藤の花、その手を掴む

「侑ちゃん、今日の花火大会行くん?」
「言いたない」
「なんでやねん」
部活から帰ってきて、シャワーと着替え、そして昼食を済ませ、ソファで寛いでいた忍足侑士にとって、突然振られたその話題は、眉間に皺を一本寄せるに十分な内容であった。内容も、言ってしまえばプライベートなことであるし、それを振ってきた人物――姉の恵里奈という存在も忍足の眉間に皺を刻ませることに一役買っていた。
忍足にとって、恵里奈という存在は嫌いではないけれど、どちらかと言えば苦手な部類に入る人間だ。それは何かにつけてこうしてちょっかいをかけてきたり、揶揄ってくることがあるからで。けれどそれは恵里奈からすれば可愛がっているだけで、忍足が本気で拒むようなことはしないし、そういう気配があった場合は空気を読んで少し距離を置くこともある。
若干とは言え一応、忍足も姉から可愛がられているという自覚はある。何せ、高校二年生になった現在でも、侑ちゃんという愛称で呼ばれるくらいなのだ。可愛がろうと思っていなければなかなか思春期真っ只中の男子高校生に向けて、愛称で呼ぶこともないだろう。
けれど、だからといってお姉ちゃん、と姉の後をついて回ったり仲良く遊んだことは幼い頃の話だ。お姉ちゃんは姉貴と呼び方が変わり、二人とも歳を重ね、顔体つきが変わった現在では昔のような距離感は保てない。けれど、遠ざけようと忍足が距離を取れば恵里奈はそれを詰めてくるし、だからといってお互いにこれ以上は近付いてほしくないという線引きははっきりとしているから恵里奈がその線を超えることはない。だから、丁度いい距離感を保っている間は少なくとも忍足は恵里奈のことを無碍にはできないのだ。
そもそも実の姉であるのだし、実家住まいであるうちは嫌でも同じ空間に居ることになるのだ。ギスギスした空気を作り出すよりも、ちょっかいや揶揄いも一つのコミュニケーションだと思って接する方がストレスだって溜まりにくい。
「ちゅうか、いい加減侑ちゃん呼ぶのやめぇや。俺もう今年で十七やで」
「なんで? 侑ちゃんは侑ちゃんやろ」
忍足が思い切り嫌な顔をするも、恵里奈はそれに対してにっこりと笑みを作るだけ。言ったところで意味はないと知りつつも、一応忍足としても反撃をしてみたつもりなのだが、恵里奈にしてみればこんなの反撃のはの字にもならない。ただの戯言で、他愛もない掛け合いで終わってしまう。どれだけ身長が伸びようと、声変わりをしようと、忍足はいつまでも可愛い弟の侑ちゃんであることに変わりはないのだ。
「で? 今日の花火大会、侑ちゃんのことやから静ちゃんと行くんやろ?」
まだその話題を続けるつもりなのか、と忍足は一つ息を吐き出す。
「黙秘権を行使」
「そんなん使うたところで母さんに訊けば一発やで」
侑ちゃんのことやから、律儀に母さんには言うてるんやろ? と恵里奈がトドメを刺す。自分の思考は筒抜けという事実といつまで経っても姉には敵わないという諦観から忍足から聞こえてくるのは大袈裟とも言えるため息。
「…………はぁ」
それに臆することなく、むしろ恵里奈は笑みを深めて追撃をかけていく。
「夕方から行くんやったらその前に静ちゃん、家に呼んでや」
「なんでやねん。静やって忙しいやろ」
恵里奈の提案に忍足は怪訝な表情を作る。意図もわからなければ意味もわからない。目的すらも見えてこなくて忍足の眉間には更に皺が寄る。
静とは夕方――具体的には十七時頃に花火大会の会場入り口で待ち合わせをしている。催し自体は十九時からなのだが、その前に出店を見て回ったり、場所取りをするための時間設定だ。行動が早い人間や熱心な人間であるならば、午後一番ないしは午前中から場所を取るのだが、二人とも花火を見られれば御の字という緩いスタンスであるのと、忍足は午前中部活、静も家事の手伝いで昼いっぱいまで家から出られないということもあったために必然的に夕方からの待ち合わせとなった。
そういう事情もあり、忍足は静を待ち合わせ時間よりも早く呼び出すことに積極的ではないのだ。気遣い屋の静のことだ、忍足が少し早く来てくれと言えば二つ返事で来てしまうだろう。それは決して忍足の望むところではない。
「一時間でエエんやけど」
「無理やて」
「それは静ちゃんに訊いてみなわからんやろ? それに絶対侑ちゃんにもエエことやから。な?」
言い方も語気も優しくしているが、恵里奈からは絶対に譲らないという強い意志を見てしまう。こうなってしまっては最早忍足に逃げる道は残されていない。どう避けようとしたところで恵里奈に論破されるのがオチである。
そもそもの話として、忍足は恵里奈に口で勝ったことなどないのだから。
「……一応、訊くだけ訊くわ」
「おおきに」
にっこり笑顔で恵里奈は忍足の肩を叩く。体中の空気を吐き出すかのように、忍足はそれはそれは大きくため息を吐き出した後、ポケットからスマートフォンを取り出したのだった。

「こんにちは」
指定した時間通り、忍足家へやって来た静は行儀よく頭を下げる。「呼び立てちゃってごめんなぁ」と挨拶もそこそこに、恵里奈は静の手を引いて何故か自室に閉じこもってしまう。
静と二言も言葉を交わす間も無く連れ去られてしまい、忍足の心のうちにはもやっとした感情が生まれる。けれどそれを表に出したところで恵里奈には勝てないことは分かっている。分かっているから、なおさらもやもやとしてしまう。
一体何をする気なのかは定かではないが、数時間前の言葉を信じるのであれば、恵里奈は静に不快な思いをさせることはないだろう。それに忍足にも良いことがある、という話だ。ならば、ここは黙って待つ以外出来ることはない。流石に姉とはいえ女性の部屋に無遠慮に入れるほど、忍足もデリカシーがないわけではないのだから。
「……はぁ」
忍足がソファに腰掛け、本日何度目かも数えるのが馬鹿らしくなったため息を吐き出す。恵里奈がドアを完全に閉め切っている為に、中がいったいどういう状況になっているのか忍足には推測することすらできない。
