Schneetag, mit Ihnen

今日は急遽部活動が休みになったことと、たまには家でのんびりしようということになり、所謂お家デートをしようということで、静は忍足の迎えを教室で待っていた。
手間をかけてしまうから校門で待っていると静が提案したが、ただでさえ短い氷帝の基準服のスカートを履いている静を寒空の下に数分ですらもおいておきたくない忍足は頑なにその提案を呑まず、教室で待つよう言ったのである。確かに今日は雪でも降りそうなほど冷え込んでいる。いくらコートを着込んだところで温かいのはコートで覆われている部分のみだ。ノーガードの下半身――特に脚は直に冷たい空気に触れてしまう。
「体冷やしてエエことなんかないんやからおとなしく教室で待っとって」
念を押すように、忍足はそう静へ伝えた。さすがの静もそこまで言われてしまえば従わずにはいられない。わかりました、と返事をしこうして教室で一人、忍足のことを待っているのである。
「静」
名前を呼ばれ、静の顔が上がる。声が聞こえた方向へ視線を向ければ、忍足がドアのところで右手を上げているのが見える。
「侑士先輩!」
コートと鞄を手にし、静は恋しい男の元へ駆ける。そんな静の様子に忍足は、走って来んでもエエのにと零すものの、自分の元へ駆けてくる恋人に悪い気など起こるわけもなく。むしろ嬉しささえ感じるほどだ。
「ん、ほな行こか」
「はい」
短い会話を終えると二人は揃って昇降口へと歩き出す。互いに今日あったこと、そういえばと思い出したことなどを話しつつ歩く道のりは楽しい以外の何物でもなくて。あっという間に忍足の家に辿り着く。
「ただいま」
「お邪魔します」
ドアを開けて帰宅と来訪の挨拶をするものの、家の中からは誰の声も返ってこない。内心不思議に思いつつも、静を家の中へ上げ忍足はリビングへ向かう。案の定リビングも電気が消されており、テーブルの上には一枚のメモ紙が置かれている。
「……あー」
忍足の独り言に静は僅かに首を傾げる。どうかしたんですか? と問えば、忍足はなんとも微妙な顔つきで静へ向き直る。
「今日家に誰も居らんわ」
「そうなんですか?」
忍足の捉えようによっては色々と危うい発言に静はなんてことのないように返してしまう。
忍足も静も付き合い始めてから二年三ヶ月になろうというところだ。忍足はその間、キス以上のことをしたいと思ったことがないと言えば嘘になる。けれど、静から承諾を貰えるまでは待つと心に決めた以上、強い自制心を持って忍足は自らの手を制している。だからデートの時は敢えて二人きりにならないように人が多いところへ出かけたり、家に招くときも家族の誰かしらがいるときを狙っている。今日も、誰かしらいるだろうと踏んで静を家に招いたというのに、まさかの誤算だ。しかもメモに書いてあることが事実であるならば、父親は急遽取れた休みを利用し母親と共に突発的な旅行に行き、姉も友人と遠出しており帰宅するのは日付を超える前か、それとも翌日かというところだ。となれば、今現在家にいるのは忍足と静の二人だけとなるわけで。
健全な男子高校生としては恋人との関係をステップアップさせる絶好の機会ではあるのだが、如何せん忍足は自制をしている身だ。ステップアップどころかこれから数時間、静が帰るまで己と闘わなければならない。普段であるならば家族の誰かがいるという最大級のストッパーがあるのだが、今日ばかりはそれに頼れない。完全に忍足の意志の強さがものを言う状況だ。
一度心の内でため息を吐き出して、今からでも外に出るかと考えるが一瞬で却下する。何せ今日はかなり気温が低く、静の恰好を考えるとあまり外に連れ出すのはよろしくない。せめて私服であったのなら、と思わなくもないがそんなことを考えたところで意味がないのはわかっている。
「侑士先輩?」
静のその呼びかけで忍足は意識を目の前へと向ける。悩んだところで仕方のないことだ。自分の自制心の強さを信じるように、忍足は一度静から視線を切り、一つ息を吐き出す。
「ん。なんもあらへんよ。温かいもんでも淹れるから静はソファにでも座っとって」
「台所に入ってよければ私がやりますよ?」
「静はお客さんやろ? そないなことさせられへんって」
な? エエ子やから座っとって。
忍足が薄く笑みを作れば、静もわかりましたと頷いて鞄とコートをソファの脇に置き、ちょこんと遠慮がちに柔らかく沈み込むそこへ腰を下ろす。
ふと窓の外を見れば、いつの間にか重く厚い雲が広がっていて。降るのかなぁ、降らないといいなぁ、なんてことを静が考えていると忍足がマグカップを二つ、両手に持ってやって来る。
「お茶でよかった?」
その問いかけに静は窓から忍足へと視線を移す。はい、と笑えば忍足からも笑みが返ってくる。
「熱いから気を付けてや」
「はい」
忍足からマグカップを受け取り、静はそれを両手で包み込む。じんわりと手のひらが温まって、心地良い。一口含むと香りと僅かな苦味と甘みが口の中に広がる。
「美味しいです」
「静に褒めてもらえるやなんて光栄やわ」
「なんでですか?」
きょとんとした表情で静は二度ほど瞬きをする。
「やって静の淹れてくれるお茶美味いやん。そんな静に褒めてもらえたんやから光栄やろ?」
「そう、ですかね?」
「せやで」
そう言いながら忍足は静の隣へ腰を下ろす。静同様マグカップに口付け、熱い日本茶を少し含む。そして思い出したかのように暖房とサーキュレーターのスイッチを入れる。外と同じとまでは言わないが、リビングもそこそこに寒かったのだ。
会話が途切れてしまうと、微妙に気まずい雰囲気が居座ってしまう。正確には忍足の内に、ではあるのだが。両親も姉もいない、静との二人きりの自宅。自室よりかは、と思いリビングで過ごすことにしたものの、やはり気を抜くと意識があらぬ方向へ行きかねない。どうしようか、どうしたらいいかと悩んでいると、静が小さな声を上げる。
「あ!」
「ん?」
どうかしたのかと静の視線を追うと、声が上がるのも納得な景色が窓の外にはあった。
ちらちらと舞うそれは冬特有のもの。道理で冷えるわけだ、と忍足は納得する。
「雪ですよ! 侑士先輩」
「せやなぁ。そら寒いはずやわ」
「十二月に雪なんて珍しいですよね!」
確かに珍しいと言えばそうなのだが、そこまでテンションの上がることかと言われると忍足としてはそうではなく。むしろ寒くてかなわないとさえ思ってしまう。けれど、だからといって静の気持ちまで否定するわけではない。楽しそうに、嬉しそうに窓の外を見る恋人の姿を、微笑ましく観察する。
