を傾げながら広瀬さんはそうですか、と言葉を飲み込んでくれる。

「そういえば広瀬さんって名前何ていうん?」

間髪入れずに今度は俺から訊きたいことを投げる。広瀬さんは何故そんなことを訊くのか、と不思議そうな表情を浮かべながらも律儀に返してくれる。

「え? あ、はい。静です」
「可愛え名前やな」
「かわ……!? そんなこと言われたの初めてです」
「さよか? まあ、ライバルは少ない方がエエから好都合やな」
「えーっと……?」
「ああ、これも独り言やから気にせんでエエよ」
「忍足さんって独り言が多い人なんですね」

広瀬さんのぐさりと切り込んでくる指摘に若干苦みを混ぜながら笑みを作る。
なんや、結構はっきりもの言う子やな。まあそこも魅力の一つやけど。
だけどなんだか言われっぱなしは落ち着かなくて少しばかり悪戯心が芽生える。悪戯というか、何というか。

「それにしても静ちゃんは頑張っててエライな」
「いえ、そんなこと……――っ!」

数秒おいて脳が言葉を理解したのか、広瀬さんは顔を真っ赤にして金魚のように口をパクパクと開けては閉じを繰り返す。
よっしゃ。

「――っ、し、失礼します!」

脱兎のごとく、というのは正しく広瀬さんのことを言うんだろうな――なんてことを思いながら、ものすごい勢いで走り去っていく彼女の背をいつまでも見ていた。

広瀬さんが脱兎のごとく逃げ出してから少し経った後のこと。跡部に確認したいことがあったのになかなか見つからなくて、漸く居場所を見つけたと思えば本館にある会議室で会議をしているようだった。まあ、そりゃ跡部は今回の学園祭の運営委員長だから会議には参加するわけだけど、なんとまあ間の悪い。
外と違って本館内は冷房が効いているからかとても涼しい。
あーこれ、冷房が気持ち良すぎて外出られんくなるんやないか……?
なんてことをぼうっと考えながら会議が終わるのを廊下で待つこと数分。会議室の中から一斉にざわめきが聞こえ、会議が終わったことが察せられた。特に急ぎの用件でもないから跡部が出てくるのを待っていればいいかと会議室から出てくる面々を視界から流していると栗色の髪が目に留まる。
声をかけようかどうしようか、一瞬迷ったけれど、向こうは何やらほかの運営委員と話しながら歩いているみたいでこちらに気付く様子もない。もしかしたら大事な用件を話しているのかもしれないし、ここは話しかけない方がいいのかもしれない。上げかけた手をさっと下ろして、目的の人物が出てくるのを待つ。
それから間もなくして跡部が樺地を連れて会議室から出てくる。

「跡部、今エエか?」
「ああ」
「この件なんやけど」
「それなら運営委員に任せてある。そいつに確認させる」

二言三言の会話で用件は終わってしまう。もともと長話をする気はなかったし、跡部も跡部で何かと忙しいらしく俺との会話を終えるとさっさと樺地を連れて行ってしまう。残されたのは俺ただ一人。すぐに屋台の方へ戻ってもいいけど、もう少しここで涼んでいきたいという気持ちもある。
ちゅうか外出たくない。暑い。
どこかゆっくりと休める場所にでも行くか。
そういえば食堂に美味そうなアイスが置いてあった気がする。あれを食べながら休憩するか、と踵を返し――

「きゃ!」

小さな悲鳴が胸にぶつかり、次にバサバサと紙とプラスチックが落ちる音。瞬時に誰かにぶつかってその人が持っているものが落ちたと理解し、慌てて身を屈めてそれを拾う。

「スマンな」
「い、いえ……」

その声に、そして視界に入る髪色には見覚えがあった。

「広瀬さんか?」
「は、はい……」

広瀬さんは俯いたまま――書類やらファイルやらを拾っている最中なのだからそれは当然なのだがどうにも様子がおかしい。俺の知る広瀬さんは話をするときはきちんと相手の目を見る子のはず。それが今はずっと俯いてしまっている。どこか具合でも悪いのかと手を差し伸べようとしたタイミングで広瀬さんの顔が上がり、咄嗟に手を引っ込める。

「あの、」

広瀬さんの頬は少しだけ赤みを帯びていて、熱でもあるんじゃないかと疑ってしまう。

「さっきはすみませんでした」

ゆっくりと、そして深く下げられた頭。
何について謝られているのか全く見当がつかなくて頭の上にクエスチョンマークが何個も浮かぶ。身に覚えのないことで謝られるのはなんだか気持ちが落ち着かない。だから素直に何のことについてなのか訊くことにした。