あとどれくらい待つのかもわからない状態というのは、待つことが苦ではない人間からしても、少しずつそして確実にストレスが溜まっていくもので。流石に何もせずにただ待つことに思うところがあり、忍足はソファから立ち上がる。けれど立ち上がったはいいものの、特にやることを決めての行動ではなかったためにそのまま棒立ちの状態で止まってしまう。
出かける準備はとうに終えてしまい、後はその時間を待つだけ。自室から読みかけの本を取ってこようかとも考えたが、いつ静が部屋から出てこないとも限らない。集中して読むことは難しいかもしれない、と却下する。
何かをしようとすれば、今この瞬間にも静が部屋から出てくるかもしれないと思い手に付かない。それならば、手っ取り早く恵里奈にあとどれくらい時間がかかるか訊いてしまえばいいのでは、と忍足が思い至るのと同時に背中に声がかかる。
「そないなとこ突っ立ってどないしたん?」
忍足が振り返ると、恵里奈が眉を顰め腕を組んで立っていた。
「もう終わったん?」
恵里奈がここにいるということは静は解放されたのだろうか。けれど、肝心の静の姿はどこにも見当たらない。それを確認するための問いかけであったのだが、恵里奈から返ってきたのは、
「んー、あともうちょいってとこやな」
という忍足の淡い期待を裏切るもので。ため息を吐き出したいところを必死に我慢して、忍足はさよかとだけ呟いてゆるゆると再びソファに腰を下ろす。そんな弟の様子を見ながら、恵里奈は台所へ向かいグラスを三つ盆に乗せて、冷蔵庫から作り置きしておいた麦茶を取り出す。八分目までそれをグラスに注ぎ、零さないよう慎重に運んでいく。
「はい」
途中、忍足に三つあるグラスのうちの一つを差し出す。特に喉の渇きを覚えていたわけではないし、ついでという側面が大いにあったとしても、入れてもらったものを突き返すほど忍足も恵里奈に対し偏屈ではない。おおきに、とそれを受け取って、一口煽る。
「侑ちゃん」
「なんや」
「静ちゃんって胸おっきいな」
「何言うてんねん!」
口の中にあった麦茶を飲み干しといてよかった、と思いながら忍足は恵里奈を見上げる。もちろん眉間に皺を寄せて、だ。
何故、恵里奈が静の胸の大きさを話題に上げたのか気にならないと言えば噓になる。が、そこを深堀して万が一話がややこしいこと――ひいては面倒なことになるのは得策ではないし、こんな話をしているところを静に見られることもまた得策ではない。
忍足も健全な男子高校生だ。そういった話題に全く興味がない、とは言えない。けれど、当の本人がいないところでこういった話題を、しかも実の姉とすることには些か引け目を感じてしまう。悪いことをしている、と言えばいいのか。とにかく、この話題を早々に切り上げたい忍足に対し、恵里奈はなおも続ける。
「静ちゃん形もエエしおっきいしめっちゃ羨ましいわ」
「それ俺と話さなアカンことか?」
「こんなこと話せんの侑ちゃんくらいやろ? それとも言いふらしてエエの?」
「エエわけないやろ」
「せやろ? それに侑ちゃんやから言うたんやないの」
「別に俺にも言わんでエエやろ」
忍足の言い分に恵里奈は思い切り首を傾げ、なんで? と問う。その様子に忍足はなんでも何も、と眉間に一本皺を増やす。そもそも忍足からしてみればこの話題は早々に切り上げてしまいたいもので。これ以上言葉を続けずに、適当に流しておけばいいのだ。それに恵里奈もここにいるのは単に麦茶を取りに来ただけで、長話をしたいわけではないはずなのだから。
「……なんもないわ」
言いたいことをぐっと、麦茶と一緒に飲み込んで忍足は恵里奈から視線を外す。
「言いたいことはちゃぁんと言うた方がエエよ?」
悪戯じみた、否、完全に揶揄い口調の恵里奈のそれが忍足の頭頂部に突き刺さるが、苦い顔をして忍足は聞き流すことを選択する。恵里奈もこれ以上言ったところで忍足とのキャッチボールは望めないだろう、と察する。大袈裟に肩を竦めた後、「ほな、あと十五分くらいで終わる予定やから」と言い残し、恵里奈はまた自室に篭る。その気配を背中で感じ、ようやく忍足は安堵する。胸の内には未だに靄がかかったままではあるが、それでも恵里奈がこの場に居ないというだけで幾分か気は楽になる。
――静ちゃんって胸おっきいな
恵里奈のその、知らなくてもいい情報が、いつまでも頭の隅に残ってしまっている。それを振り払うかのように、今日一番の大きなため息を吐き出した。

「お待たせやで」
恵里奈の言った通り、きっかり十五分後に二人は部屋から出てきた。
楽しそうな表情を浮かべる恵里奈とその隣で恥ずかしそうにもじもじと手を合わせ、普段とは違う装いが慣れないのか、落ち着きのない様子で視線をあちこちへやる静。
「…………」
忍足も静の見慣れぬ装いに言葉が出てこない。というのも、静が今着ているものは落ち着いたベージュの生地に藤の花の刺繍が施された、控えめではあるが綺麗で趣のある、まるで静のために誂えたかのような浴衣だ。装いに合わせ髪も簪で結い上げており、普段の静とは雰囲気が全然違っている。だから、忍足も咄嗟に言葉が出てこなかった。
綺麗で、可愛らしくて、ほんの少し幼さを秘めつつも艶やかさもある。「似合っている」の一言で済ませてしまうには惜しい上に姉の手前、気恥ずかしさが勝ってしまい忍足は上手く言葉を作ることができない。そんな忍足の様子を見て、静はわずかに眉を下げる。
恵里奈からはとてもよく似合っている、可愛いと言われたが忍足は依然として口を引き結んだままで。もしかしたら自分には不釣り合いな格好なのかもしれない、と静の心の内に暗雲がかかりそうになった、その時。
「静」
名前を呼ばれ、静はいつの間にか俯いていた顔を上げる。と、目に飛び込んできたのは、面映そうな表情を作る忍足。
「めっちゃ可愛え。よぉ似合っとるわ」
「……!」
きちんと想いを言葉にされることがどれほど静の心を救ったのか、忍足にはわからない。けれど、自分と同じように面映ゆそうな表情を作り、僅かに顔を伏せる静の様子から贈った言葉は少なくとも静を喜ばせることができた、と忍足は理解する。
「な? 言うた通りやったやろ? 静ちゃんにその浴衣が似合わんはずないんやから。私の直感はあんま外れんのよ」
