向かう日に葵は笑う

「夕飯の準備があるから謙也これやってきてや。ほんで、すき焼きセット当ててや」
学校が夏休みに入ったことで殆ど毎日部活に勤しんでいる忍足謙也が、午前中の部活を終え、クーラーの効いた部屋で扇風機を回しながら涼んでいた、そんな時だった。母親から、はいと手渡されたのは近所の商店街の福引券。三枚あるから三回引けるで、と言うや否や、母親はすぐに謙也に背中を向けて台所へ行ってしまう。有無も言わさずな態度に、謙也は慌てて立ち上がり母親の後を追って台所へ向かう。
「なんでやねん! 福引とか絶対並ぶやん! 俺並ぶの嫌やねんけど」
「すき焼きセット以外はあんたにあげるわ。なんや知らんけど最新ゲーム機とかも当たるらしいで」
欲しかったんとちゃう?
その一撃は見事に命中する。流石母親と言うべきか、息子の欲しいものを日々の態度だけで当ててみせる。といっても、よく見ていればそれを言い当てるのはさほど難しいことではない。何せ、謙也は言葉や態度に思っていることが出やすいからだ。
「やけど、福引なんてそうそう当たらんやろ」
「そんなん回してみんとわからんやろ? 回す前から決めつけるんはよくないで」
確かにその通りではあるのだが、わざわざまた外に出るのかと思うとなかなか重い腰は上がらない。
「ほな、私が行ってくるから夕飯の準備しといてや」
謙也の手から福引券を取ろうと、母親が手を伸ばす。それよりも先に謙也が手を引いてその手を躱す。
「わかったわ! 行ってくればエエんやろ!」
「最初からそうすればエエのに」
ふふ、と笑う母親の声を背に、謙也は玄関へ向かったのであった。

そして謙也は渋々というよりも嫌々に近い感情を抱きながら、こうして大人しく福引待ちの列に並んでいる。普段から待つことが苦手だと公言していることもあってか、何もせずにただ待つ状況に手持ち無沙汰感が否めず、スマートフォンをしきりに確認したり、人の流れを見てみたりする。けれどいくら暇を潰しても列は少しずつしか進まない。大きくため息を吐き出したい思いに駆られて、我慢する。その代わりに落ちていく気分を上げる意味も込めて、抽選機が置いてあるテーブルの後ろに大きく貼りだされている景品一覧へ視線を向ける。
参加賞、ボックスティッシュ五個組
四等、商店街で利用できる買い物券一千円分
三等、商店街で利用できる買い物券五千円分
二等、遊園地ペアチケット
一等、最新ゲーム機(選択可)
特賞、和牛すき焼き用肉(特上)含むすき焼きセット五人前
参加賞でも、通常の福引よりかは比較的豪華と言えるようなラインナップに謙也はふむ、と考える。
オカンからはすき焼きセット当ててこい言われたけど狙うんやったらやっぱ一等がエエな。二等も捨てがたい気がすんのやけど、もし当たっても静ちゃんわざわざこっちに来てもらうんも悪いしなぁ。
そんなことを考えていると、ようやく謙也の順番が回ってくる。福引券を係りの人間に渡し、「三回です」と回せる回数を言われると、謙也は抽選機のレバーを握る。
まず一回目。ガラガラと音を立てて抽選機を回すと白い玉が飛び出してくる。カラン、と一度鐘が鳴る。貼りだされている景品一覧を見ると、白は参加賞の玉であることが確認できる。一回目からお目当ての景品が手に入るなんて謙也も更々思っていない。
気を取り直して二回目。次に出てきた玉も同じく白。参加賞、または四等の玉が他よりも多く入っていることは大体想像がつくし、むしろ比率からいけばその二つが圧倒的に多いだろう。だから二回目も白い玉が出てきたことは何ら不思議なことではないし、当然とも言える。
あと一回。これが最後のチャンス。謙也は瞼を閉ざし一つ息を吐き出す。欲を出せば良いものは引けないだろう、となるべく無心を心掛け、抽選機を回す。ポトリ、と玉が飛び出た音を確認した後恐る恐る瞼を開ける。そして、そこにあった色を確認し――大きく息を吐き出した。
三回目。最後のチャンスで回した抽選機が吐き出した玉の色は、緑だった。係りの人間が鐘を持ち、三回振って鳴らす。景品一覧を見れば、緑は三等、買い物券五千円分の色だ。母親からはすき焼きセット以外は貰っていいとは言われているし、小遣いでやりくりをしている学生からしてみれば五千円はかなりの大金であるのだが、この商店街にある店舗でしか使えないというのは、なかなかに使い勝手が悪い。商店街には母親からのお使いや荷物持ちくらいでしか訪れない謙也にしてみれば、貰ったところでという話になってしまうのだ。
けれど、当たったものはしょうがない、と謙也はボックスティッシュ五個組を二つと買い物券が入った封筒を受け取り、列から外れる。