「さっき?」
「あ、えっと……その、急に逃げるように立ち去ってしまったことです」
「あぁ、それか」

あれは俺がからかっただけだというのに、もしかしてそのことを気にしてわざわざ謝りに来たのか。なんて律儀な子だろう。

「別に気にしてへんよ。ちゅうかあれは俺も悪かったしな」
「え?」
「ああ、気にせんでエエよ」
「また独り言、ですか?」
「あたりや」

ふふ、と柔らかな笑みが返ってきて胸の内が満たされる。やっぱこの子は笑ってる方がエエな。
落としたものを拾い終えて、同時に立ち上がる。
今までそんなに気にしなかったけれど、俺と広瀬さん、意外と身長差あるな。二十五センチくらいか?
そんなことを考えながら手の中にある書類とファイルを広瀬さんに手渡す。

「ありがとうございます」
「ぶつかったんは俺なんやから」
「でも拾っていただきましたし」
「ほんま律儀やな」

緩く笑えば広瀬さんからも笑みが返ってくる。

「それじゃ私はこれで」
「あ、待ってや広瀬さん」

踵を返しかけた広瀬さんを呼び止める。なんですか、と焦げ茶色の瞳が俺の姿を捉える。

「これから食堂行ってアイス食うんやけど広瀬さんもどうや?」
「え……っと」

何やら言い難そうに広瀬さんは言葉を詰まらせる。

「なんや、用事でもあるんか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。私今日お財布を家に忘れちゃったので……」

もじもじと恥ずかしそうに手をこすり合わせて、広瀬さんは苦みを帯びた笑みを見せる。

「そんなことか。ご馳走するで」
「え!? いえ、そんな」
「それとも俺とアイス食べるの嫌か?」
「そんなことはないです!」

妙に力強く言われてしまい変に期待しそうになる。広瀬さんのことだから俺に気を遣ってくれただけ、のはず。期待するな、俺。
でもとりあえず色よい返事をもらえたことだしと、

「ほな、行こか」
「あ、えっ!」

広瀬さんの手を取って食堂へと歩きだす。そっと後ろを覗き見れば、手を引っ張られてバランスを崩しそうになりながらも広瀬さんはちゃんと足を止めずについてきてくれている。心の底ではもしかしたらついてきてくれないかもしれないと思っていただけに今のこの状況はとても喜ばしい。
会議室から食堂までの短い間をそうして歩き、適当な席に見つけてから広瀬さんに首を傾ける。

「広瀬さんは何がエエ?」
「えっと、じゃあレモンのシャーベットで」
「わかったわ。じゃ、あそこの席座っとって」

俺の指さした方向を広瀬さんは目で追って、わかりましたと浅く頭を下げる。
広瀬さんといったん別れ、食堂のおばちゃんにレモンのシャーベットとバニラアイスを頼んで受け取る。カップから伝わる冷気が手のひらをひんやりと冷やして気持ちがいい。

「はい」

広瀬さんの前にシャーベットのカップを置き、向かいの椅子を引いて座る。ギギギ、と少々嫌な音が響くけれどまあそこは仕方がない。

「ありがとうございます。その、」
「ああ、エエて。俺が広瀬さんとアイス食べたかったんやから」
「……はい。いただきます」

広瀬さんは浮かない表情を崩さないまま、シャーベットに口をつける。一応今のは口説き文句も混じっていたんだけど難なくスルーされてしまった。
けど、なんちゅうか、ほんまにエエ子なんやなってのがひしひしと伝わってくる。

「そんなに気になる言うなら、」

バニラアイスを一口含みながら、なんとも狡い言い方で要求を通そうとする。

「今度俺とデートしてな」
「え?」

心底呆けていると言っても過言ではないくらい広瀬さんの表情は音で例えるならポカーンとしている。危うく持っていたスプーンを取り落としそうになるくらいなのだから相当俺の要求に驚いているようだ。

「デート……ですか?」
「だめか?」
「い、いえ……。だめってことはないんですけど、私でいいんですか?」
「広瀬さんがエエんや」

にこり、と笑みを作る。それを見て広瀬さんは戸惑いを露わにした表情で応えてくれる。
いや、そこまでか!?
内心ツッコミを入れつつも、連絡することがあるだろうから、と理由をつけて携帯番号を交換する。電話帳に新たに登録された広瀬 静という文字列に頬が緩みそうになるのを必死になって抑える。

「ほな、何かあったら連絡するわ」
「はい」

すっかり溶けてしまったアイスをスプーンですくって口へ運ぶ。微妙に温くなってしまったそれはこれまた微妙な温度で口腔内を冷やしていく。
ま、引き換えにデートの約束と電話番号を知れたんやから良しとするか。