余程着付けが上手くいって上機嫌なのか、恵里奈はふふ、と笑って自慢げに腕を組む。そんな姉の様子を見て、忍足は数時間前のやり取りを思い出す。
――絶対侑ちゃんにもエエことやから。
姉貴がああ言うたんも、まあ納得やな……。
まさか浴衣を着た静と花火大会に行けるだなんて、忍足は考えもしなかった。
そもそも高校に上がり中学よりも部活に費やす時間が増えた忍足にとって、静とデートをすること自体少なくなっていた。中学の頃はできる限り部活帰りなどは静に待っていてもらい一緒に帰る様にしていたが、高校は部活の活動時間が中学よりも長く、下手をすれば二十時近くまでかかることもある。そこから片付け、着替えとなるとそんな時間まで静を待たせておくことなんてできるはずもなく、自然と一緒に帰ることも難しくなった。それに加え部活が休みの日も週に一度になったことにより、静も部活が休みの日にデートをしたい、と誘うことに申し訳なさを感じるようになった。週に一度しかない休みの日。忍足だってその日にやりたいことはたくさんあるはずだ。それに折角の休養日なのだから体を休めて欲しいという静の思いを、忍足は察してしまう。察してしまったことにより、そんな静の気遣いを無駄にできない、と忍足も自分から手を伸ばすことが難しくなってしまったのだ。
そして夏休みに入ると、午前中だけもしくは午後だけという日もあるが、殆ど毎日部活に時間を費やすようになった。それは忍足が自分で選んだ道であるし、好きでずっとテニスを続けているのだから嫌だとは思わないし、炎天下の中での外練習はハードではあるが別段辞めたいとも思わない。けれど、それと同時にますます静に対して申し訳ないと思う気持ちが強くなった。
広瀬静という少女はいつも自分を後回しにしがちだ。本当に譲れないというところは頑なになるが、自分が我慢をすればいいという場面では平気で相手の都合を取ってしまう。
「侑士先輩の好きなことを私が邪魔できるはずないじゃないですか。それに私はテニスが好きな侑士先輩が好きなんですよ」
いつか、どこかで忍足に対し静はそんなことを言った。忍足は勿論テニスも好きだが、それとは別に静のこともきちんと好きなのだ。事あるごとに言葉にしているものの、静にはなかなか通じていないのが悲しいところではあるのだが。テニスと静、両立はなかなか難しいということを身をもって感じてはいるものの、だからといって静の存在を薄くする、なんて選択肢は忍足の中に存在していない。
氷帝の天才だから。テニスが上手いから。レギュラーだから。そんな理由ではなく、一人の人間として好きになってくれた静のことを、忍足は心の底から好きだと思っている。だからこそ、今のこの状態に申し訳なさと歯がゆさを感じている。静の優しさに甘えてしまっている、この状態が。静本人は決してそんなこと思ってはいないのだろうが――我慢を強いてしまっているこの状態が。
だから、今日の花火大会はなんとしてでも一緒に過ごしたかった。花火大会を理由にして、今までの静の気遣いに最大限の返礼をしたいと思ったのだ。できる限り想いを伝え、形にしよう――と心に決めていた。
恵里奈の乱入は忍足にとって想定外であったし、気恥ずかしさが同居を始めてしまったせいで決意が若干霞みはしたものの、姉の存在によって今日のデートがより良いものになることは違いようのない事実でもある。まさしく、絶対侑ちゃんにもエエことやから、である。
今この場で礼をすることは気持ち的にも難しいところではあるが、デートから帰り次第恵里奈にも何かしらの返礼はしなければならない、と忍足はそんなことを考える。けれど恵里奈からしてみれば、可愛い弟の可愛い彼女を自分好みに着せ替え出来ただけで満足であるし、特に忍足からの返礼は求めていないのだが、それは忍足には知る由もないことである。
「うんうん、さっきも言うたけど、静ちゃんよぉ似合うてるよ。私の見立て通りやったわ」
満足げに笑う恵里奈に、そういえば、と忍足はとある疑問をぶつける。
「姉貴、そんな浴衣持ってたんか?」
「ん? 持っとらんよ。この間静ちゃんに似合うやろな思うて買うたんや」
「えっ? そうだったんですか!?」
恵里奈の返答に忍足よりも先に静が食いつく。それもそのはずである。なにせ、静は恵里奈から何も説明を受けずに着せ替えられたのだ。今着ている浴衣がまさか自分のために購入された、なんていう事実を知ってしまえば食いつかずにはいられない。
静には浴衣の価値や相場の知識がない。けれど、今着ている浴衣がなんとなく安物ではないというのはわかる。肌触りが良いし、柄もプリントされたものではなく刺繍されたものだ。千円、二千円で購入できるものではないだろうし、もしかしたら万単位である可能性もある。もしそうであるならば、今の自分の財布の中身では賄いきれない。申し訳なさそうに眉を下げ、静は恵里奈の方へ首を傾ける。
「あの、私いま手持ちがあんまりなくて……その、」
「いや、俺が払うわ」
静が言い切る前に忍足がすかさず割って入る。そんな二人の様子に、恵里奈は僅かに首を傾げる。
「なんで二人が支払う話になっとるん? プレゼントやから気にせんでエエよ」
「で、でも……、この浴衣高価なものなんじゃ……」
「まあ、あんま安物やないけどたまのプレゼントくらい奮発させてや。それにな、私もめっちゃ楽しいし嬉しいから安い買い物やったわ」
「え? え?」
高い買い物ではあったけれど楽しいし嬉しいから安い買い物だ。
恵里奈の言葉の意味を理解しきれず、静は困惑し、忍足はその真意を理解し、そういうことかと心の内で呟く。
今まで恵里奈は兄弟従兄弟内で唯一の女性であるが故に、祖父母や叔父夫婦からも可愛がられてきたという自覚はある。が、たった一人の女の孫、姪っ子であることは決して恵里奈にとって楽しいこと、嬉しいことばかりではなかった。むしろ寂しさを感じることのほうが多かった。
例えば、人形遊びやままごとをしたいと思った時。
例えば、自分が着るには抵抗があったりサイズ的に合わないが、可愛いと思う服を見つけた時。
妹がいれば、従姉妹がいればそれらが出来たかもしれない、と思うことが沢山あった。