丁度良く店休日でシャッターが閉まっていた店舗に、謙也はゆっくりと背中を預ける。持って帰るときに多少嵩張るのが気になるところではあるが、ティッシュであれば備蓄はいくらあっても構わないだろう。むしろ母親からは喜ばれるかもしれない。問題は――、
「これ、どないしよ……」
貰った封筒を眺め、謙也はどうにもしがたい感情と一緒に息を吐き出す。使い道のないものは持っていたところで仕方がない。いっそのことこれも母親に渡してしまおうか、それがいいのかもしれない、と自分の中で結論が出たところで、封筒をズボンのポケットにしまう。ボックスティッシュを両手に持ち、さあ帰ろうかと預けていた背中をシャッターから離す。抽選会場に背を向けて、謙也は家路につくべく歩き出す。
あの抽選機の中には五百個近くの玉が入っていたのだが、実はその殆ど――数にして四百八十個が四等と参加賞の玉だったのだ。なので三等を当てた謙也の運もかなりのものということになるのだが、惜しむらくは目標を高く設定したためにその引きの強さをいまいち実感できていないことだ。
「そういやオカン、今日の晩飯なんや言うてたっけ?」
独り言は誰に拾われるでもなく、静かに落ちていく。夕方とはいえ、まだ季節は夏の盛りだ。歩くだけでもじわりと額に汗が滲む。しかも今日は無風で尚更暑さを感じてしまう。
「家帰ったらまずはシャワーやな……」
「あれ? ケンヤ?」
いつの間にか暑さで項垂れていた頭を起こし、謙也は声のする方へ視線を送る。と、同じ四天宝寺高等学校男子テニス部に所属している白石蔵ノ介の姿が目に入る。
「白石? なんでこないなとこに居るん?」
謙也の疑問は尤もで。白石が謙也に声をかけた場所は、普段なら白石が通らない道で、かつ謙也の商店街から自宅までの最短ルートだからだ。何かしら用事があって通りかかったのだろうが、本来ならばここで会うはずのない白石に偶然遭遇したことに謙也は驚きを隠せない。
「ケンヤに用があったんや。まさかこないなとこで会うとは思わんかったわ」
「俺に? わざわざ来んでも明日の部活ん時じゃアカンかったの?」
「善は急げ、言うやろ」
「おん?」
白石が作る笑みに、謙也は首を傾げる。白石の笑みの正体が掴めないというのもあるし、明日も部活で顔を合わせるというのにわざわざ今日、自分を訪ねてくる理由もわからなかったからだ。善は急げ、とは言うがそんなに急がなくてはいけないような用件なのだろうか。
「ケンヤ、これあげるわ」
そう言って白石が謙也に向けて差し出したのは白い封筒だ。宛名も書いていなければ封もされていない。中身が入っているかもわからないそれを、謙也は首の角度を深くしながら受け取る。流石に中身が入っていないわけはないとは思うが、それにしたって白石から何の説明もなく手渡された封筒を、謙也はじっと見つめる。
「何や? これ」
「中身見てみ」
白石に促されるまま、謙也は封筒の口を開け、中身を確認する。そこにはカードサイズの紙が二枚入っている。なんだろうか、とそれを引っ張り出して、その正体を確かめると謙也は慌てて白石へ視線を上げる。
「えっ、白石、これ……」
「さっきな、商店街の福引で当たったんや」
にかり、と白い歯を見せて白石が笑う。そして謙也は驚きのあまり言葉が出てこない。
謙也が手にしているカードサイズの紙の正体は、謙也が先ほど引いた福引の景品になっていたもの。そして、一度は当たればいいなと願ったもの。
「広瀬さん誘って行ったらエエんちゃう?」
それは遊園地のペアチケットだった。
しかも、謙也はてっきりそれは近所にある小規模遊園地のものかと思っていた。しかし、券面をよく見てみれば、日本有数の大規模遊園地のもので、日程こそ決まっているものの開園から閉園まで遊べる、所謂一日券だ。
「こんなごっついもん、貰えるわけないやろ! ちゅーか白石が自分で行ったらエエんちゃう?」
「誰誘え言うねん。ペアチケットなんやぞ」
「金ちゃんとか好きそうやん」
「絶対迷子センターに行く未来が見えるわ」
白石の乾いた笑いに、謙也もせやなとしか返せない。
「それにこういうんは恋人同士で行くんが正解やろ?」
「そうなんかもしれんけど」
「貰うんが嫌なら、交換でどうや?」
「交換?」
白石の提案に謙也は復唱する。遊園地のペアチケットと交換できるような価値のある物――、と考えたところでいっこうに思いつかない。しかも謙也は福引だけを目当てに家を出たものだから何かあった時のために、とスマートフォンは携帯しているが、財布は持って来ていない。手持ちである物といえば、福引で当てたボックスティッシュと買い物券だけ。どちらも不等価であるのは誰が見てもわかる。わかってはいるが、とりあえずダメ元で謙也はおずおずと続ける。
「俺、今交換できるようなもんティッシュと商店街で使える買い物券だけなんやけど……」