「積もりますかね?」
「どうやろなぁ? 東京てあんま雪降らんから降ってもすぐ止むんとちゃう?」
「そうですかね……」
少し残念そうな色を浮かべ、静は薄く笑う。もしかして積もってほしかったのだろうか、と忍足は考える。けれど、言った通り東京はあまり雪が降らない、降っても積雪数センチというのが常だ。静の積雪イメージがわからないが、おそらく真っ白な銀世界とまではいかないだろう。そもそも積もったら家から出られなくなるのだから、忍足からしてみればそれは一大事だ。何せ、今日は家に誰もいないのだから。
「そういえば、侑士先輩この間面白い映画があるって言ってましたよね?」
いつの間にか静の視線は窓から忍足へと移っている。それを交わらせ、忍足は薄く笑う。
「ん? ああ、せやな。それ観るか?」
「いいですか?」
「エエよ。ちゅうかそんな遠慮した言い方せんでエエって」
俺と静の仲やろ? と続ければ、静は面映そうな表情を作る。それを見て忍足も満足そうに笑みを見せる。
テレビとプレイヤーの電源を入れ、ディスクを挿入して再生する。程なくして印象的なセリフと切なげなピアノ音楽がテレビから流れ出す。冒頭から物語に引き込まれ、静の視線はずっとテレビに釘付けで。気付けばエンディングを迎えていた。最後の監督の名前が流れ終え、画面が最初の画面に戻ると静の視線がテレビから忍足の方へくるりと移る。
「すっごくよかったです! 面白かったです!」
「そない喜んでもらえると俺としても嬉しいわ」
「特にあの告白のシーン、とっても素敵でした」
「せやろ。静とはこういうとこ合うからエエわ。岳人とか謙也やとこういう話出来んしな」
「ふふ、そうですね」
「お茶冷めてもうたな。淹れ直してくるわ」
「ありがとうございます。……お手洗いお借りしてもいいですか?」
「エエよ」
そう言って、忍足が二人分のマグカップを手にした同じタイミングで静も立ち上がる。ややあって二人が先ほどと同じくソファに腰掛け直したところで今度は忍足の方から驚きの声が上がる。
「うわ」
「え?」
忍足の視線は窓の外に向けられている。静もその視線を追い、わあ! と歓喜の声を上げる。つい一時間半ほど前まではちらちらと舞う程度だった雪は、今では大きな塊となって断続的に落下している。それこそこのペースで降り続ければ一時間もすれば容易に人一人は余裕で入れるサイズのかまくらを作れてしまうほどの積雪が見込めるだろう。
「すごいですね! これなら雪だるまとか作れちゃいそうですね!」
はしゃぐ静の隣では忍足が苦い顔を浮かべる。
あーこれアカンやつやん……。
ここまで本降りとなってしまえば、すでに道路は真っ白になっているだろう。それこそ静の言う、雪だるまも余裕で作れてしまうくらいの積雪が想像できる。と、なれば――だ。ローファーでそんな雪道を歩けばどうなるかなど想像するまでもない。そして生憎と忍足家に長靴の準備はない。送っていくことは吝かではないが、雪道に神経を集中させなければならないから必然的に視線は下がる。そうなると今度は車の往来が気になるところだ。
一応忍足家も住宅街にあるとはいえ、車の往来がないというわけではない。むしろこの天気だ。どうしても車を動かすことができないという場合でなければ大抵の人間は車を利用するだろう。自分が車道側を歩くのは当然のこととはいえ、静の様子にまで気を配って歩けるかと言われると忍足も少し首を傾げてしまう。できないわけではない――が、難易度は数段上がる。
こんなことになるくらいだったら雪が降り始めた時点で静を家に送り届けるべきだった。けれど今更そんなことを考えたところで後の祭りもいいところだ。結果として忍足の眉間には数本の皺が寄ることとなる。
「…………」
どうしようかと悩む忍足に静は気付きつつも、どう声をかけたらいいか考える。静は忍足が何に対して表情を曇らせているのかがわからない。わからないのなら訊けばいいという話ではあるのだが、忍足があまりにも真剣に悩んでいるものだから声をかけるタイミングを掴めずにいる。結果として沈黙がリビングを包み込むことになり、それが破られたのは二人のスマートフォンがほぼ同時にメッセージ着信のバイブを知らせるまで続いた。
「姉貴?」
「お母さん?」
自分のスマートフォンを手にし、各々が到着したメッセージに目を通す。それを見て、忍足は眉間に更に皺を寄せ、静は首を傾げながらも母親への返信を打ち込んで送信する。ちらりと静が忍足の様子を窺うと、やはりと言うべきか、忍足は苦い表情を崩してはいない。
そんなにお姉さんからのメッセージに嫌なことが書いてあったのかなぁ……。
訊いてもいいものか、どうしようか、だけどこういうのはあんまり訊いていいことじゃなさそうだし、なんて静の脳内が一人会議をしていると、手の中のスマートフォンが今度は長めに震える。画面に視線を落とすと、それは母親からの電話着信を示している。
「あの、侑士先輩、ちょっと失礼します」
「ん? ああ、エエよ」
静が立ち上がる前に忍足が腰を上げ、さっさとリビングから出て行ってしまう。流れるような一連の動作に、静は制止することもできず、「えっ、あの!」と言うことしかできない。その間にもスマートフォンは着信を知らせるために震え続けている。忍足には後で謝らなければ、と思いつつ、静はスマートフォンを操作して耳に当てる。
「もしもし、お母さん? どうかしたの?」
「静、今忍足くんのお宅にいるのよね?」
「うん、そうだよ」
「そうよね……、忍足くんのお母さん今、いらっしゃる?」
「今はいないみたいだけど……。あ、ちょっと待って」
そう言って、静は立ち上がるとリビングから廊下へ繋がるドアを開け、すぐそばで腕を組む忍足を見やる。いきなりドアが開き、わずかに目を見開いたものの、忍足は薄く笑って「どないした?」と問いかける。
「侑士先輩、今日侑士先輩のお母さんって……」
「ああ、うちの親居らんよ。夫婦揃って旅行行っとるわ。ついでに姉貴も今日は雪酷いから帰って来れんって連絡あったわ」
「そうですか……。あ、お母さん?」
「聞いてたわ。うーん、そうねぇ。雪が酷いからこれから車で迎えに行ってもいいんだけど、お父さんが車使っちゃってるし、今日帰ってこられるかわからないって連絡あったのよね……。静、忍足くんに代わってもらえる?」
「え? うん」
静は忍足の袖を掴み、リビングへと引っ張って来てから視線を交わらせる。ここは忍足の家だ。流石に電話を代わるとしても忍足をいつまでも寒い廊下に立たせたままというのは静からしてみれば心苦しいことこの上ない。忍足はといえば、静の可愛らしい行為に表情筋に重労働を強いている真っ最中である。