勿論、母親や叔母も健在であるが、彼女らは恵里奈からしてみれば親やそれに近しい存在であって、どんなに仲が良くてもそこには世代という一線が引かれてしまう。一緒に遊んだり、可愛いと思う服をプレゼントするような間柄ではない。
対して静は弟の恋人であり、歳もそこまで離れているわけではない。それに将来的に初めて母親でも叔母でもない、女性の身内になるかもしれない存在だ。外見の可愛さやスタイルはもとより、譲らないと決めたところはしっかりと芯を持つ性格や家事全般、特に料理が得意なところも恵里奈にはとても好意的に映っている。
だから、恵里奈にとって静は弟の恋人であると同時に可愛い妹同然の存在であり、そんな静を自分が絶対静に似合うだろうと思って購入した浴衣に着せ替えることができて、楽しかったし、嬉しかったのだ。例え大枚を叩こうともその価値は十分、十二分にあったし、恵里奈自身の満足感も相まって安い買い物だと感じたのだ。
しかしこれは恵里奈と忍足にしか知り得ないことで。忍足家の事情を知らない静からしてみれば、誕生日でもないのにいきなり高価な浴衣をプレゼントすると言われているのだから困惑するのも仕方のないことだ。
「いえ、でもお姉さんからいただく理由もないですし……」
だから、理由もなく――否、理由があっても高価な物を貰うことに抵抗がある静からしてみればその主張は当然出てきて然るべきで。けれど、恵里奈も静の性格は理解している。断られることは既に予測済みだ。プレゼントでだめなら次のカードを切るまでのこと。
「ほんなら、レンタルっちゅうんはどうや?」
「レンタル、ですか?」
「そ。私も着るかもしれんし、あげるんやなくて貸すっちゅう話なら気兼ねなく着てもらえるやろ?」
「そ、それでしたら……」
上手く話を持っていけて満足げな恵里奈とそんな姉の様子に何も言わず見守る忍足。
レンタル言うてるけどこれは絶対何かしら理由つけて譲るパターンやな……。
忍足の心の声が聞こえたわけでもないのに、恵里奈は忍足に向けウィンクを一つする。それはまるでやってやったぜと言わんばかりで。
忍足は一度視線を切り、似た者姉弟であることを改めて自覚する。何せ、忍足も何かにつけて静にプレゼントと称して色々なものをあげているのだ。それはジュースであったりお菓子であったり、またはデートの食事代や雑貨などのプレゼントであったりと、恵里奈のように大枚を叩くことは少ないが、そこそこの金額は使っている。けれどそれを苦に思ったことは一度もない。むしろ静の嬉しそうな表情が見られるなら安いものだとさえ思っている。
結局は自分がしたいからそうしているだけであるし、最終的には自分の心が満たされるのだからそれでいい。静が喜んでくれるのであればそれに勝るものはない。そんな考えが恵里奈と、そして忍足の中にはある。だから似たもの姉弟なのだ。
「侑ちゃん、そろそろ出かける時間やないの?」
恵里奈にそう投げかけられて、忍足と静は時計へ視線を投げる。――と、確かにそろそろ家を出る時刻を針は指し示していた。
「せやな」
「そうですね!」
二人同時にそう言うと、先ほどまでの穏やかな時間はどこか彼方へ行ってしまう。静は慌てて荷物を取りに行き、忍足はソファに置いていた財布とスマートフォンをズボンのポケットに突っ込み、玄関へと向かう。静も程なくして巾着を手にやってくる。
「ほな、行ってらっしゃい」
恵里奈に見送られ、忍足は気恥ずかしそうに、静はにこやかな笑みを浮かべ、二人仲良くドアを開けたのであった。

カラン、コロン。静が歩くたびに奏でられる音。風情があるそれは聞いているだけでどこか日常とは違う心持ちにさせる。
「姉貴、そんなもんまで用意しとったんやな」
「そうですね。私もびっくりしました」
二人の視線は静の足元――正確に言えば履物に向けられている。木板に和柄の布ベルトが付けられた、下駄のようでいてサンダルのようにも見える履物だ。
「ちゅうかそれ、下駄やないんよな?」
「そうですね、お姉さん曰くサンダル下駄らしいです。下駄だと普段から履いてるわけじゃないから最初は良いけど後から足痛くなるよって言われました」
「まあ、道理やなぁ。浴衣も着慣れないから大変やろ?」
「そうですね。いつもの歩幅で歩こうとするとどうしても着付けが乱れちゃうので気をつけないといけないですね。……歩くの遅くなっちゃってすみません」
静が申し訳なさそうに眉を下げるが、忍足は特に気にする素振りもなく続ける。
「風情があってエエやん。それにこうしてのんびり歩くんも悪ないしな」
そう言って、忍足は静の左手を取る。緩く指を絡ませれば、静からもそれに応えるようにきゅっと指に力がこもる。いつもと違う歩幅でゆっくり進む道のりはまるで、叶うならずっとこうしていたい――という静と過ごす時間を大切に思う忍足の心情を映したようで。
楽しくて、愛おしくて。
自然と忍足の表情も優しく溶けていく。そしてそれを見て静も同じように表情を溶かす。
「さっきも言うたけどその浴衣、よぉ似合っとるよ。姉貴には何や礼せんとな」
「ありがとうございます。あ、お礼するときは私も一緒にしますので絶対言ってくださいね」
「別に静はせんでエエやろ? その浴衣、レンタル言うてたやん」
「レンタルであってもこんな素敵な浴衣を着付けまでしてもらったんです。お礼するのは当然です」
「ホンマ律儀やなぁ」
「侑士先輩だってそうじゃないですか」
ふふ、と笑う静を見て、忍足は胸をぎゅっと掴まれた心地になる。
見慣れない浴衣姿。
簪で結い上げられた髪。
普段はしていない化粧も薄く施されている。
隣を歩く少女は紛れもなく忍足の恋人である静ではあるのだが、忍足のよく知る静ではない。否、静の中に眠る可能性の姿と言うべきなのかもしれない。
化粧覚えたら化けそうやなぁ……。
今ですら静を狙う輩が多いというのに、制服を脱ぎ、化粧を覚えた静は今以上の魅力を持つことはほぼ確定事項だ。それでも氷帝学園にいる間はテニス部の後輩たち――主に日吉、鳳、樺地が学年が違う忍足の代わりに守ったり牽制をしてくれたりしてくれるだろう。だが、そこから一歩出てしまえば――?