「別に今すぐ欲しいってわけやないねん。ちゅうか、無理やしな」
白石の言葉に謙也は疑問符をいくつも頭の上に浮かべる。今すぐ欲しいものではない、とはどういうことだろうか。時間を置かなければならない要求なのか、それとも高校生の時分では到底手に入れることが叶わないものなのだろうか。色々、思い浮かぶものの、どれもこれだという決め手には欠けてしまう。
「写真撮ってきてや」
「写真?」
白石の意外な要求に、謙也は三度首を傾げる。何故白石が写真を撮ることが高価な遊園地ペアチケットと等価に値すると考えているのかがわからないからだ。
「正確にはケンヤと広瀬さんのツーショットやな」
「そんくらいなら……は?」
うっかり承諾しかけて謙也は白石の要求を今一度頭の中で復唱する。
写真を撮ってきてほしい。謙也と静のツーショットで。
「なんで!?」
「え? アカン?」
謙也の叫びに白石は目を丸くする。
「アカンも何も、それが交換の条件なら呑まんわけにはいかんのやけど……、白石それマジで言うとんの?」
「マジやけど」
白石の真っ直ぐ、真剣な視線に謙也はそれが正しく本心であることを察する。謙也からしてみれば破格の交換条件だ。しかも静とのツーショット写真なんて、謙也にも利があるのだから実質これは条件にすらなっていない。謙也ばかりが得をしている。
「無理にとは言わんけど。元々ケンヤにあげるつもりやったしな」
「や、それはちゃんと筋通さなアカンやろ。ちゅーか、俺はエエけど静ちゃんがどうだかはわからんのやけど」
「ほんなら、広瀬さん次第でエエよ。難しかったら適当にお土産買うてきてくれればエエし」
「おん。お土産は絶対買うてくるわ」
「楽しみにしとくわ」
ほな、と白石は踵を返し歩き出す。
「白石、おおきに!」
謙也がその背中に向けて感謝の意をぶつけると、白石は左手をひらひらと振って曲がり角を折れて行った。

「ええっと……ここでいいのかな?」
八月最後の日曜日。謙也の彼女であり、氷帝学園高等部に通う広瀬静の姿は東京ではなく、大阪に在った。
何度か大阪には訪れたことのある静ではあるが、一人で来ることはこれが初めてのことである。前までは何かと理由を付けて謙也の従兄弟である侑士が一緒にくっ付いてきたものだが、生憎今回は予定が合わず「謙也によろしゅう伝えといて」と言伝を頼まれた次第である。
スマートフォンの乗り換え案内アプリを駆使し、土地勘のない状態でそれを頼りに何度か電車の乗り換えを行い、指定された場所へ辿り着くのは至難の業だ。途中駅構内で迷いそうになりつつも、それでもなんとか辿り着いたのだが――、静は本当にここが指定された場所なのか自分の目を疑ってしまう。
なにせ、静がいま立っている場所は見上げるほど大きく高い遊園地のオフィシャルホテルの前だ。
何故、静がこのような場所にいるのか。事の起こりは一週間前、謙也が白石から遊園地のペアチケットを貰った日まで遡る。
その日、静は夏季休暇中数日ある登校日で、学校に登校していた。午前中のホームルームを終えるとクラスメイトと宿題の進捗具合を確認し、部活動がない生徒はそのまま下校する。だが、静は男子テニス部部長の跡部景吾の進言によりマネージャーとして共に部活動に勤しんでいる。そのため、昼食を挟んだ後は着替えを済ませテニスコートへ向かう。そのまま夕方まで活動し、最終下校を知らせるチャイムが鳴る頃、跡部の号令によってその日の部活動は終了した。
基準服へ着替え、校門を出ようかというところでスマートフォンが連続で振動する。この振動は着信だろうか、と静が鞄の中からスマートフォンを取り出し画面を確認すると、そこには謙也さんの文字が表示されていた。普段は互いの都合のいい時に返信ができるメッセージアプリでのやりとりが多く、電話をかけることもかかってくることも殆どない。どうしたのだろうか、もしや電話で話さなければならない緊急性のある用件なのだろうか、と静が画面をタップし受話口を右耳へ当てる。
「もしもし?」
「もしもし! 静ちゃん、八日後予定空いとる?」
「え? え?」
開口一番用件を言われるなんて想定していなかったため、謙也の早口気味な一言目に静は目を白黒とさせる。静のあたふたとした雰囲気が電話越しでも伝わってきたのか、受話口からは「すまん!」と詫びる声が聞こえてくる。
「えっと、八日後の予定……ですよね?」
「おん」
謙也の第一声を思い出しながら、静は頭の中でスケジュールを確認する。八日後、つまり次の月曜日は確か部活は休みのはずだ。そして家の用事も入っていなかったはず。それを確信して、静は言葉を紡いでいく。
「部活はお休みなので一日空いてます」