「あの、その、お母さんが侑士先輩に代わってって言ってて」
「俺? ん、まあエエけど……」
静の母親と電話をするイベントに忍足はわずかに首を傾げる。なんだろうか、とスマートフォンを受け取り、「はい。代わりました、忍足です」と名乗る。
何故母親が忍足と電話を代わるように言ったのかわからなくて、静はことの成り行きを見守ることしかできない。数分話したかと思えば、忍足はなんとも形容し難い表情を作りながら既に画面が暗くなったスマートフォンを静へ返す。それを受け取って、再び視線を上げると、忍足は視線を左右に飛ばしてどうにも落ち着かない素振りだ。あまりにもあからさま、というか忍足にしては珍しい挙動に、さすがの静も問いかけざるを得ない。
「どうかしたんですか?」
「あー、えっと、せやなぁ。静、今日この天気やと帰れへんよな?」
「うーん、頑張れば帰れそうだとは思いますけど」
「まあ、頑張るんやったらそれはそれでエエねんけど、静のオカンは別に無理せんでエエよって言うててな」
「はあ……?」
忍足の言いたいことがうまく伝わっておらず、静は大きく首を傾げてしまう。忍足も忍足でどう言ったらいいか悩みながらの言葉の取捨選択でどうにも要領を得ない話し方になってしまう。まだるっこしいのは自分でもよく分かっているのだが、如何せんストレートに提案をするにはあまりにもこの話題はデリケートなのだ。けれど、いつまでも話が進まないのはよろしくない。忍足は意を決して言葉を紡ぎあげる。
「静。嫌なら嫌でエエねんけど」
「はい?」
「今日、家泊まってくか?」
「……………………えぇ!?」
たっぷりの間を置いて、静の素っ頓狂な声がリビングに響いたのであった。

今日が金曜日であること。そして明日は学校が休みであること。外の様子から帰る判断をするには遅すぎたということ。以上三つの要因により、静は忍足の提案に甘えることにした。もし明日も学校があるのであれば、静は多少の無理をしても家に帰るという選択肢を取ったのかもしれない。何せ、教科書やノートは自宅にあるのだ。その日の教科に必要なものを持って行かずに学校に行くほど間抜けなことはない。けれど明日は休みで、部活動に所属していない静は土日は基本的に学校には行かない。テニス部が自校で練習試合などをする時は応援に行くこともあるが、それも忍足が恥ずかしがるのでたまにしかない。
そして幸か不幸か、否この場合は後者なのかもしれないが、静が母親の電話に出た直後にテニス部部長跡部から明日の部活動は雪の影響で中止という連絡がメッセージアプリに入った。いくら屋内テニスコートが完備された氷帝学園高等部であろうと、それまでの通学路が雪に埋もれていてはどうしようもない。そして滅多に雪が積もらない東京で異例の積雪だ。もしかしたら日曜日の部活動も休みになるかもしれない、と跡部が追記していたのを忍足は頭の隅で思い出す。
従って、忍足は明日の予定が飛び、静も特に用事という用事もないことから突発的なお泊り会が実現することになってしまったのである。
忍足からしてみればなんというタイミングだ――という感じなのだが、当事者の一人である静は最初こそ驚き、慌てたものの自分が置かれた状況を冷静に見て、首を縦に振った。その部分に関して忍足側からは――提案した手前というのもあるが故に言葉としてのあれこれはなかったし、静の母親から同意を得ているとはいえ、やはり思うところの一つや二つはあるもので。内心苦い顔を崩せずにいる。けれどそれを表に出すほど野暮ではないし、こうなればもう自分の自制心を信じるほか忍足に道はない。
そんなこんながあり、一人は胸の内に靄を育てながら、もう一人は積雪とお泊り会という滅多にないイベントに心躍らせながら少し早いが夕食を作るべく、リビングからキッチンへ移動していた。といっても、カウンターを超えた向こう側へ行ったというだけで移動というほどの移動でもないのだが。
「別に静はお客さんなんやから座って待ってればエエんやで?」
「いえ、私もお手伝いします」
「まあ、俺もあんま料理上手やないから手伝ってくれるんは嬉しいけど」
「私もあんまり上手ではないですので」
「静がそれを言うたらアカンやろ」
忍足も、そして忍足の家族も静の料理の腕を知っている。料理人とまではいかないまでも、丁寧で優しくて美味しい静の手料理は忍足の胃袋を既に掴んで離さない。
そうですかね? なんて首を傾げる静に、そうやと返し、忍足は冷蔵庫の扉を開ける。母親から冷蔵庫の中身を好きに使っていいと言われているため、とりあえず何があるかを物色する。
「なんや、結構あるなぁ」
忍足の言葉通り、冷蔵庫の中身はかなり充実していた。このことからも、両親の旅行は本当に突発的なものであることが知れる。さて、冷蔵庫の中身を見る限りは割と何でもできそうな感じはあるが、どうしたものかと忍足は考える。今日は特に冷えるから温かい物であることは大前提であるとして、果たして静と自分が食べたい物は何だろうか。云々と考えている間に静が脇から顔を覗かせる。
「侑士先輩、冷気が逃げちゃいますからとりあえず扉閉めましょう?」
「え? あ、せやな」
言われるがまま、忍足は冷蔵庫の扉をいったん閉める。
「野菜室に何があるのかわからないので確定じゃないですけど、今見させてもらった材料だと、ハンバーグとおでんと親子丼は出来そうですね」
「静、今の一瞬でそこまで把握したんか?」
「一瞬と言うほどでもないですよ?」
「それにしたって材料見てすぐ献立が立てられるんすごない?」
「そうですかね? 特に褒められたことがなかったので普通だと思いますけど」
「いや、めっちゃごっついわ」
忍足が感心していると、静は「野菜室も見せてもらっていいですか?」と控えめに主張する。それにすぐさま反応し、忍足は野菜室を引き出して静に見せる。そこにある野菜に目を通して、静はなるほど、と小さく呟いて押し戻す。
「うーん、そうですね。ロールキャベツとかも作れそうですけど」
「ええなぁ、ロールキャベツ」
「じゃあロールキャベツにしますか? 結構時間かかると思いますけど」
「まだ時間早いからエエやろ。静は違うもんがエエ?」
「いえ、今日は特に寒いからロールキャベツがいいなって思います」
「ん。ほんなら何したらエエか言うてや、静先生」
「先生、ですか?」
忍足の半分冗談が混じる言葉に静は二度ほど瞬きをする。その仕草が可愛らしくて忍足は優しい笑みを作る。