八月三十一日。今日は広瀬さんとデートの約束をした日だ。
待ち合わせには十分すぎるくらい早く出たというのに、すでにそこには広瀬さんの姿があった。

「忍足さん、おはようございます」
「おはようさん。早いなぁ」
「先輩をお待たせするわけにはいきませんから」
「それ、俺のセリフやねんけど」

しまった。本来なら俺が先についていなければならないのに、広瀬さんは待ち合わせの二十分前に来る子か。……いや、二十分って待ち合わせ時間の意味がほぼほぼないに等しいんじゃないか?
そんな俺の心中を全く知らず――知られても困るけど、広瀬さんは俺の目を見るべく首を上へと傾ける。
あ、この角度すごくエエな。

「今日はどこに行くんですか?」
「どこがエエ?」
「えっ?」

まさか訊き返されるとは思ってもみなかったのか、広瀬さんは困惑を貼り付けて目を見開く。
一応誘ったのはこっちなのだからデートプランというものを考えてはきた。だけど今日は広瀬さんにも楽しんでもらいたい。たとえ彼女からしたらこの間のアイスのお返しという側面が強くあったとしても、だ。だから行きたいところがあればそっちを優先したいし、今後またデートに誘うことがないとも限らない。そのための予行練習も含めて今日は広瀬さんの行きたいところ、好きなところをリサーチする目的もあった。

「えっと」

広瀬さんは少し悩む様子を見せたかと思うと、小さく

「雑貨屋さんに行きたいです」

と答えてくれる。雑貨屋か。広瀬さんの趣味もわかるしいい選択やな。

「ほな、行こか」
「はい」

ここで手でも繋げたらよかったのだけど、生憎俺と広瀬さんとの仲はまだそこまで良くはない。精々顔見知りといった程度。焦っても仕方がないのはわかってるけど学園祭までの残りの日数を考えるとそうそう悠長なことも言ってられない。
今日中に、というのはなかなか難しいかもしれないけど、ある程度の仲の良さにまではなっておきたい。せめて苗字ではなく名前で呼べるくらいの間柄に。
そんなことを考えながら歩いていると目当ての雑貨屋にはすぐに着いてしまった。
雑貨屋の中に入ると控えめの冷房が効いていて、外気で火照った体をゆっくりと冷やしていく。

「涼しいですね」
「せやな。あ、広瀬さん。俺に構わず見てきてエエよ」
「ありがとうございます」

ぺこりと頭を下げて広瀬さんは店内を端から巡っていく。俺もいつまでも入り口付近で突っ立っているわけにもいかず、ひとまずぐるりと見ることにする。
店内はさほど広くはなく、ものの十分もしないうちに一通り見終わってしまった。まあ、この広さなら仕方のないことだけど。
広瀬さんと合流しようと雑貨から視線を上げると、彼女はある一点から微動だにしていなかった。
なんだろうか、と後ろからそっと近づいてみると、そこには可愛らしい携帯ストラップが陳列されていて、広瀬さんはそれを緩やかな笑みを浮かべて見つめている。
こういうんが好きなんやな。
また一つ広瀬さんのことを知れて笑みが漏れる。決して顔には出さないけど。

「それがエエんか?」
「へ!? あ、はい。可愛いなと思って」

突然声をかけられて驚いたからなのか、広瀬さんの声は少々上擦っている。ストラップから視線を俺の方へ移し、驚きを隠すように慌てた様子で手を顔の前で振っている。

「それ買うたるわ」
「え!? いえ、自分で買います!」
「今日はデートやろ? やったらこういうんは男が買うたるもんや」

な? 理屈をこね半ば強引に同意を求め、ストラップをレジに持っていく。後ろから広瀬さんの追いすがるような声が聞こえる気がするけれど、聞かなかったふりをして店員にプレゼント用であることを告げる。
数分後、男が持つにはあまりにも可愛らしいラッピングを施されたストラップとお釣りを受け取って、広瀬さんと共に雑貨屋を出る。

「ほい」

ストラップの包みを広瀬さんに手渡すと、まっすぐな視線が返ってくる。

「ありがとうございます。あの、お金……」
「やからエエて。俺からのプレゼントや思うてくれ」
「はい……。ありがとうございます。大切にしますね」

そう言って、広瀬さんは本当に大事そうに包みを抱きしめてくれる。なんだかそれが恋人から初めてのプレゼントをもらった女の子、みたいな誤解をしそうになってしまって咄嗟に視線を逸らす。勘違いするな。きっとそうするほど欲しかっただけなんだから。
逃避するように腕時計を見れば、昼食を摂るにちょうどいい時間だった。