「そっか! あんな、白石から遊園地のペアチケット貰うたんや。静ちゃんがよければでエエし、無理にとは言わんのやけど、一緒に行かへん? ただな、その遊園地、こっちにあんねん……」
謙也の言わんとしていることを察し、静は僅かに苦笑する。
謙也も静も高校に上がり、小遣いも中学生の時よりかは上がったとはいえ、まだ気軽に遠出をできるほどの余裕はない。交通費をなるべくかけないようにできる限り安い移動手段を探したり、買い食いを少し我慢してその分を旅費貯金に回したりしてやりくりをしている。そのため、謙也が東京に来ることも逆に静が大阪へ行くことも年に二度、多くて三度が限界だ。だから、謙也が言い淀むのも仕方のないことで。
いくら安い移動手段を探したところで往復でかなりの金額が飛んでいく。しかも謙也ならば夜行バスを利用することも手段の一つとして入れられるが、静は自分が良くても周りが絶対反対するため新幹線か飛行機での移動になってしまう。
ましてや謙也が誘っているのは遊園地だ。中に入り、アトラクションを楽しむまではチケットがあれば可能だが、飲食や土産物などは別途自分の財布から賄わなければならない。流石に飲まず食わずで一日遊ぶというのは現実的ではないし、行ったら行ったで土産物は絶対買いたいという話になる。
アルバイトが出来れば多少なりともまとまった金額が手に入るが、生憎二人とも部活動に忙しくそんな時間はない。
交通費だけでも馬鹿にならないのに、それに加えて飲食代と土産物代のことを考えると、いつものデート以上に出費が嵩むことは明らかで、謙也も無理には誘えない。
静も謙也のそんな気持ちを理解している。自分が謙也の立場であったなら同じことを考え、伝えるということも想像できる。その上で静は行きたい、と思った。だからそれを素直に口にする。
「行きたいです」
「え? ホンマ?」
前回は謙也が東京に来た。ならば、次は自分の番だというのは静も考えていた。どのタイミングで行こうかと思っていた矢先に謙也からの誘いだ。交通費云々の問題はあるとはいえ、断る理由は静の中には存在しない。
「ホンマ? 無理せんでエエねんで?」
受話口から聞こえる声は、本当に大丈夫なのか、と問うてくる。大丈夫ですよ、と静が言う前に左肩を軽く叩かれる。
「えっ?」
驚いて振り返ると、侑士が電話を代われとジェスチャーしているのが視界に入る。どうしようかと、一瞬悩んだものの、静はスマートフォンを侑士に手渡す。渡した途端、何やら場が賑やかになる。――主に受話口から聞こえる謙也の声が、だが。
流石に侑士にスマートフォンを預けてしまっている為、帰るに帰れず、静は端に寄り従兄弟同士のやりとりが終わるのを大人しく待つ。
「広瀬、そんなところで何をやってやがるんだ?」
侑士から視線を外すと、今度は片眉を吊り上げた跡部が腕を組んでいるのが見える。
「跡部先輩」
何をやっているのか、と問われたところで静も今の状況をうまく説明できる自信はない。けれど、返答を待たれている以上、答えないわけにはいかない。どうにかこれまでのあらましを伝えると、跡部はなるほどなと納得し、次に侑士に向けて右手を伸ばす。
「忍足、貸せ」
侑士が一度静を見やり、静が軽く頷く。それを確認してから、侑士は静のスマートフォンを跡部へと手渡す。
何やら話の展開がどんどん自分から離れていきそうになって、静は若干不安を覚える。それが表情に僅かに出ていたのか、侑士は「たぶんエエ方に行くと思うで」と静へ励ましにも似た言葉を送る。
それから数分後、跡部が既に通話が切れた状態のスマートフォンを静へ戻す。
「広瀬、次の日曜日はそのまま大阪へ発てるよう荷物を持って来い」
「え?」
どういうことだろう、と静が首を傾げれば跡部はさも当然だという態度で続ける。
「部活終わりにそのまま大阪へ向けてヘリを飛ばしてやる。ホテルも取ってやるから前日入りして次の日は朝から晩まで楽しんで来い。帰りもこっちのことは気にせずゆっくりでいい」
「え? え?」
跡部にそこまでしてもらう覚えのない静は困惑で頭がいっぱいになる。なんで、どうして、という言葉が浮かぶばかりで言葉になって出てこない。
「お前はいつも休みなく俺たちを支えているんだ。少しくらい休んだ方がいい。リフレッシュしてこい」
「でも、」
「こっちはホンマ気にせんでエエよ。お嬢さんが頑張っとるんは全員わかっとるし、文句言う奴なんか居らんやろ。それに部長の跡部がこう言うとるんやから。な?」
「…………はい。ありがとうございます」
長い沈黙の後、静は深く、それはそれは深く頭を下げた。
そして時は戻り、現在。静は部活終わりにヘリコプターで新大阪駅周辺まで連れていかれ、そこから電車を乗り継ぎ、跡部が指定したオフィシャルホテルの前に佇んでいる。外観から漂う雰囲気に圧されつつあるが、いつまでもこうしていても仕方がない。