「ん、静先生」
「先生と呼ばれるほどじゃないんですけど……」
「俺の気分的な問題やからそんな真剣に捉えてもらわんでもエエて」
そう言いながら忍足はラックに掛けてあったエプロンを取り、静に渡す。それを受け取って、静は「ありがとうございます」と笑みを作りそれを着用する。
流石に制服のまま料理をするわけにはいかないし、服を着替えるといっても静の服は忍足の家にはない。姉の服はサイズが合うかどうか微妙なところであるし、忍足も服を貸すことは吝かではないのだが、やはりとも言うべきか忍足侑士という少年もいたって普通の、男子高校生だ。
周りからは冷静だと言われ、思われてもいたりする忍足ではあるし、本人も自覚をしている部分はあるのだが、だからといって彼女が自分の服を着ている状態に何も思わないわけはないし、感じるものがないわけではない。となれば、必然的に静にはエプロンを着用してもらうしか道は残されていないのだ。
エプロンの紐を結び、腕まくりをし、静はよし! と気合を入れる。
「それじゃあ、侑士先輩はキャベツの芯をくりぬいてもらってもいいですか? それが終わったらラップをしてレンジにかけてください。その間に私はタネを作りますね」
冷蔵庫から材料を取り出し、てきぱきと作業を進めつつ静は忍足に的確に指示を出していく。その鮮やかとも言うべき手際のよさに忍足は内心感心する。それは静が普段から料理をしている証でもあるし、いかに合理的に動くかという思考の表れでもあるのだから。これが終わればあれ、あれが終わればそれ、といった風に指示は次から次へと出され、最終工程の煮込む段階になったところで静が忍足へ視線を向ける。
「これであとは一時間くらい煮込むだけなので侑士先輩はゆっくりしてて大丈夫ですよ」
「え? いや、エエよ。静がゆっくりしぃや。お客さんやろ」
「私はこれ見てないとだめなので」
そう言って、静はコンロでコトコトと音を立てるフライパンを見やる。それにつられて忍足もそこへ視線を送る。
「やけど水分無くなったら水足せばエエんやろ? そんなら俺でもできるからゆっくりしときや。なんなら先に風呂入ってきてもエエねんけど――ああ、やけど湯冷めするから寝る前の方がエエか」
「えっ」
「ん?」
静の異様ともとれる驚き方に忍足は首を傾げる。おかしなことを言った自覚はない。が、静の頬は少しずつ赤みを増していく。
「お……、お、お風呂は、その、今日はやめておきます」
「なんでや? 寒いから温まらんと」
「その……服と下着が……」
「……あー」
せやな、と呟いて忍足は自分の失言を後悔する。静の洋服がない、ということは下着の類もないということで。いくらすぐ洗濯し、乾燥機にかけたところで一時間は下着なしの状態で過ごさねばならない。流石に恋人の家で下着をつけずに過ごすことに抵抗感を覚えないほど静も鈍感ではない。忍足も忍足で思うところがないわけでもない。だが、今日は雪が降るほどの冷え込みだ。風呂に入らずに就寝するのは忍足からしてみれば勧められない。特に女性は体を冷やしていいことなど一つもないのだから。自分の感情と彼女の体ならば、当然忍足は後者を取る。
じゃあどうしようか――と考え、忍足は悩みながらも提案する。
「静。やっぱ今日は寒いんやし風呂入った方がエエよ。服は俺の貸したるし静の服も乾燥機かければすぐ乾くやろ。なんなら乾くまで俺どっか行っとくで」
「い、いえ……! 侑士先輩にどこかへ行ってもらわなくても大丈夫です! が、頑張ります……!」
「頑張るって何を頑張んねん」
苦笑をこぼして、忍足は静へ視線を向ける。
「で、どないしよか? 先風呂入る? それとも飯終わってからの方がエエ?」
「あ、えっと……そうですね……どうしましょう……」
どうしようかと真面目な顔をして考える静を見やってから忍足はフライパンへ視線を落とす。まだ焦げ付くほど水分は蒸発しておらず、コトコトと小気味の良い音が聞こえてくる。暫くそれに耳を傾けていると、静の中で結論が出たのか頭が上がる。
「先にお風呂いただいてもいいですか?」
「ん、エエよ。ほんなら風呂入れてくるからちょっと火見ててもろてエエ?」
「わかりました」
言い終わるや否や、忍足はくるりと踵を返しキッチンを後にする。廊下へ出るとひやりとした空気が襲い掛かってくる。流石に暖房が届かない廊下はかなり冷え込んでいる。
足早に風呂場まで行き、軽く掃除をした後浴槽に栓をして湯を張るボタンを押す。数秒後、湯が出始めたのを見届けてから蓋をしてリビングまで戻ると、カウンター越しに静が何やら楽し気にフライパンを見ている姿が目に飛び込んでくる。それを見て忍足の心のうちにある感情が沸く。
ああ――、
「新婚ってこんな感じなんかな……」
ぼそりと零したそれは、幸いにも静に届くことはなくフローリングへ落ちていく。
「侑士先輩? どうかしましたか?」
忍足が戻って来たことに気付いたのか、静がフライパンから顔を上げ視線を向ける。にこりと笑んで「なんもないで」と答えた後、キッチンへと歩みを向けた。

「ほい。じゃあこれ着替えな。ゆっくりでエエからちゃんと温まるんやで」
「ありがとうございます」
十数分後、湯が張り終わったことを知らせるアラームが鳴ると、忍足は自室から静へ着せるための服を取りに行った。静への配慮と自分のために、持っている服の中で一番暖かそうでかつ生地の厚そうなものを選んだつもりだ。そのせいで若干色合いがちぐはぐな感じが否めないが、そこはもう仕方がないと諦めた。
忍足から服を受け取り、静は「お先にすみません」と律儀に頭を下げて風呂場へと向かう。着ていたブラウスを脱ぎ、下着を予めどこにあるか教えてもらっていたネットに入れ、洗濯乾燥機へ入れる。洗濯物の少なさに申し訳なさを感じながらこれも予めしまってある場所を教えてもらっていた洗剤を入れてふたを閉めて時短モードのスイッチを押す。リビングが暖かかったからか、冷たい空気が肌を撫でる感触に鳥肌が立つ。体を抱くように腕を交差させて、静は浴室のドアを開ける。
「……わぁ!」
思わず感嘆の声が出てしまう。それもそのはずだ。今静の目の前にあるのは、静の家の浴槽よりもはるかに大きなそれ。
「すごいなぁ! 大きいお風呂、いいなぁ」
静の家の浴槽も決して小さいというわけではない。忍足家の浴槽が通常よりも大きめなものが選ばれているというだけなのだが、大きな浴槽というのはただそれだけで静のテンションを上げさせる。