心の片隅にじわじわと広がるのは不安と、そして僅かな嫉妬心だった。
ほんの一瞬。忍足が表情を消す。それは本当に瞬きの間のことであったのに。
「侑士、先輩」
繋いだ手に力が込められるのが忍足に伝わる。はっと我に返り、忍足が視線を静へ落とす。と、目に飛び込んできたのは感情がぐちゃぐちゃに混ざった表情を浮かべた静の姿だった。
「大丈夫ですか? もしかして調子悪いですか?」
「大丈夫や」
「…………」
本当に? と静の真っ直ぐな視線が忍足に向けられる。
ホンマ、細かいとこまでよぉ見とるわ。
声に出せないそれを飲み込んで、忍足はぎゅっと握った手に力を込める。
「ホンマやって。可愛くて綺麗な彼女が居って幸せやなって思ってただけや」
嘘ではない。ただ真実を言ったわけでもない。静に向けて、薄暗い感情を出す必要はない。これを向けるべきなのは別の存在だ、と忍足はぐっとそれを押し込める。
「そう、ですか」
やや怪訝な表情を作りながらも、静はそれ以上忍足に突っ込んで訊くことはない。訊いたところで答えてはもらえないだろうという予感があったからだ。それに忍足が言わないという選択をした以上、静もそれを無理に聞き出すことはしない。したくない、と思っている。
誰にだって言いたくないことはある。触れられたくない部分はある。気を遣えるが故にそれをきちんと理解していて、その線引きが年々上手くなっているのが広瀬静という少女だ。
会話が途切れると、途端に微妙な空気感になってしまう。まだ無言でも居心地が良いと言えるほど関係が深くないからか、静は若干落ち着かない様子で何か会話の糸口になるものはないかと探す。そして、静の視線は忍足の顔――正確には目元へ移る。訊きたくて、でも訊いていいものかわからなかったその話題。これを機に訊いてみるのもいいのかもしれない、と静は一つ息を吐き出す。
「侑士先輩」
「ん?」
「訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「エエよ。ちゅうか別に遠慮なんてせんで訊いてくれてエエて」
忍足が穏やかな笑みを静へ向ける。優しくて、にこやかで、静といるときにしか見せないその表情は静の胸の内を甘く溶かしていく。
「で? 訊きたいことってなんや?」
忍足の催促で静は再び息を吐き出す。
「あ、えっと……侑士先輩、どうして眼鏡掛けなくなっちゃったんですか?」
「え? そんなこと訊きたかったん?」
前置きから忍足はなんとなく訊きづらい問いが来るものかと身構えていただけに、静のその問いに忍足は何度も目を瞬かせる。静はと言えば、忍足の呆気にとられた表情に心が空回ってしまう。
高校に進学して、いつの頃か忍足はトレードマークとも言える眼鏡を掛けなくなった。忍足の中で何か契機があったのか、それとも単なる気まぐれなのか、その判断がつかなくて、そしてこのことに対して尋ねていいものなのか静には明確な判断ができなかった。
静からしてみれば多少の緊張を孕んでの言葉であったというのに、当の忍足はそんなこと、と言ってのけた。だから、静も困ってしまう。
「そんなこと、なんですか?」
「やって、静の言い方やともっと重い質問が来るんかと思っとったし……」
「でも侑士先輩、中等部にいた時は絶対眼鏡外さなかったじゃないですか」
「まあ、あん時は色々思うとこがあったしなぁ」
「今はその思うところがないんですか?」
「完全にないっちゅうわけやないけど、少なくとも中学ん時よりかはないな」
忍足自身、特に大きな契機があって眼鏡を外したわけではない。ただ、少しだけ素顔を見られることへの抵抗感が無くなっただけだ。それに静と恋人同士になり、恋人らしいことをするようになり、意外と眼鏡の存在感について考えるようになった。
こうして静の表情をじっと見たいときに、ガラス一枚隔てていることさえ勿体ないと思うようになった。
キスをする時、せっかくの艶やかな雰囲気が眼鏡があるせいで薄まってしまうことにもどかしさを感じるようになった。
他人からしてみたら小さなことなのかもしれない。けれど、静を大切に想う忍足からしてみれば、眼鏡を掛けていることにより弊害が起こるのであれば外すことは吝かではない。元より視力矯正のために掛けていたわけではないのだ。眼鏡がなくても問題はない。
「そうだったんですね」
「静は眼鏡掛けてる俺の方がエエ?」
「え? いえ、そんなことはないですけど……。でも、侑士先輩とても凛々しいお顔つきをされてるのでちょっと緊張しちゃいますね」
ふふ、と笑う静に対し、忍足は顔面の表情筋をフル稼働させて頬が緩まないようにするのに必死だ。最近の静は意図せず忍足の男心をピンポイントで撃ち抜いてくることが多く、それに伴い忍足の表情筋は過重労働ではないかというほど仕事をしている。静の前だから多少の緩みは看過できそうな気もするが、それにしたって限度はあるしそもそも自分はそんなキャラじゃないというのは忍足が一番よく分かっている。こういう時に、ポーカーフェイスキャラというものは厄介だ。何せ喜怒哀楽を素直に表に出せないのだから。
岳人や謙也みたく、とは言わんでも――、
そんな思いが忍足の胸を掠める。もう少し感情を表に出すことができたなら。けれどそれができるのならこんなに思い悩んでいないというのも理解している。だからこそ忍足はどうにもできない自分の在り方を受け入れて、こうして表情筋に過重労働を強いているのだ。
「侑士先輩?」
忍足の表情が余程気になったのか、静は忍足の顔を覗き込む。突然目の前に静の顔が入り込み、忍足は目を見開く。仰け反りそうになったところを寸でのところで抑えて、何でもないような表情を作って応える。
「ん?」
「いえ、何でもないです」
「さよか?」
忍足も積極的に訊こうと思っていないからか、それ以上は言葉を続けない。代わりに別の話題を提供する。