「広瀬さん、お腹空かんか?」
「はい。お腹空いてきました」
「そこのファミレス入ろか」

指差した先は学生にも優しい金額設定のファミリーレストラン。本当言えばもう少しロマンチックというか静かなところで食事といきたかったが、生憎と所持金の問題とあとあまりにも雰囲気がありすぎるところだと逆に広瀬さんが気疲れしてしまうだろうということで自分の中での折衷案として提案してみた。だけど広瀬さんの表情は不思議なものを見るような少し呆けたもので。選択を誤ったかと冷たい汗が背中を一筋流れていく。

「違うとこがよかったか?」

慌てて言葉を繋げれば、広瀬さんからはいいえ、と否定の言葉が返ってくる。

「すみません、忍足さんとファミレスってなんだか不思議な組み合わせで」
「は?」
「氷帝ってお金持ちっぽい印象の学校だったのでこういう学生にも優しい値段のファミレスって行かないだろうなって勝手に思ってました」

ああ、それであんな表情をしてたんか。
そりゃ跡部がいるからそう思われがちだけど、そこらへんはおとんもおかんもきちんとしてるからか俺の小遣いはおそらく広瀬さんとそう変わらないはず。
ちゅうか中学生で大金持たされても金遣い荒くなりそうやし、何事も身の丈以上はよくないっちゅー話や。

「俺も普通の中学生なんやからファミレスくらい行くわ」
「ふふ、そうですね。委員長が特別なだけですね」

話の流れ上仕方ないとはいえここで跡部の名前を出されるとなんだか胸の奥底がもやっとする。いや、広瀬さんに他意はない。ただ単純に跡部の金銭感覚が人並み外れていると言いたかっただけ、のはず。

「それじゃ、入ろか」
「はい」

先行く俺の後を追って、広瀬さんもファミリーレストランへ入店した。

「ごちそうさまでした」

ぱちんと両手を胸の前で合わせ、広瀬さんは行儀よく空になった皿へ向けて浅く頭を下げる。
俺もそれに倣うわけではないけれど手を合わせ同じように食事の終わりを言葉で表す。

「ごちそうさんでした」

ちなみに俺が頼んだのは和風の定食――さすがにサゴシキズシはなかった、で広瀬さんはオムライスを注文した。値段相応という味だったけれど、何より広瀬さんとこうして一緒に食事ができたというだけで俺の中では結構な満足度だった。
水で喉を潤してから広瀬さんに視線を投げる。

「広瀬さん、次どっか行きたいとこあるか?」
「あ、いえ。大丈夫です。私の行きたいところばかりじゃなくて忍足さんは行きたいところないんですか?」
「せやなぁ。映画かプラネタリウムかってとこやな」
「どっちもいいですね!」
「ほんまか? じゃあどっちも、とは言えんから今日は映画にしよか」
「はい」

わざと今日は、という言い方をしたのに広瀬さんにはまるで通じずスルーされてしまう。
ほんま一筋縄にはいかへんな。
広瀬さんに悟られないよう伝票を取ろうと思ったのに、いつの間にかそれは広瀬さんの手の中にあった。

「ご馳走します、はちょっと言えないのでせめて自分の分だけは払います」

それは俺の反論が入る隙間を埋めるような言い方だった。こんなことを先んじて言われてしまっては俺からご馳走するなんて言えるわけもなかった。
小さく息を吐き出してから、さよかとだけ言葉をこぼす。
会計を終えて、映画館までの道のりを他愛もない話をしながら歩き進める。

「そりゃ難儀やな」
「ふふ、そうなんですよ」
「…………」
「…………」

止まってしまった会話。その空白を居心地がいいと言えるにはまだ俺たちの間には慣れというものがなく。何か話さないと、と思うけれど、じゃあいったい何を話せばいいのかわからない。
どうしようかと思い悩んだ時に、ふと、頭に浮かんだのは名前、だった。

「なあ、広瀬さん」
「なんですか?」
「名前……いや、何でもないわ」

思わず名前で呼んでいいかなんて訊こうとしてしまった。脊髄反射で言葉にしていいことなんて一つもありはしない。

「……? はい」

俺が中途半端に会話をぶった切ってしまったからか、広瀬さんは首を傾げ眉を少し下げる。
そうこうしているうちに映画館に到着してしまう。館内に入ると雑貨屋よりも涼しい風が迎えてくれる。現在上映している映画のポスターを端から順に目で追って、最後に広瀬さんに首を傾ける。