風呂桶で湯をすくい、右肩、左肩へかけてから浴槽へゆっくりと足を入れていく。今日が特別寒いからか、それとも忍足家ではこれがいつもの温度なのかは定かではないが、少しだけ熱めの湯だった。
浴槽の端に背をつけて足を伸ばしても向こう端まで届かない。それがなんだか面白くて静は小さく笑う。
「ふふ、全然届かないや」
パシャパシャと湯面を遊ばせ、大きく息を吸い込んで、吐き出して。一度天井を見てから静は浴槽から出て風呂椅子へ腰を下ろす。シャワーで髪を濡らし、ふと角の方へ視線を移すと、シャンプーとコンディショナー、そしてボディーソープがいくつも並んでいることに気付く。なんでだろうなぁ、とそれらを見比べてその理由に思い至る。
「もしかしてこれ、ご家族で使うやつを分けてるのかな……?」
静の推測は正しく、いかにも高そうなシャンプーとコンディショナー、そしてボディーソープには名前こそ書いてはいなかったものの、目印のようなものが付けられている。
「目印が付いてる方がお姉さん用かな……?」
流石に恵里奈のものを使うことに申し訳なさを感じたのか、静は目印がついていないものを使って髪と体を洗った後、再び浴槽に体を沈める。
「……はぁ」
漏れ出たため息は浴室によく響く。
暖房がついていたとはいえ、やはり体は冷えていたのだろう。じっくり温まってから静は浴槽から立ち上がる。浴室から出てタオルで水分を拭き取り、忍足から借りた服に袖を通す。当然のことながらサイズの合わない服はだぼだぼで、袖を幾重も捲りウエスト部分の紐を自分の腰回りに合わせてぎゅっと結ぶ。
「…………侑士先輩ってやっぱり大きいんだなぁ」
自分と忍足との体格差を体感しつつ、鏡台の前に立ち髪を乾かしながら改めて鏡に映った服装を見て、静は何とも言えない表情を作る。いつもと違う装いの自分を見て、本当にこれが自分なのだろうかと疑ってしまう。もちろんそこにマイナスの感情は入っていない。むしろ喜びや嬉しさの方が感覚的には近いと言える。鏡台の下部にフックで引っ掛かっていたドライヤーを使い、丁寧に髪を乾かしていく。雪が降るほどの寒さなのだ。きちんと乾かさなければ風邪をひきかねない。恋人とは言え他人の家のものを使うことに若干の申し訳なさを感じるものの、濡れたままリビングに戻れば忍足から苦言を呈されることは目に見えている。自分は自然乾燥派だと言ってドライヤーを使わないのにどうにもおかしい話だと思わなくもないが、それは忍足が静のことを大事に思っているから言っているのだ、というのはなんとなく静も察している。けれど静からしてみれば忍足こそちゃんとドライヤーで髪を乾かして欲しいと思っている。夏場はよくても特に冬場はやはり体調を崩す原因になりかねないし、忍足が静のことを大事に思っているのと同様に静も忍足のことを大事に思っている。それに忍足はテニス部所属だ。運動部にとって体調管理はとても重要なことの一つであるのだから、なおさら気を付けてもらいたいものだ。
髪を乾かし終えて、ドライヤーを元あった場所へ片付け、ふと、鏡から洗濯乾燥機へ目を向けると、ランプは脱水を示していた。いくら時短モードで動かしているとはいえ、まだ時間がかかることは否めない。
どうしようか、と静は考える。いくら厚手の服を用意してもらったとはいえ、やはり下着を着けないままリビングに戻るのは気が引けてしまう。というよりも、落ち着かないのだ。そわそわしてしまって、意識が上の空になりかねないとさえ思っている。風呂に入るまでは多少の浮つきくらいなら我慢できるだろうと踏んでいた。けれど、実際はどうだ。多少どころか最大限と言えるレベルでそわそわと落ち着かなくなっているではないか。
全然大丈夫じゃない……。なんで私、あの時侑士先輩に大丈夫です、なんて言ったんだろう……。
何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせようと試みるものの、それも上手くいかず。むしろ意識すればするほど心臓がうるさくその存在を主張し始め、胸のあたりが苦しくなる。
今になって静は自分の選択を、そして考えが浅かったことを後悔する。忍足が嫌なら嫌でいいと逃げる道を用意した理由も今になって思い至る。しかし泊まるという選択をした以上今から帰るということも難しい。何せ今現在も雪は降り続いていて、相応の恰好をしなければ少し外に出るのも苦労をするほどだ。そして静は学校から直接忍足の家にやってきたのだから当然そんな用意はしていない。
戻れるのであれば雪が降り始めたあの時まで戻りたい。そして雪が積もるか積もらないかなんて暢気に会話をしていた自分の手を引いて今すぐに帰ろうと言いたい。けれど、それができないから静はため息とともに蹲ることしかできない。
「……静?」
ドアの向こう、控えめなノックと共に忍足の声が聞こえる。その声色は静を心配するように少しだけ落ちていて、それは静の頭を跳ね上げさせるには十分だった。
「えらい時間かかっとるけど大丈夫か? 転んだりしてへん?」
「だっ、大丈夫、です!」
「ほんなら、そこ寒いやろ。リビングに居ったら?」
「いえ、その、ちょっと逆上せちゃったので……!」
咄嗟に口を突いて出た嘘。ああ、やってしまったと思うよりも前に「開けるで!」とドアが勢いよく開かれる。慌てた様子の忍足と視線がかち合い、静の瞳は大きく見開かれる。
「全然大丈夫やないやんか!」
「あ、いえ、その……本当に大丈夫ですので」
「逆上せとるのに大丈夫なわけないやろ」
怒っているわけではない、のだが。忍足の語気が普段よりも強いからか、静は僅かに委縮してしまう。自分を本気で心配してくれているというのはわかる。けれど、忍足と静とでは前提が違っているためにどうにも怒られているような気分になってしまうのだ。それもそのはずだ。忍足は静が逆上せて動けないと信じているし、静はリビングに戻ることを躊躇して咄嗟に嘘をついてしまったのだから。
「立て……へんよな。抱きかかえてくからちゃんと掴まっとってや」
「え? わっ……!」
言うが否や、忍足は静の体を軽々しく抱きかかえリビングまで連れていく。待ってください、も下ろしてください、もその耳に聞き届けられない。優しくソファの上に寝かされたかと思えば、サーキュレーターを傍まで寄せられ、水とストローが入ったコップと濡れタオルを持った忍足がサーキュレーターの隣に腰掛ける。
「水飲めそうか?」
「……はい」
「ん、ほんならちょっとずつでエエから水飲んどき」