「そういや静とこうして夕方出かけんの初めてやな」
「そうですね。去年は私が内部進学のテストとかありましたし、侑士先輩も部活でお忙しかったですしね」
「今もあんまデート連れて行けんですまんなぁ」
「いえ、いいんです。前にも言いましたよね? 私はテニスが好きな侑士先輩が好きなんですよ。侑士先輩の好きなことを邪魔してまでデートをしたいとは思ってません」
「邪魔はしとらんやろ。それに俺は静だっておんなしくらい大事に想うとるんやからそない寂しいこと言わんといてや」
確かに、テニスを続けることと静を想い続けることの両立は難しい。けれど、忍足は決してできないとは思っていないのだから。
「あっ、ありがとう……ございます……」
忍足の真っすぐ放った言葉は存外静に大きな衝撃を与えたようで。恥ずかしくて、面映ゆくて静は顔を伏せる。その動作に忍足も静に知られないように視線を一度切る。
ホンマ、頑張らなアカンよな……。
心の内でそう呟いて、繋いだ手に力を込める。再び訪れた沈黙が二人の間に居座り、カラン、コロンとサンダル下駄の風流な音色だけが響いた。

花火大会の会場は既に大いに賑わっていた。夏の一大イベントといえば花火大会、と結びつくように右を見ても左を見ても浴衣や甚平を着込んだ人間ばかりが目立つ。入り口から見えるだけでも相当な人の多さに静は目を丸くする。
「すごい人出ですね」
「せやなぁ。これ、場所取りしとかんとアカンかったかな」
「私は別に立って見るので大丈夫ですよ。元から見られればいいなって思うくらいでしたし。それに座るとせっかくの浴衣が汚れちゃいそうなので、できるなら立ってた方がいいです。あ、でも侑士先輩は座って見た方がいいんじゃないですか?」
「なんで?」
静の提案に忍足は首を傾げる。そんな提案を受ける理由がないからだ。忍足の疑問に、静はえっと、と言葉を続ける。
「侑士先輩、部活でお疲れじゃないですか? 立ったままは疲れちゃいますよ」
「そんなやわな鍛え方しとらんから大丈夫やて。それに静一人立たせて俺が座ってるんは嫌や」
「わかりました。じゃあ一緒に立って見ましょう」
「ん。ほんなら出店見て回ろか」
「はい」
方向性が決まったところで、忍足と静は会場へ一歩踏み出す。
通路の左右には色々な屋台が軒を連ねている。定番の飲食の屋台や射的、金魚すくいやお面を並べている屋台など、多種多様で見て回るだけでも十分楽しい。
「静、夕飯まだやったよな?」
「そうですね。侑士先輩もまだですよね?」
「せやな。ちゅうか家出たんが夕方やから夕飯食べる時間にはまだ早かったしな。何か食べたいもんある?」
「そうですね……。でも折角の浴衣が汚れちゃうのは申し訳ないので……――、あっ、……」
言いながら静の視線がとある一点へ向かう。忍足もその行き先を確認すると、たこ焼きの屋台に行きつく。
「たこ焼き?」
「あっ、えっと、懐かしいなって思っただけです。あの学園祭が開催されなければ私はこうして侑士先輩とお付き合いすることも花火大会に来ることもなかったんだなって」
そう言う静の視線はたこ焼きの屋台から離れようとしない。懐かしさも当然あるのだろうが、それ以上に空腹もあるのだろう。その横顔はたこ焼きが食べたいな、と言っている。
「……たこ焼き、食べよか」
「え?」
「気ぃ付けてれば汚さへんやろ。それに俺もたこ焼き食いたなってきたわ」
「いいんですか?」
「エエに決まっとるやろ」
静の遠慮がちな視線に忍足は肩を竦める。静が食べたそうにしているのならば、忍足がそれを拒む理由はどこにもない。それに、屋台のたこ焼きは自分で作るものとはまた違った味わいがあるものだ――というのを忍足はきちんと理解している。家で作る方が、などと野暮なことは言わない。屋台も花火大会の一環なのだ。ならば、それを含めて楽しまなければ勿体ないというもの。
「買うてくるから静はそこのベンチ座っとって」
忍足が指さした先には、今日の日のために設置されたであろう簡易ベンチがたくさん並んでいるスペースがあった。かなりの人数がこの会場にいるはずなのだが、ベンチにはまだ余裕がある。
それもそのはずだ。何せこのスペースにあるベンチに座ったところで肝心の打ち上げ花火はここからは見られないからだ。それを知っているから、ちょっとした休憩には利用するものの、花火をちゃんと見たい人間は早々に場所取りへ行くのがセオリーとなっていた。そして場所取りをしてしまえばわざわざこの簡易ベンチを利用する必要はない。従って、ベンチに空きがあるという状態になるわけだ。
一応、忍足も下調べはしてきておりこのベンチの存在を知っていた。休憩するには穴場、という情報も得ていた。
下調べの重要性を思い知りながら、静がベンチへ腰掛けるのを見届けると忍足は屋台へ向かう。
店主とのやり取りを済ませ、熱々のたこ焼きを受け取る。忍足が頭を下げると店主からは気持ちのいい声が返ってくる。
「毎度どうも! お兄ちゃん、さっき可愛いお嬢ちゃんとうちの屋台見てただろ? おまけしといたから二人で仲良く食べな!」
店主の気前の良さに忍足は二度ほど瞬きをした後、ふっと表情を軽くする。
「ありがとうございます」
「お兄ちゃん、この花火大会初めてかい? だったら、この屋台列をずっと先に行ったところに穴場のスポットがあるからそこに行くといいよ」
「わかりました。食べ終わったら行ってみます」
「デート楽しんでな!」
馴れ馴れしさを感じつつも、屋台を切り盛りする人間はこれくらいのフランクさが無いとダメなのかもしれない、と忍足は一人考える。そもそもこういったイベントの場では同じ系統の屋台はないとはいえ、競合店が軒を連ねている。その中で売上を確保していくのは至難の業だ。売る物もそうだが、売る人間も魅力的でなければ人の目は惹けないのかもしれない。何をもって魅力的というかは人それぞれではあるが。