「広瀬さん、観たいのあるか?」
「そうですね。あれとかどうですか?」

広瀬さんが指さした先にはちょうど観てみたいと思っていたラブロマンス映画のポスターがあった。

「エエな。あれにしよか」

そう言って窓口でチケットを二枚購入して一枚を広瀬さんへ渡す。またお金、と渋い顔をされたのでデートやからと手でストップをかける。

「こういう時は男に華持たせるもんや」
「……はい」

渋々といった感じで広瀬さんはチケットを受け取る。上映時間まであまり時間がなく、俺たちは少々急ぎ気味に案内された上映ホールに向かう。
上映期間も中頃だからかホール内は半分弱ほどしか席が埋まっていない。俺からしてみれば好きな席を選べるから好都合にこしたことはなかった。
前過ぎず、けれど後ろ過ぎないちょうどいい席に広瀬さんと並んで腰かけ、上映開始までの時間を携帯電話の電源を切ったりするなどの準備に充てる。
ほどなくして上映開始のブザーがホール内に鳴り響く。
最初はお決まりのほかの作品の告知、そしてそれが終わってからようやく本編が幕を開ける。
真っ暗な画面に徐々に映し出されるのは満点の星空と草原。そしてその星々を手の中に納めんとばかりに空へ手を伸ばすのは一人の女性。その隣には車いすに乗る男性。
『ねえ、もしあの星を手に入れることができたのなら――』
『私とずっと一緒にいてくれる?』
女性の印象的なセリフから映画は始まった。

「エエ作品やったな」
「そうですね。特に一番最初の女性のセリフが印象的でしたね」

映画が終わって手ごろなカフェに入り、俺と広瀬さんは映画談議に花を咲かせていた。
俺の前にはミルクを入れたコーヒー、そして広瀬さんの前には牛乳をたっぷり使ったミルクティーが氷をカラリと揺らす。
ストローに口をつけ、一口コーヒーを含む。コーヒーの苦みをミルクのまろやかさが包んで口の中に広がっていく。

「もう夕方やな」
「そうですね。楽しい時間はあっという間ですね」
「楽しい思てくれたんならよかったわ」

にこりと緩く笑みを作る。広瀬さんもそれにつられて笑みを作って応える。
視線をグラスに移し、ストローで中身をかき混ぜる。カラ、カラと氷とグラスによる演奏に耳を傾けながらふっと一つ息を漏らす。

「あの、忍足さん」
「なんや?」
「どうして、私だったんですか?」

それはどういう意味だろう――なんて考える間もなく、今日と、そして先日のアイスのことだと考えが及ぶ。どうしても何も、とすらりと言葉をこぼしそうになってぎゅっと口を引き結び、本音の代わりに質問を投げかける。

「どうしてやと思う?」
「え? っと……どうしてでしょう?」
「それじゃ次までの宿題にしよか」
「次、ですか……?」

きょとん、とした表情で広瀬さんは俺の顔を見つめてくる。まるで次があることを予期していなかったかのように。まあ、当然といえば当然。広瀬さん的には今回のこのデートはアイスをご馳走されたお返し、という体なのだから。

「次が、あるんですか?」
「だめか?」
「だめ、じゃないです!」

やや食い気味に良い返事をもらえ、今度は俺の方がきょとんとする番になる。まさかこんなに食い気味に答えてもらえるとは思ってもみなかったというかこれはもしかして期待してもいいのか?
もしかしたら――なんて可能性を見出しても、エエんか?

「そりゃよかったわ」
「……はい」

少し騒いで悪目立ちしてしまったからなのか、今度の広瀬さんの返事は消え入りそうなくらい小さかった。
カフェを出て、駅までをなんとなく無言で歩く。けれど何故だかさっきよりかは居心地は悪くなく、不思議と耐えられる沈黙だった。

「あの、忍足、さん」

広瀬さんの戸惑いがちな声が届く。

「ん?」

首を傾けて会話に応じる。

「手、繋いでもいいですか?」
「エエよ。繋ごか」

嬉しさを心の奥底に無理やり押し込んでなるべく平常心を持って広瀬さんの手を取る。その手は俺の手よりも全然小さくて、あたたかくて、柔らかかった。
夕焼けを背に受けて伸びる影。それは昼間よりも少しだけ近づいて見えた。


楽しかったデートから一夜が明け、今日が実質準備期間最終日。
もう屋台は完成しているし、岳人と日吉のたこ焼き練習も一応合格点を出せるまでにはなった。となればやることは殆どなく、いつものように――というと語弊があるが、とにかく広場の噴水に腰かけて涼んでいると、遠くから広瀬さんがやってくるのが見えた。

「広瀬さん、こんにちは」

右手を上げてひらひらと振ると、

「こんにちは、忍足さん」

それに招かれるように広瀬さんが駆けてくる。相変わらずえぐい量のファイルと書類を持っているものだから大丈夫かと心配になる。
傍から見ればどうにもおかしな光景だろう。これがお互い同性のテニス部同士であったならまだ普通にある光景だが、広瀬さんは運営委員、つまりもともとはテニス部の関係者ですらない。そんな二人が仲睦まじくと言っても差支えないくらい笑顔で話しているのだ。事情を知らない人間が見れば十人中八人か九人は首を傾げるだろう。まあ事情を知っている岳人あたりが今のこの状況を見たら冷やかしそうだから周りには気を付けていなければならないけれど、何にしてもこうして見かければ普通に話せるようなるまでになって嬉しさもひとしおだ。