そう言うと、忍足は静のおでこにタオルを乗せストローを口元まで持って行く。静が一口吸い上げるのを見て、忍足はほっと息をつく。そしてそんな忍足を見て、静は申し訳なさで胸がいっぱいになってしまう。自分がついてしまった嘘のせいで忍足に迷惑をかけてしまったと思っているのだからそれも致し方のないことだ。
「ちゃんと温まりやて言うたけど、逆上せるほど入らんでもエエのに」
苦笑を交えた忍足の独り言とも静に対する言葉ともとれるそれに、ついに静は堪えきれず表情を歪めてしまう。
「……っ、ごめ、なさい」
「謝らんでもエエて」
「違うんです……。私逆上せてないんです」
「ん?」
どういうことだ、と言わんばかりの忍足の表情に静は申し訳なさそうに思い切り眉を下げてゆっくりと起き上がる。
「その、下着を着けてない状態で侑士先輩と一緒のところにいるのが、落ち着かなくて……逆上せたって嘘ついちゃって……。だから、その……、体調が悪いわけじゃなくて……」
しどろもどろ、という言葉がしっくり来るような静の様子に、忍足は耳を傾ける。口を挟まず、静が言葉をこぼし終えるまで、じっと待つ。
「ごめんなさい……。ご迷惑とご面倒をおかけしました……」
「ん、エエよ。迷惑とも面倒とも思うとらんし何もないんならそれが一番やろ? それに静の気持ちもわからんでもないしな」
そっと目を伏せて、忍足は何とも言えない笑みを見せる。それを見て、静の胸がきゅっと詰まる。
心配かけてごめんなさい。気を遣っていただいてありがとうございます。
渦巻く感情に胸の前で手を握り、静は顔を俯かせる。二人して同じ空間にいるのに視線を合わせない状態がしばらく続いたかと思えば、同じようなタイミングで視線がかち合うものだから面白いものだ。
「静」
「侑士先輩」
存在を確かめ合うようにお互いに名前を呼んで、一瞬時が止まり、そして笑い合う。
「そろそろ夕飯にしよか」
「はい」
「ああ、静は座っとってエエよ。温め直すだけやし」
「いえ、大丈夫です」
立ち上がろうとする静を制して、忍足は眉を下げて緩く表情を崩す。
「俺が大丈夫やないから座っとって」
な? エエ子やから。
そう締めて、忍足はキッチンへ向かい静は小さな返答をすることしかできなかった。

「ごちそうさまでした」
行儀よく静が胸の前で手を合わせ、忍足もそれに倣い手を合わせ食事を終える挨拶を言葉にする。
「ごちそうさんでした。美味かったわ」
「はい、美味しかったです!」
「静はホンマ料理上手やな」
「侑士先輩も一緒に作ったじゃないですか」
会話のキャッチボールをしながら食器を下げるべく静が席を立とうとした時には、既にそれらは忍足の前に重ねてあった。
「ゆっくりしとってや」
「いえ、それは、」
「エエから」
先ほどと同じく緩く表情を崩して忍足は静の真っ直ぐ向けられる視線に自身の視線を絡める。
「……でも流石にやってもらうばっかりは、」
「嫌?」
「はい」
「やけど、静はお客さんやで。たまには何もせんでゆっくりしとったらエエよ。それにそろそろ洗濯物乾くんやない?」
忍足がふっと視線を上げ、リビングのドアを指す。静もつられて顔を向ける。
「静やって落ち着かんやろ? ほんなら先そっち済ませてきたらどうや?」
忍足の言い分に、静はでも、と続けることができない。確かに忍足の言う通り、落ち着かないは落ち着かないのだ。風呂場で蹲っていた時に比べれば多少は慣れてマシになったと言えなくもないが、それでも気を抜けば思考がそちらへ行きかねない。だから何かをしていれば気も紛れるだろうと思っていたのに、その何かを忍足はさせてくれないのだ。
「わかりました」
ありがとうございます、と頭を下げて静はリビングを後にする。その背中を見送って、ドアが完全に閉まるのを確認してから忍足は深く、大きくため息をこぼす。
「…………」
何か言葉を吐き出してしまえば思っていること、考えていることが全て流れ出てしまいそうで忍足はぐっと口を引き結び、食器をシンクへ持っていく。スポンジに洗剤を出して泡立て食器を洗っていく。
静に気取られないようになるべく無心を心がけていたが、落ち着かないのは忍足も一緒だった。
それもそうだ。彼女が風呂上がりに自分の服を着ているだけでもなかなかクるものがあるのに、そこに更に下着を着用していないという要素まで入ってくれば気にするなという方が無理な話だ。それでもなんとかやり過ごし、静がいなくなったこのタイミングで、忍足はようやく一息つくことができたのだ。
自制心に絶対的な自信がある、とまでは言わないがそれなりにあると自負している忍足ではあるが――、
「もつんかな、これ」
独り言は洗剤の泡と一緒に流れていく。
触れたい、と思ってしまった。指先でもなく、頭でもなく、頬でもなく。自分の服の下に隠された静の体に、触れてみたいと思ってしまった。思った瞬間、胸の内が強い力で締め付けられて、眉間が寄りそうになるのを必死に堪えた。
静から承諾を貰うまではキス以上のことはしない。そう心に誓って、自分の手を制してきた。それが一瞬でも揺らいでしまったことに忍足は苦虫を噛み潰したような表情を作る。
「……はあ」
もう一度ため息をこぼして、どうせならこの決して口にできない情欲も泡と一緒に流れてくれないだろうか、と気持ちの決着がついたところで忍足は皿洗いを終える。と同時にリビングのドアが開かれ静が戻ってくる。先ほどよりも姿勢が良くなっているのは気のせいではないのだろう。
「…………」
「ん?」
シンクから顔を上げて、忍足の視線は静を捉える。
「ちゃんと乾いとった?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ほんならエエわ」
忍足が緩い笑みを見せると、静は急に頬を染め、視線を泳がせる。その変化に忍足は引っかかりを覚える。あからさまにおかしい、とわかっている以上、口を出さずにはいられない。風呂場での一件は忍足の早合点と静の悪気のない嘘によるものだったが、今度こそもしかして、なんて思いが込み上げてきて忍足はキッチンから出て、未だにドアの前で立ち尽くす静の元へ向かう。
「どないしたん? 具合悪いか?」
「いえ、大丈夫です!」
大丈夫と言う割には静の視線は忍足と交わらない。意図的に避けていると言っても過言ではない。静にそんな態度を取られる覚えのない忍足の心の内は困惑の靄がもくもくと湧いて出る。もしかして自分の知らないうちに静に対して何かしてしまったのだろうか、と思い返してみるものの、特にこれだというものには辿り着かない。それがまた靄を発生させてしまう。