店主に再度頭を下げて、忍足は静が座るベンチへ歩みを向ける。
何故店主が親切に穴場スポットを教えてくれたのかは忍足には分からないが、折角教えてもらったのなら行ってみる価値はあるのかもしれない、と頭の隅で考える。
「待たせてすまんなぁ」
「いいえ、大丈夫ですよ」
忍足が静の背中へ声をかけ、隣へ腰掛けると微笑みが返ってくる。
「なんやおっちゃんがサービスしてくれたからぎょうさんあるで。好きなだけ食べてエエよ」
「ありがとうございます。侑士先輩もお腹減ってますよね? お好きなだけどうぞ」
「ん。おおきに」
各々が楊枝を手にし、沢山あるたこ焼きの中から一つ刺して持ち上げる。落とさないように手を皿代わりにし、口元まで持っていくとひと息に放り込む。
「――!」
「美味いなぁ」
「はいっ! 美味しいです!」
目を煌めかせ、口元を緩ませ、静は大きく首を縦に振る。忍足も僅かに口角が上がり、早々に二つ目に楊枝を刺す。
こんなに美味しいのであれば、もしかしたら食べきれないのでは、という忍足の危惧は杞憂に終わりそうだった。事実、忍足も静も楊枝がどんどん進み、気付けば残り一つとなっていた。
「侑士先輩、どうぞ」
「静こそ食べや」
「えっと、お腹いっぱいなので……」
「?」
普段であるならばこれくらいでは満腹にはならないはずなのにどうして――、とそれを口にする前に忍足は普段と違う要素に気付く。そう、静は今日浴衣を着ているのだ。普段着慣れない装いであるし、帯で胸の下から腹部を若干とはいえ圧迫されているのだから食べようと思ったところで食べられない。毎日和装をしている人間ならともかく、静は今日初めて浴衣を着たのだからそれも仕方のないことと言える。
静の、言葉にできない意図を汲み取り、忍足はほな、と最後の一つに楊枝を刺す。全て平らげて近くに設置してあったゴミ箱へ容器と楊枝を捨てたところで静もベンチから立ち上がる。
忍足がスマートフォンを取り出し、スリープ解除をすると、あと三十分ほどで花火が打ち上がる時刻が画面に浮かび上がる。そんなに時間が経っていたとは思っていなかったため、忍足は内心驚く。まだ焦るような時間ではないが、しかしたこ焼き屋の店主に教えてもらった場所がここからどれくらい歩くかもわからないため、出来ることなら早めに出発をしたほうがいいのかもしれないという思いはある。
「たこ焼き屋のおっちゃんがな、屋台の列をずっと行ったとこに穴場スポットがあんでって教えてくれたんやけど、行ってみぃひん?」
「はい!」
静から元気のいい返事をもらい、忍足もそれに応えるように口角を上げる。
「ほんなら行こか」
そう言って、忍足は静の手を取る。カラン、コロンと小気味のいい音を聞きながら屋台列の前を通り過ぎ、十段ほど階段を昇ったところにその場所はあった。店主の言う通り穴場というだけあって周囲に人の気配はなく、周りが大きく開けているので花火が上がり始めればそれは綺麗に見えるだろうというのは想像できる。が、一つ惜しいポイントがあるとすれば穴場であるが故にベンチの類がないので地面に腰を下ろすしかないことだ。しかし、忍足も静も座って見ることは最初から視野に入れていない。なので、問題ないといえばないのだ。
「あと十五分くらいやな」
「そうですね。私、打ち上げ花火ってちゃんと見たことないのでとっても楽しみです」
「言われてみれば俺もあんまないな……。ちゅうか都心部で打ち上げ花火ってやり辛いんやろな」
「大きくて開けてる場所とか海とか、周りに燃えるものがないところじゃないとだめなんでしたっけ?」
「確かそんな感じやった気ぃするわ」
そんな他愛もない会話をしていれば自然と時間は経っているもので。
ヒュー、という音が暗闇の中高く昇っていったかと思えば、視界が一気に、そして鮮やかに彩られる。その光を追うように炸裂音が響き、静の体が音の大きさと衝撃でびくりと震える。
「始まったなぁ」
「びっくりしました……!」
「せやな。静、体めっちゃビクッてなっとったな」
笑いそうになるのを堪えながら、忍足は眉を歪めて静を見やる。そんな忍足を見て、静は小さく頬を膨らませる。けれど、それもほんの少しの間だけで、二人の視線は空へ向かう。
何せ、花火は次から次へと上がっていく。単色のものもあれば内から外へ色が変わるもの、大きく開きそこからまた小さな花火が展開するものなど、多種多様にパッと咲いたかと思えば数秒もしないうちに散り、消えていく。それこそよそ見をしている時間も余裕もない。一度打ち上げが始まってしまえば一瞬、一瞬を目に焼き付けておかなければあっという間に消えてなくなってしまうのだから。
「……綺麗やな」
ぼそりと零した忍足の独り言は花火の炸裂音で散ってしまう。けれど、静の耳にはきちんとそれは届けられていて。言葉を交わす代わりに、忍足の手を取り、緩く握る。それに応えるように忍足も指を絡めた。

楽しい時間ほどあっという間に過ぎるもので。花火大会の締めくくりである大玉中玉混合の十連発が終わり、まるで何事も起こっていなかったような静寂な闇が戻ってくる。
名残惜しさはあるものの、学生が外を出歩くには少々心許ない時間帯であるが故に、忍足と静は余韻に浸る間もなく屋台列まで下りてくる。が、見物客の帰宅ラッシュともう暫く時間を潰そうという目論見の客で通路は人でごった返している。暫く待って客足が引く可能性は低い。
ならば――、
「静。はぐれんといてな」
「はい」
どちらからともなく手を繋いで、一歩踏み出す。
人ごみの中を歩くというのは体力的にも、そして精神的にも辛いものがある。幸い、人の流れがあるとはいえ、大人ばかりがひしめき合っているところを、僅かな隙間を見つけて進んでいくことは想像以上に大変だ。忍足のようにある程度身長も体格もあれば多少はマシではあるが、それも本当に多少でしかない。ましてや静の身長と体格では人に埋もれてしまい、次の足が踏み出せない。