「昨日はありがとうございました。とても楽しかったです」

花のような笑みが贈られ、つられてこっちまで頬が緩みそうになる。

「こちらこそありがとなぁ。俺も楽しかったで」
「ところで忍足さんのところの模擬店はもう準備は終わったんですか?」

広瀬さんの疑問は尤もだ。準備期間最終日なのにこんなところでのんびりとしているのだから。

「ああ、もう終わっとるで。やからここでこうして涼んどるんや」
「いいですね」
「広瀬さんのとこはまだ終わらへんの?」
「あ、いえ。私のところも大体終わってます」
「さよか。ならもうちょい話しててもエエか?」

柔く笑んで問う。真面目な彼女のことだからもしかしたら模擬店の最終確認にまわるかもしれない、とは思ったが、意外にも時間が空いていたのか、「いいですよ」と色よい返事をもらえる。

「立ってんのも疲れるやろ。そこ座りや」
「はい」

短く返事をして広瀬さんは俺の隣に腰かける。噴水のミストが背中に当たって気持ちが良かったのか、広瀬さんの顔が少し緩む。

「ここに座ると気持ちいいですね」
「せやろ。やから俺、休憩の時はいつもここやねん」

理由の半分はそれ。もう半分はここにいれば広瀬さんに会えるかもしれないから、という絶対本人を前にしては言えないもの。
まあ、半分だけでも十分な理由になるしもう半分の理由は今後も言うつもりはない。

「そういえば忍足さん。昨日何か言いかけていませんでした?」
「え? あー……」

そういえば昨日会話に詰まって、うっかり名前で呼んでいいかなんて訊きそうになったんだったか。てっきり忘れてくれているものだと思っていたのに。話を逸らそうにも広瀬さんの瞳はまっすぐに俺に向いている。まるで、今度は逃げないでください、と言われているようで背中に一筋汗が流れる。
これは心を決めるしかない、のか? デートにも行ったしそこで手も繋げたからもうそれなり――以上の仲にはなったとは思う。
一度視線を切って、小さく息を吐き出す。
引き延ばしてもしゃーない、か。

「あのな、広瀬さん」
「はい」
「名前で、呼んでエエか?」
「名前、ですか……?」

そんなことを訊かれるとは思ってもみなかったのか、ぽかん、とした表情を浮かべ、広瀬さんは瞳をぱちくと瞬かせている。焦げ茶色の瞳は俺の何とも言えない表情をきれいに映し出している。
名前で呼ぶということは一定のラインを超えるということ。広瀬さんが俺にそのラインを超えることを許してもらえるのかどうか不安がないわけじゃない。むしろ不安しかない。
だけど。だけど――。今までの反応といい、デートでの感触といいもしかしたらということもないわけじゃない。
ぐっと押し黙る俺に対し、広瀬さんはゆるりと笑みを作る。

「いいですよ」
「え?」

広瀬さん、いま、なんて……?
一瞬、何を言われたのか脳が言葉を処理できなかった。たっぷり五秒ほど間を置いて、ようやく理解が追い付いてくる。

「……ホンマか?」
「はい。というより、断る理由もないですし」

俺が訊き返したことに広瀬さんは――静ちゃんは首を傾げる。

「……静ちゃん」
「はい」

にこり、と柔らかく可愛らしい笑顔で返してくれる。その笑みだけで心が満たされる。
危うく自分のキャラに似合わず破顔で返すところだった。

「これからもよろしゅうな」
「はい、忍足さん」

短く別れを告げて、静ちゃんは電話で呼び出されたのか、本館の方へ駆けて行く。その後ろ姿が見えなくなるまで見つめた後、柄にもなく空を仰いだ。

「あー……ニヤけそうやったわ」


いよいよ、と言うと待ち望んでいたような印象を与えかねないけれど、この二週間弱の準備期間を経ての学園祭が始まる。土日開催とあってか、部員の保護者や友人、一般のお客で会場はかなりごった返している。

「いらっしゃい」
「たこやき二つな」
「ありがとうなぁ」

お決まりの典型文を繰り返して、たこ焼きを焼いたそばから容器に入れて販売していく。猫の手も借りたいとはまさにこのことか、なんて頭の隅の方で考えながら手を動かしていく。
そんなこんなで慌ただしく午前中を終え、