もうこの際静自身に訊いてしまった方が早いのではないか、と思わなくもないがどうやって訊いたらいいのかがわからない。何せ静は大丈夫だと言い切っているのだ。あまり深堀されたくないことなのかもしれない、というのは推察できる。でもだからといってこのまま引き下がるのも棘が刺さっているようで、正直気になって仕方がない。
どうしようかと散々悩み、忍足は静の心情を優先することにした。
「なんかあったら遠慮なく言うてや。俺に言いたくないことまでは言わんでエエけどな」
忍足のそれは意図せず静の心を動かす。先ほどまで彷徨っていた視線はきちんと忍足の瞳を見つめ、固定されている。いきなり目が合ったものだから忍足からすれば驚いて当然だ。僅かに瞼が開く。
「言いたくないこと、じゃないんです……。ただ、恥ずかしかったというか……、こんなことを考えてるの、きっと私だけなんだろうなって思ったら、その……」
言いたくないことじゃない。恥ずかしかった。こんなことを考えてるのは自分だけ。零された言葉に忍足の興味は俄然惹かれる。なんだろう、静は何を考えていたのだろう。思うと同時に、忍足の手は静の手を取っていた。
「ん?」
静の言葉を促すように、忍足は僅かに首を傾げる。言ってみて、と言外に込めて。それが伝わったのか、静は何度かの呼吸の後、再び忍足から視線を外す。
「その、キッチンに立ってる侑士先輩を見て……、素敵だなって思って……」
「素敵? 別にそない特別なことはしとらんかったけど」
「その、侑士先輩と結婚したらこんな感じなのかなって……、勝手に考えて、それでちょっと恥ずかしくなっちゃって……」
あはは、と恥ずかしそうに笑う静に忍足は今度こそ目を見開く。それは先ほど忍足も同じことを考えていたからだ。キッチンに立つ静を見て、同じことを思ったのだ。結婚したらこんな感じなのかもしれない、と。同じ光景を見て、同じことを思う。二人の意識は深いところで繋がっていて、それが嬉しくて。気付けば、忍足の腕は静の小さな体をその中へ閉じ込めていた。
「えっ、あの、侑士先輩!?」
突然のことに頭が追いつかない静の耳元に、忍足はそっと唇を寄せる。
「あんな、俺もさっき同じこと考えとったわ」
静の頬が真っ赤に染まったのを、忍足は胸の辺りが温かくなったことで知ったのであった。

「だめです、嫌です」
「だめでも嫌でもそれしかあらへんやろ?」
静のはっきりとした拒否の言葉に忍足も困ったような表情を作りながらも態度を崩さない。
時計の針は二十二時半を回ろうかというところ。就寝するための準備を整えた二人は、リビングで押し問答を繰り広げていた。
「ですから、私がリビングで寝ます!」
「静をリビングで寝かすわけにはいかへんて。大体寝る言うてもソファに薄い毛布しかあらへんし寒いからろくに寝れんて」
「大丈夫です!」
「その自信はどっから来んねん……。何度も言うとるけど、静はお客さんやで? 俺がリビングで寝るから静は俺の部屋のベッド使いや」
「できません! 侑士先輩こそちゃんとご自分のベッドで寝るべきです!」
先ほどから同じことの繰り返しだ。そろそろこの話題にも決着をつけたいところなのだが、いかんせん静は譲る気など更々ないと言わんばかりの態度と口ぶりだ。かくいう忍足も静は客人であるのだし、いくらソファをベッド代わりにしたところで熟睡は難しい。それに普段客用の布団は仕舞い込んでしまっているため、辛うじて持ち出せたのは薄い毛布と枕のみ。流石に暖房をつけたまま寝るのは電気代も気になるが乾燥も気になるため就寝時には消すほかない。そうなると薄い毛布一枚で静をリビングにおくことは許可できるわけがない。静も静で忍足のベッドで寝ることなどできるはずもない。恥ずかしい云々よりも前に、部屋の主人を差し置いて自分がベッドを使うことにかなりの引け目を感じているからだ。忍足は、今日は帰ってこないのだから恵里奈の部屋を使うことも考えたが、静がそれを拒否したのだ。自分はリビングのソファで寝れる、大丈夫だ――と。
この押し問答が始まってから十分が経とうとしている。そろそろ結論の出ない平行線には決着をつけたい。自分と静、どちらの意見を通すか。無論忍足としては譲る気は更々ない。けれどそれは静も同じことである。それならば、と折衷案が忍足のうちに浮かび上がる。――が、これは忍足自身の意志の強さがものを言い、かつ一睡もできないかもしれない、という可能性も孕んだ案だ。一瞬不安が心の隅を翳めたが、静をリビングに寝かせるわけにはいかないという使命感にも似た何かから忍足は言葉を紡ぎ出す。
「ほんなら、俺と一緒にベッドで寝るか?」
「えっ」
予期せぬ提案に静の目は大きく見開く。静からしてみれば自分がリビングで寝る以外の選択肢はないと思っていたし、それ以外の選択肢について考えようともしなかった。だから忍足からの提案は目から鱗であったし、純粋に驚いてしまった。
「俺は絶対静のことをリビングで寝かせられんし、折衷案や。ああ、心配せんでも何もせんよ。静とは逆向いて寝るしなるべく端に寄るしな」
「そ……、」
そこまでしてもらわなくても、と言いかけて静は口を噤む。それは自分に対する最大限の気遣いと忍足の決意の証。静が思いを決めるまでキス以上のことをしない、という言葉を頑なに守ろうとする忍足の思いを汲み取り、静は目を伏せる。
恥ずかしい、という思いはあるけれど、忍足の折衷案は二人の言い分の真ん中、言ってしまえばこれ以上の案はない。むしろ、現状考えられる中で最適解とも言える。ここで静がベッドではなく床で寝ると言い出せばまた振り出しとは言わずともそれに近い状態になりかねないのだが、静は「わかりました」と頷く。折衷案であること、そして忍足の何もしないという決意表明を聞いて、それでもリビングで寝るとは言えない。言えるはずがない。それは自分を慮ってのことであると理解しているから。いくら心臓がこれでもかとドキドキしていたとしても、そわそわと落ち着かないとしても、忍足の厚意を無碍にはできないと思ったから、静は首を縦に振ったのだ。
静からの返答に忍足は小さく頷く。わかったよ、と言うように。
「ん。ほんなら先部屋行っててや。戸締まりとか見てくるわ。階段上がって手前の部屋や」
「わ、わかりました」
枕と毛布を持ち、静はゆっくりと、踏み締めるような足取りで階段を昇る。一段上がるたびに鼓動が大きくなるようで。昇り終えて言われた通り手前のドアの前までたどり着く。誰も居ないことはわかっているのに、ノックをしてから入室する。交際を始めてからこれまで一度も入ったことのない忍足の自室。一人っ子の静は他人の部屋に入ることさえも初めての経験だ。