忍足がその変化に気付いたのはそんな時だった。
「……静?」
はぐれないように繋いでいたはずの手が知らない間に解かれていた。自分の手に視線を落とし、忍足は一瞬にして顔が青ざめる。
やばい、と思ったものの時すでに遅く。
こんな人ごみの中で一度はぐれてしまえば再会するのはとてつもなく難しい。探そうにも人の流れは止まらない。止まれない。静とははぐれた時の集合場所も決めていないし、スマートフォンを取り出そうにも人口密度が高すぎるためにそれもまた難しい。どうしようかと悩んでいる間にもどんどん体は流されていってしまう。ひとまず忍足が人の波から脱しようと体を傾けたその時――。
ぎゅっと。必死に、縋るように。忍足の左手を掴む細くて白い指。慌ててその指を、そして手を、体を引き寄せる。少々周りの視線を集めてしまったが、そんなものを気にする余裕は忍足にはない。
実際、はぐれていた時間は一分にも満たない。けれど、もしかしたら――なんて不安で心が満たされた状態の当人たちからしてみれば、時間の感覚なんてものはどこかへ飛んでしまい、永遠にも思えたはずだ。それを証明するように、静の顔面は心細さで塗りつくされていたし、忍足も表情や言葉には出さないものの、引き寄せた静の体をしっかりと左腕の中に収めている。
「はぐれちゃってすみません……」
「それは俺のセリフや。ホンマすまん……。静が浴衣着とるの知っとったはずやのにもっとゆっくり歩けばよかったわ」
「いえ、侑士先輩のせいじゃないです。私が歩くの遅かっただけです」
眉を下げ、申し訳なさそうに謝る静に、忍足の胸がちくりと痛む。
こういう時は俺のせいにしてエエのに。
そんなこと、言ったところで静は決して聞き入れないことは分かっている。だから忍足も口にしない。静に見られないように息を吐き出して、それから今度は絶対に離すものかとばかりに静の体を抱き上げる。突然のことに静は驚き、悲鳴を上げる。
「わっ、わっ、あのっ、侑士先輩!?」
「もう、はぐれんのは勘弁やからな」
「それはそうなんですけどっ……!」
「すまんけど、人ごみ抜けるまで我慢してや」
な? と忍足は微笑む。その笑みを見て、静はもう少しだけ言いたかったことを飲み込まざるを得ない。はい、と小さく了承の言葉をこぼす。
「……――」
自分の目線の下に忍足の顔があることが珍しくて、静が暫く見つめていると忍足の揺れる瞳とかち合う。
「……今日、楽しかった?」
僅かにトーンを落とした声に静の胸が詰まる。
目は口程に物を言う、って本当なんだなぁ。
言葉では伝えなかったが、じっと見つめる忍足の瞳は僅かに不安を滲ませている。
楽しんでくれただろうか。
喜んでもらえただろうか。
ごちゃ混ぜになった感情は渦を巻いて忍足の胸の内に留まっている。
普段ポーカーフェイスを貫いている忍足ではあるが、こうして間近で瞳を見れば表情に出ない感情を読み取ることができる。が、これはほかの誰でもない、静だからこそできることである。そして忍足も静以外にこれほど至近距離に居ることを良しとはしない。
「楽しかったです。とっても楽しかったですよ」
にこり、と花のような笑みを浮かべ、静は忍足の問いに返す。まっすぐ、自分と似た色を持つ宝石に向かって。静の迷いのない言葉は忍足の口角を上げさせる。
「おおきに」
凛々しい顔つきから僅かに見える、優しい表情に静は口をきゅっと引き結ぶ。
「また来年、来られたらエエな」
「はい」
「静」
忍足は一度言葉を切って、まるで決意表明でもするかのようにまっすぐ静の瞳を見つめる。静も忍足に倣い、じっと見つめる。
「今年もあと四か月くらいしかないんやけど、できる限りでエエから、デートしよな」
「え……、でも、」
部活で忙しいんじゃ、と言いかけて静は口を噤む。そんなことは忍足が一番よく分かっている。けれどその忍足がこう言ってきたのだ。それなら、静がそれに対して気持ちを折るようなことは口にできない。
夕方静が口にした、忍足の好きなことを邪魔してまでデートをしたくないというのは紛れもなく本音だ。だけど。だけれども――、やはり心のどこかで寂しさのようなものは感じていた。だから、嬉しかった。忍足にデートをしようと言われたことが、とても、嬉しかったのだ。胸が詰まって、口を引き結んで、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「毎週は難しいかもしれんけど、二週間に一回、部活が休みの日は静と一緒に居ってエエ?」
その提案に、静が首を横に振ることなどありえない。はい、と掠れ気味の小さな声で静が返事をすると、忍足は腕に力を込める。
「今まで、ホンマにすまんかったわ」
何に対して、とは言わなくても静に伝わったようで、「いいえ。全然、大丈夫です」とふわりとした笑みと共に返ってくる。静のこういうところに忍足はかなり救われているのだが、それを言葉にすることができるようになるのはまだもう少し時間が必要だ。
話しながら歩いていると、いつの間にか人ごみから抜け出していた。約束通り忍足が静の体を下ろすと、カランとサンダル下駄が鳴る。
「ありがとうございます。すみません、重たかったですよね」
「全然重ないわ。むしろ軽すぎて心配っちゅうか……静、ちゃんと食べとるよな?」
「食べてますよ?」
「ほんならエエんやけど……」
先程までのしんみりした雰囲気はどこへやら。
忍足と静は他愛のない話をしながら、どんなことがあっても離さないように――、そんな思いを込めながらぎゅっと、しっかり手を繋ぐ。
カラン、コロンとサンダル下駄が奏でる音色を聞きながら、二人は来た時と同じくゆっくりと帰路についた。