せっかく跡部先輩や皆さんに気を遣ってもらったのだし、そのお気遣いを無駄にしちゃだめだよね。
うん、と一人頷いて静は心を決め、止めていた歩みを確かめるかのようにゆっくりとそして確実に進めていく。一歩進むごとに心臓が大きく鳴り、緊張が高まり、自動ドアをくぐると空気が一気に変わる。外観からもそれを感じてはいたものの、やはり中に入りそこで働くスタッフを見ると、ここが一流のホテルであることが理解できる。優雅で、落ち着きがあり、気品さえもある内装に負けず劣らず、所作一つとっても丁寧なスタッフに静は感動する。そもそも跡部が部屋を取る時点で一流以外はあり得ないという話ではあるのだが、こうして実際目にすると格の違いは明らかだ。
静が一人、エントランス付近で目を輝かせていると、それに気づいたスタッフが声をかけてくる。
「お客様、いかがなさいましたか?」
「あっ、え……、と」
「チェックインでございますか?」
静が言葉に詰まっていると、スタッフが優しく言葉の道筋を作る。それにはい、と答えるとスタッフは畏まりましたと頷く。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「広瀬です」
「広瀬様ですね。ご案内いたします」
そう言うと、スタッフは先導するように前を歩いていく。てっきり向かう先はフロントなのかと思い、静もその背中について行ったのだが、スタッフはフロントを通り過ぎてしまう。思わず驚きの声が出そうになったが、変に目立つのもよろしくない上に館内施設に詳しいスタッフが案内をすると言った以上、静はそれについて行くしかない。
「こちらでお手続きをさせていただきます」
ようやくスタッフの足が止まったのは、黒く重厚な扉の前だった。ガチャリとその口が開かれ、中に案内される。室内には革張りのソファとパソコンが置かれたデスクとチェアー、そしてそこに座る別のスタッフの姿がある。
事情を知らない静は頭の上に何個もクエスチョンマークを浮かべることしかできない。
「あの、ここって……」
絞りだした声は存外小さく。スタッフに届いただろうか、と心配になったが静の声はちゃんとスタッフの耳に届けられていたようで、
「ラグジュアリーデスクでございます」
と返答がされる。
「ラグジュアリーデスク?」
聞き慣れない単語に静が首を傾げていると、続けてスタッフが補足説明をする。
「ラグジュアリーフロアにご宿泊のお客様専用の、お手続きをさせていただくお部屋でございます。こちらでおかけになってお待ちください」
言われるがまま静はソファに導かれ、状況が飲み込めず目を白黒とさせていると案内をしてくれたスタッフは部屋で待機していた別のスタッフに静の名前を告げ、退室してしまう。担当している業務が違うのだからそれは当たり前なのだが、一人残された静は心細さと不安と、そして困惑とで座るときに下ろし抱えていたリュックサックをぎゅっと抱きしめる。
「広瀬様、お待たせいたしました」
スタッフのその声に静の顔が跳ね上がる。はいっ、と上擦った声が飛び出て、羞恥から静の頬が染まる。静のそんな様子に、スタッフは微笑み、優しく声をかける。
「失礼いたしました。跡部様より本日から二泊のご予定で伺っております。お部屋は最上階でのご用意でございます」
「二泊……ですか?」
「はい」
聞き間違いではないだろうし、おそらく手違いでもない。帰りもゆっくりでいい、と跡部は言っていたがまさか二泊もするとは思っていなかった静は、跡部の計らいに申し訳なさを感じつつも、帰ったら自分にできる限りのことをしようと心に誓う。
「ご朝食は同じフロアにありますレストランにて、お渡しいたしますチケットをご提示くださいませ。チェックアウトは明後日の十二時でございます。何かございましたらお部屋にあります内線でフロントをお呼び出しください。それではお部屋のご案内をさせていただきたいのですがよろしいでしょうか?」
「あっ、はい! 大丈夫です」
静の了承を得て、スタッフはでは、とデスクに備え付けてあった電話の受話器を取る。二言、三言喋ったかと思えばすぐにドアがノックされる。
「失礼いたします」
ドアを開けて入ってきたのは、静に最初に声をかけ、ここへ案内し、数分前に退出したスタッフだった。数回会話のキャッチボールをした程度で見知ったと言えるほどの仲ではないが、やはり顔を知っている人間との再会は静の心を安堵させる。
入室してきたスタッフは静へ一礼すると、そのまま宿泊手続きをしたスタッフからカードキーが入った封筒を受け取る。そしてくるりと体を九十度回転させて静の方へ体の正面を向ける。
「広瀬様、お部屋へご案内いたします」