「侑士、休憩行ってきていいぞ」

岳人にそう声をかけられ、漸く休憩できるようになったのは十四時を過ぎたころだった。

「そうさせてもらうわ」

一つ息を吐き出してふらりといつもの休憩場所でもある広場に向かう。今日は学園祭当日だからか広場にもそれなりの人が模擬店巡りの休憩に訪れている。昨日までは関係者しかいなかったからかそんなに手狭な印象は受けなかったが今日は関係者以外もいるからかどこか狭苦しいとさえ感じる。ただ幸か不幸か噴水の近くは――ミスト状になっているとはいえ、濡れるからかそんなに人が寄り付いていなかった。
どっかりと噴水に腰かけて一度空を見上げる。九月らしからぬ夏々しい澄み切った青空。ここに座って空を見上げるといつも同じような空な気がするのは気のせいだろうか。
ゆっくり首を戻したタイミングで聞き覚えのある可憐な声が鼓膜を震わせる。

「あの、私やることがありますので」

静ちゃんの声だ――と思うも、一瞬で眉間に皺が刻まれる。というのも目撃した状況がよろしくなかった。
静ちゃんと彼女の行く手を阻むようにへらへらと笑みを浮かべるいかにもチャラついた男。
あいつ何してくれてんのや。
思うと同時に、体が動く。

「いいじゃん、ちょっとだけ。なーんでもご馳走してあげるから俺と――」
「静ちゃん、待たせたな」

男の背後から声をかける。男と、そして静ちゃんの驚いた瞳が俺に一点集中する。その視線を受けながら右手を伸ばし静ちゃんの手を取り引き寄せる。急に視界から静ちゃんを奪ったからか、男の表情が睨みつけるようなものへと変わる。

「その子は俺と先約があんだよ」
「は?」

なるべく声のトーンを落として、短く、男に対しての怒気を含めた視線を向ける。それに一瞬怯んだ隙に、静ちゃんを背中に隠す。

「俺の彼女に何か用か?」
「えっ、あの、忍足さん!?」

背中の方から慌てふためく声が聞こえるけれど、お願いだから少しの間だけ静かにしていてほしい。
じっと男に視線を向ける。まだ何か用か? と言葉を含めて。俺の視線を受けて男はぐっと口を引き結ぶ。それを見て、これ以上すべきことはないと察する。背中に手をまわし、静ちゃんの手を取り、俺たちは足早に広場を後にした。

「災難やったな」
「は、はい……。助けていただいてありがとうございました」

ぺこりと丁寧にお辞儀をし――静ちゃんはそのまま頭を上げない。不思議に思って声をかけようと息を吸い込むと同時にポケットから携帯電話が着信を知らせ鳴り響く。
なんて間の悪い……。
そう思いながらもずっと鳴り続けているから無視することもできず。結局ポケットに手を入れて音の出所を取り出す。画面を見れば岳人の名前が映し出されていた。もしや、と思い通話ボタンを押して耳に押し当てる――と。

「あー、侑士! 悪ぃ、すぐに戻ってくれ!」

それだけ言うと岳人は通話を一方的に切る。その慌てぶりから相当忙しいことが窺える。小さくため息を吐きだしてから携帯電話をポケットに突っ込む。

「静ちゃん、スマンな。呼び出されたから行くわ。一人で平気か?」
「へ、平気です!」

慌てて上げた静ちゃんの顔は少しばかり赤みを帯びている。
――ん?
どうして、と尋ねたかったけれど先ほどの岳人の言葉が頭の中で思い出される。一刻の猶予も許されないような、逼迫した声色。

「さよか」

笑みを作って、ほなと踵を返す。とても後ろ髪引かれるけれど仕方がない。踏み出した足を止めることなく、屋台へ駆け足で戻った。


九月四日。
学園祭二日目も結果発表まで無事に終わり、残すはキャンプファイアーと有志によるダンスのみとなった。
踊りませんか、と何人かに誘われはしたものの、今日初めて認識したような子と踊るのもなんだか違う気がした。向こうからしてみればずっと俺のことを認識していたとは思うが、俺からしてみればほぼはじめましての状態だ。そんな子と踊ったところで思い出に残るのは向こうだけ。
それなら俺は静ちゃんと踊りたい。踊ってくれるかどうかはわからないけれど、もしもの話をしてもいいのなら静ちゃんと踊って学園祭最後の思い出を作りたい。
それに今日で学園祭が終わってしまう。そうすると他校である静ちゃんと会って話す機会なんてもうないに等しい。だから学園祭が終わってしまう前にどうしても静ちゃんに伝えておきたいことがあった。

「……って、肝心の静ちゃんがどこにもおらん」

ぼそりとこぼした独り言は喧騒の中に紛れて消えてしまう。いくら夜になって一般客が帰ったとはいえ、ここには参加校のテニス部員がほぼ勢ぞろいしている。この中からたった一人意中の人を探すのは骨が折れそうだ。
だけど探さないわけにはいかない。独りよがりだっていうのはわかってはいるけれど、この思いを彼女に伝えたい。伝えられずに今日が終わるのだけは避けたい。
ふと、視界の隅で見覚えのある色を見とめる。あ、と思ったその時には俺の足はその色を追って――たどり着いた先は広場だった。