「…………」
枕と毛布を抱きしめて立ち尽くす。部屋の主人がまだ来ていないこともあって何処に居れば正解なのかがわからない。それから間もなくして、背後のドアが開いたかと思えば驚きの声が聞こえてくる。
「うわっ、なんでそないなとこに突っ立っとるん」
「えっ、と……何処にいればいいかわからなくて……」
「あー、せやな……」
そう呟いて、忍足は自室を見回す。
そうやった。何もないんやった。
忍足の自室は基本的に誰かを招いた時の用意――例えばクッションや座布団、座椅子の類がない。そもそも招いたとしてもメンバーがテニス部の面々か従兄弟の謙也という所謂身内くらいなのだから、皆フローリングに直座りしてしまうし部屋で過ごす時間なんてそれほどない。
なので静が初めてのお客さんと言っても過言ではない。流石の静もベッドに座って待つということの危うさはなんとなくわかっていた。
「せや、静って寝相エエ方?」
「寝相、ですか?」
忍足の問いかけに静は首を傾げる。自分の寝相について改めて考えることがなかったが、はてどうだろう? と静は朝の様子を思い出す。
「悪くはないと思いますけど……」
どうしてそんなことを訊くのか? と視線で問いかけてみると、忍足から答えが返ってくる。
「いやな、寝相悪くてベッドから落ちるんやったら静を壁側にせなアカンなて思うて」
「そっ、そこまで寝相悪くないです……!」
「冗談や」
ふっと笑って、忍足はベッドに腰掛けると、隣を軽く叩いて静を招く。どうしようか、と一瞬考えて静はその招きに応じることにする。遠慮がちに浅く座れば忍足の右手が静の左手に重なる。ここで一線を超えている男女であれば色っぽい雰囲気にもなったのだろうが、生憎と忍足と静はキス以上のことはまだ未経験だ。なので忍足もそういう雰囲気にならないように、そして自分の中のそういう部分を刺激しないように、ただ静の手に自分の手を重ねるだけに止める。湯上がりとはいえ、やはり真冬の空気はすぐに指先を冷やしてしまう。元々平熱も高い方ではない忍足の指はかなり冷えており、静は一瞬びくつく。
「あ、すまんな。冷たかったな」
「い、いえ……! ちょっとびっくりしただけですので!」
「それにしても静の手は温かくてエエなぁ」
「そうですか?」
「少なくとも俺よりは温かいやろ」
言って、忍足は柔く笑う。静もそれに応え、そうですねとこぼす。それからしばらく、他愛のないことを話しているとあっという間に時間は過ぎていく。部屋の時計が二十三時を回り、静から小さな欠伸が出たところで忍足がそれじゃあ、と静の顔を覗き込む。
「ほんなら、もう寝よか? 明日何も無いとは言えあんま夜更かしするんも良くないやろ」
「はい」
「静、どっちで寝る?」
「えっと、どっちでも大丈夫ですけど……、侑士先輩はどっちがいいとかありますか?」
「せやなぁ、ほんなら俺が壁側で寝よか」
「わかりました」
静が頷いたのを見て、忍足は座っていた体勢から足を持ち上げベッドに乗せる。ずりずりと体を壁間際まで持っていくとそのまま壁の方を向いて寝そべる。静も同様に足をベッドに乗せ、体をベッドに預ける。
確かに忍足は先ほど端に寄ると言っていた。が、流石にあまりにも端に寄りすぎているのではないか、と静は一瞬迷って声をかける。
「あの、侑士先輩? そこまで壁側に寄っていただかなくても……」
「俺のことはエエから」
「さすがにそういうわけには……。侑士先輩のベッドですし」
「万が一っちゅうこともあるやろ? やから、これでエエ」
万が一。
忍足が理性の手綱を握り切れなかった場合。
静の同意を得ずにキス以上のことに及ぼうとしてしまった場合。
帰宅してからのあれこれ。夕飯時のあれそれ。そして仕舞いには同じベッドで寝て、一夜を過ごすのだ。自制心が一瞬でも揺らいだという事実がある以上、この場で取れる対策として忍足には壁に寄る以外ない。静が寝てしまえばリビングに行くこともできるが、それまではこれでやり過ごすほかないのだから。
「……ごめん、なさい」
背中に投げかけられた小さな謝罪。その声に、忍足は心の内でため息を一つ吐き出してからくるりと静の方へ体の向きを変える。まさか忍足が体勢を変えるとは思ってもみなかった静は僅かに目を見張る。
「謝らんでエエよ。静やって、色々あるやろ。待つ言うたんは俺の方なんやから」
「でも、私……」
「焦らんでエエて。静がエエよって言うてくれるまで俺は待つから。やから、静が気にすることなんか何もあらへんよ」
忍足の言葉に、静は表情を曇らせる。自分のせいで忍足に我慢を強いているという状況。けれど、それは自分の心がいまだに二の足を踏んでいる状態で解決できることではないことを静はよく理解している。手を伸ばそうにも伸ばせない。伸ばすことができない状態に静の表情は更に暗くなる。
「そないな顔せんといてや」
忍足が薄く笑う。それを見て、静の大きなブラウンダイヤモンドが潤む。ぼやける視界で見る忍足の表情は困ったような、惑っているような判断がし辛いもので。すぐさま静の背中に忍足の腕が回される。ぎゅっと体が寄せられ、強く抱きしめられる。
「ホンマ、お前は優しいなぁ」
「――っ」
「泣かんといて? 前にも言うたやろ? 俺、お前の涙に弱いねんから」
「ごめ、なさ……っ」
「まぁ、泣くな言われて泣きやめたら世話ないんよな」
その声には諦観のようなものが混じっていて。けれど静はそれに気付かない。ぽんぽん、と小さな子をあやす様に忍足は静の背中を軽く叩いたり摩ったりする。その甲斐あってか、静の涙は次第に止まり呼吸も安定する。ややあって、目元を赤くした静が窺うように忍足を見やれば、優しい笑みが返ってくる。
「落ち着いた?」
「……はい。ありがとう、ございます」
「ん。寝れそ?」
「……多分」
「多分?」
静の自信なさげな声に忍足は苦笑する。
「いえ! 寝れます。大丈夫です」
自分の失言を慌てて修正し、静はぎこちなく笑みを作る。それを見て、忍足の口は静の名前を呼ぶ。
「静」
なんですか、と言い切る前に唇に柔らかな触感。キスをされたとわかる頃には唇は離されていた。
「おやすみのキスや」
静の脳が今起きたことを認識する。そしてそれと同時に頬が一気に染まる。
「――っ!」
「顔、真っ赤やん」
ふは、と笑う忍足に静の頬は更に染まった。

「おやすみ、静」
「おやすみなさい、侑士先輩」
いったい誰が予想できただろうか。
先程までの空気とは打って変わって。穏やかで、和やかで、優しい雰囲気に包まれながら。
二人は向かい合って夢の世界へ旅立ったのであった。