その声にはい、と静は立ち上がり、リュックサックを背負い、デスクの向こう側に座るスタッフに頭を下げると、いつの間にか移動し、ドアを支えているスタッフの元へ向かう。
ガチャリ、と重々しい音と共に扉が閉まると、
「お荷物お持ちいたします」
と、スタッフが笑顔と共に静へ向けて手を差し出す。宿泊客の荷物をスタッフが代わりに運ぶような宿泊施設に泊まったことのない静は、何度も瞬きを繰り返す。どうしようか、と数秒悩みこれもこの人のお仕事の一つなのかもしれない、と背負っていたリュックサックを下ろし、お願いしますと浅く頭を下げる。お預かりいたします、とスタッフがリュックサックを両手で抱えると、静を導くように歩き出す。最初にこのホテルに到着した時と同じように、静はスタッフの背中を追いかけ、エレベーターホールへとたどり着く。左右に三基ずつ、計六基のエレベーターが忙しなく動いている様が見てとれる。その内の一基が到着し中に乗り込むと、スタッフが封筒から一枚のカードを取り出し、ボタン下のセンサー部分へとかざす。
「ラグジュアリーフロアへはこちらのエレベーターキーを利用しなければ行けませんので、お気をつけください」
「わかりました」
「広瀬様のご宿泊フロアは最上階、二十八階でございます」
ドアが閉まり、ものの一分もかからず再びドアが開く。こちらです、と案内された部屋はフロアの端にある見るからに他よりも大きな部屋。スタッフが先ほどとは別のカードキーをかざしドアのロックを解除する。中へ案内されると、そこは静の想像以上に広く、落ち着いた雰囲気と高級感が同居したまさしくラグジュアリーという名に相応しい部屋だった。
「先ほどラグジュアリーデスクでもお伝えしましたが、何かございましたらフロントへお電話ください。お荷物はこちらでよろしいでしょうか?」
「あっ、はい! 大丈夫です、ありがとうございます」
荷物をソファに置き、非常口などの案内を終えると、スタッフは「良いご滞在を」と残し、部屋を後にする。
「…………」
一人で利用するにはあまりにも広く、また贅沢な部屋。ソファに座ってみたり、ベッドに腰掛けてみたり、部屋一面の窓から見える景色を見てみたりはするものの、どうにも落ち着かない。どうしたものか、と静が一つ息を吐き出したところでスマートフォンが振動する。画面を見れば跡部先輩の文字。そういえば到着の連絡をしそびれていたことに気付き、静は慌てて画面をタップする。
「もしもし!」
「俺だ」
「お疲れ様です。ご連絡が遅くなってすみません、無事着きました」
「そうか、ならいい。夕食はフロントに電話を入れれば部屋に届ける手筈になっている」
「ありがとうございます……。何から何まですみません……」
「別に大したことじゃない」
部活終わりにヘリコプターを飛ばし、道路の向こう側に遊園地があるオフィシャルホテル――しかも最上階の一番いい部屋を取り、食事の手配までしたことを、跡部はなんて事のないような風に言ってのける。実際、跡部からしてみれば本心からそう言ったまでで、そこに謙遜は一切ない。ただ、当たり前のことを当たり前のようにやっただけで感謝をされるようなことではない。だが、だからといって静が表した感謝の気持ちを無碍にしたいわけではない。
「言っただろう、お前はいつも俺たちを支えてるんだ。明後日までゆっくりしてこい」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあな」
「はい、失礼します」
跡部が目の前にいるわけではないのに、静は丁寧にその場で深く頭を下げる。通話を切り、スマートフォンをベッドに置くと、静は大きく息を吐き出す。
「……ありがとうございます」
もう一度感謝の言葉を呟いて、静はぎゅっと胸の前で両手を握った。

翌朝、朝食を済ませ身支度を整えた静は、謙也との待ち合わせ場所である遊園地の正面ゲート前に、待ち合わせ時間よりも三十分も早く到着していた。緊張していたというのもある。気が急いていたというのもある。しかしそれ以上に久しぶりに謙也に会うことができる事実に、じっとしていられなかったというのが大きい。
夏も終わりが近付いてはいるとはいえ、今日の大阪も雲一つない、太陽が燦々と輝く行楽日和になりそうな気配だ。従って静も半袖の白いフレアブラウスとデニムの七分丈パンツ、そして貴重品とタオルハンカチを入れたショルダーバックを下げた夏の装いだ。きっと動き回るだろうと予測して靴も慣れたスニーカーを履き、髪も一つに纏め、バレッタで留めている。
流石大規模遊園地と言わんばかりに、開園一時間前だというのに既に正面ゲートの前にはそこそこの人間の姿が見える。