「静ちゃん」

その背中にそっと声をかける。一瞬びくりと肩を上げてから、数メートル先にいる彼女――静ちゃんはゆっくりとこちらへ振り返る。

「忍足さん?」

どうしてここにいるんだ――と言わんばかりの表情を貼り付けて、静ちゃんは瞳を瞬かせる。ぱち、ぱち。何度かの瞬きの後、小さな口が言葉を紡ぎ出す。

「忍足さんは踊らないんですか?」
「ん? ああ、あそこに一緒に踊りたい子がおらんかったからな」
「? それって……」

静ちゃんはわずかに首を傾げる。言葉の意味をはかりかねているように。

「静ちゃん。一緒に踊ってくれへん?」
「え?」

今度は純度百パーセントの驚きで表情を塗り直して瞳を大きく開く。
そんな静ちゃんに向けて右手を差し出す。笑みも忘れない。
手を取ってもらえるかどうかはわからない。けれど、なんとなく取ってくれそうな気がした。

「わ、私でよければ」
「静ちゃんがエエんや」

差し出した手の上に静ちゃんの小さくて温かい手が乗せられる。自分の手とは違う華奢で細い指を優しく握ってステップを踏み出す。
音楽もなければテンポを取ってくれる人間もいない、無音のダンス。それでもこうして静ちゃんと踊れるだけで結構満足している。

「忍足さん、リード上手ですね」
「ああ、まあ」

頑張って覚えたからな、とはさすがに格好がつかなくて言わなかった。
雰囲気作りはできた。あとはずっと頭の中で考えている言葉を音に乗せるだけ。……いつもよりも心臓がうるさい気がするのはきっと気のせいじゃない。
一度ぐっと口を引き結んだあと、ステップを続けながらも静ちゃんの瞳をじっと見据える。

「静ちゃん」
「はい」

静ちゃんも同じく俺の瞳をじっと見据えてくれる。これから俺が言葉にすることをきちんと真正面から受け止めようとしてくれているようで心の奥底がむず痒くなる。

「俺、静ちゃんのこと好きなんや。付き合うてくれるか?」
「……え?」

静ちゃんの瞳がことさら大きく見開く。まるで信じられない、といった風に。意識が足から刈り取られたからか危うくバランスを崩して二人一緒に倒れそうになるのを寸でのところで踏みとどまる。
ただでさえダンスをしていて近づいていた距離が更に縮まる。ともすればあと十数センチで唇が触れてしまいそうになるほど。けれどそれも一瞬のことで、すっと体勢を立て直す。

「忍、足さん。あの……」

繋いだ手から伝わってくる熱。そしてそれ以上に静ちゃんの頬は真っ赤に染まっている。
これはどっちなのだろうか。ただ単に照れているのか、それとも意識をしてくれているのか。どちらにせよもう自分の気持ちは伝えてしまったのだから後戻りはできないし、するつもりもない。
なるべく平静を装って静ちゃんの次の言葉を待つ。けれど待てど暮らせど静ちゃんの口が開くことはなく。時間が経つにつれ不安が徐々に心の内を蝕んでいく。
もしかしたら今、静ちゃんの中ではどう断ろうかと言葉を選んでいる最中なのかもしれない。……いや、そんなことないことを祈りたいが。
たっぷりと間を置いて、漸く静ちゃんの口が息を吸い込み、言葉を紡ぐ。

「あの、私も……忍足さんのこと、好きです」
「……え?」

今度は俺が驚く番となる。大きく目を見開いて、一瞬言葉に詰まる。
いま、静ちゃん、なんて……? 好き、言うたか?

「ほんまか?」
「はい、本当です」

破顔しそうになるのを必死に表情筋を駆使して抑える。だけどこの嬉しさは到底抑えきれるものではなく。

「静ちゃん、抱きしめてもエエか?」
「えっ、あ、その…………はい」

小さな承諾を拾い、繋いでいた手を放してから静ちゃんの小さな体を腕の中に閉じ込める。力加減を間違えないように、優しく、優しく。鼻をくすぐるのは甘くてとてもいい香り。シャンプーなのかそれともボディーソープなのかはわからないけれどとにかく静ちゃんらしい良い匂いに頬が少し緩む。

「可愛えな」
「へ!?」

静ちゃんの慌てたような驚いたような声を聞きながら、腕の力を少し強める。

「これからもよろしゅうな」

囁くような声で零せば、静ちゃんは顔を真っ赤にして「はい」と答えてくれた。