それもそのはずだ。旅行会社のプランなどで開園前に入場できる場合を除き、基本的に人気のアトラクションやエリアなどの入場は早い者勝ちで、開園後スタートダッシュを決める、なんてことは当たり前となっている。それを見越して比較的混み辛い別のアトラクションやエリアなどから先に行くというのも常套手段の一つとして考えられる。
一応静も謙也からこの遊園地のことを聞いてから下調べや情報集めをし、ある程度混みやすいところや時間帯を把握はしている。そして嫌いなものは待ち時間と公言している謙也のことを考えるのならば、なるべく並ばずに楽しめるルートを考える必要がある。おそらく人気のアトラクションやエリアも、謙也が好むものばかりであると予想できるが、その場合もシングルライダー制度を使っていけば通常よりかは並ばずに済むはずだ。
色々と考えてはみるものの、ひとまず謙也と合流しなければ何も始まらない。左手首に巻いた腕時計を見れば、待ち合わせ時間の二十分前となっている。
じわりと滲んだ汗をタオルハンカチで拭った、その時。
「静ちゃん!」
名前を呼ばれ、静は弾かれた様に顔をそちらへ向ける。日の光を受けて光る金髪、向日葵色の半袖パーカーの下に白いシャツ、モスグリーンの七分丈カーゴパンツ、貴重品を入れたボディーバッグ、そして無邪気とも言える笑みを見せる謙也の姿をしっかりと視界に入れ込んで、静は溢れそうになった思いをぐっと押し込めて、満開の笑みを咲かせる。
「謙也さん! お久しぶりです」
「久しぶりやな! すまんな、待ったやろ?」
「いいえ、全然。それに謙也さんも待ち合わせ時間には十分すぎるくらい早いですよ?」
「あ、え、せ、せやな!」
謙也も静同様気が急いて、落ち着かなくて、そして何より静に会える喜びで居てもたってもいられず電車を降りるなり持ち前の足の速さで駆けてきたのだが、なんとなくそれを知られることは恥ずかしくて笑ってごまかそうとするが、生憎と静の目はごまかせない。
「今日も暑いですね」
走ってきたことを知られたくないという謙也の思いを汲んで、その点には触れず汗をかいているのは気温のせいという体で、静はバッグからもう一枚タオルハンカチを取り出し謙也に手渡す。
「おおきに」
静から渡された柔らかくどことなく優しい香りのするそれで汗を拭い、返そうとして謙也はその手を引っ込める。
「今日一日借りとってエエ? 洗って返すわ」
そう言われてしまえば静も返却を求めることはせず、どうぞ、と笑みで返答する。
「せや、静ちゃん。ちょっとお願いがあるんやけど」
「なんでしょう?」
謙也のなんて事のない会話の切り出しに、静も特に気にすることなく返す。しかし、謙也の次に発するお願いに静は頭が真っ白になってフリーズしてしまう。
「写真撮りたいんや。ツーショットで」
「…………へ?」
謙也のお願いが静の脳内で反響する。
――写真撮りたいんや。ツーショットで
写真を撮りたいもツーショットも言葉としては拾えている。けれど、それを一つの要求として受け取ろうとすると脳内がバグを起こしたかのように機能しなくなる。ツーショットということは謂わば密着した状態になるわけだ。遠距離恋愛故に、恋人同士がするようなことへの経験値が圧倒的に足りない静からしてみれば、それはかなりハードルが上がってしまう。
「無理にとは言わんのやけど」
完全にショートしてしまった静に、謙也は断る選択肢があることを伝える。
白石との約束もあるし、もしそれが無くとも静との写真は撮りたい。が、それは強制をしたいわけではない。嫌だ、無理だと言われたら大人しく白石への土産を買って行こうという淡い期待を抱きながら、謙也は静の返答を待つ。
何分待っただろうか。否、実際には一分も経っていない。けれど返答を待つ謙也からしてみればその一分も長く感じてしまう。
そしてようやくその時はやってくる。
「わかり、ました……」
頬を染め、視線を落とし、きゅっと唇を結んで静は謙也へ了承の意をこぼす。半ば了承はされないだろうと思っていた謙也からしてみれば朗報以外の何物でもない。瞳を輝かせ、嬉しいという気持ちを押さえもせず、謙也は満面の笑みを浮かべる。
「ホンマ!? エエの!?」
「はい」
「ほんならさっそく一枚撮ってエエ?」
「は、はいっ……」
静が小さく首肯するや否や、謙也は静の肩を抱き自分のスマートフォンを空へ掲げる。カシャ、という機械音の後、ディスプレイには謙也と静が並んで映る写真が残る。手を下ろし、ちゃんと映っているか確認をし、おおきに呟くものの、謙也はそれをポケットにしまうことなくじっとディスプレイを――正確にはツーショット写真を見つめる。
「静ちゃん」
「はっ、はい!」
「これ、後で静ちゃんにも送るんやけど、白石にも送ってエエ?」
「白石さん、ですか?」
予期せぬ名前に、静は首を傾げる。何故ここで白石の名前が出てくるのか、その理由がわからないからだ。
「えっとな、このチケット白石からもろうたって言うたやろ? そんで交換条件でツーショット写真くれっちゅー話でな。もちろん、静ちゃんが嫌や言うならお土産買うてくればエエっちゅーことで話がついとるんやけど」
どうだろうか、と謙也が静の表情を窺えば、静は納得したように頷く。
「それでしたら、はい。送っていただいて大丈夫です。というか、写真だけでいいんですか?」
静も破格の交換条件に首を傾げる。不等価極まりないというのが理解できたからだ。
「俺もそう思うたんやけど、白石はそれでエエ言うとってな。まぁ、お土産は絶対買わなアカンとは思っとるけど」
「そうですね。私もお土産買うので、謙也さん、白石さんにお渡ししてもらってもいいですか?」
「別に静ちゃんはエエやろ」
「いえ、白石さんのおかげで謙也さんとデートできるんですし、私も買うのが道理です!」
ずい、と身を乗り出す静とは対照的に謙也はその勢いに押されるかのように僅かに身を引く。けれどすぐに体勢を戻し、ほんなら、と人差し指を立てる。
「俺も今回めっちゃ世話んなったし、跡部くんへのお土産買うから渡してもろてエエ? ちゅーかお土産だけじゃ足りひんから何かほかにも渡さなアカンよな」
「それこそ謙也さんはいいんじゃないですか?」
「そうもいかんやろ。これは静ちゃんの彼氏としてやらなアカン」
跡部からしてみれば静をヘリで送り、ホテルの部屋を取ることなど些細なことであるが、静や謙也からしてみればかなりの大事だ。それこそ土産一つ持っていくだけでは到底足りないようなことを平気でやっている。
中学生の時分から二人は施されたのであれば返すという一般常識を身に着けている。例えそれが跡部自身が望んでいなくても礼を失することはできない。同等の何かは返せなくても、せめて気持ちだけでも返したいと思うのは当然のこと。
「とりあえずここでお土産買うて、あとは何か大阪の有名なもんでエエかな……」
「そうですね。跡部先輩、多分国外には頻繁に行きますけど国内はあんまり行かないんじゃないかと思います」
「それもそれでごっつい話やけどな」
「ふふ、そうですね」
そんな会話を交わしていると、場外アナウンスが開園十分前を知らせる。そこでようやく静は今日のプランについて謙也に尋ねなければならないことを思い出す。
「謙也さん、今日なんですけど」
「おん? 静ちゃん行きたいエリアとか乗りたい、見たいアトラクションとかある?」
「えっと、そうですね……。色々とありますけど……」
「けど?」
「謙也さん、並ぶの嫌ですよね? だったら空いてるところを見つけてそこに飛び込みで行くのがいいかなって思います。あとはシングルライダーとかも利用すれば人気のところでも結構乗れたりするので楽しめそうですよ」
静の提案に謙也は眉を下げる。何故謙也がそんな表情をするのかわからなくて、静もつられて表情を曇らせる。もしかして知らないうちに何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか、と静は自分の発言を思い返してみるもののこれといったものは見つからない。じゃあ、何故――と静が答えに詰まっていると、謙也の方からそれが示される。
「確かに並ぶんは嫌やけど、こないごっつい遊園地なんて並ぶんが当たり前なんやからそこらへんは弁えとるよ。せっかくのデートなんやから静ちゃんが行きたいとこ行って乗りたいもん乗って見たいもん見ようや」
「え?」
「それに夜まで居るんやから時間めっちゃあるで? 最初っから飛ばしてたら疲れちゃうやろ。やけど、俺のこと考えてくれたんはめっちゃ嬉しいわ。おおきに!」
およそ謙也から聞くには意外も意外な言葉の羅列に静は瞼を瞬かせる。それと同時に、嫌なことを我慢し、許容し、今日一日を過ごそうとしてくれる謙也の思いに胸が締め付けられる。
「ちゅーわけで、静ちゃんの行きたいとこから順繰りに行くで!」
にかり、と太陽を思わせる笑みに静は「はい!」と笑顔の花を咲かせた。

八月最後の月曜日。夏休みも終わりが近づいているからか、それとも平日だからか。来園者は思ったよりも多くはなかった。話題沸騰のエリアや人気のアトラクションの待ち時間が三十分、ないしは長くても一時間弱で入ることができてしまうことからもその少なさは伺える。しかし謙也と静からしてみれば好都合だ。特に静は謙也に我慢をしてもらっているという引け目もあったために、程々の待ち時間で楽しめることは精神的にかなり助かっている。嫌なことを我慢する、というのはしている側は元よりさせてしまっている側も相応のストレスを感じるものだ。それが静のような、常に他人に気を遣うような性格の人間であるならば尚更だ。
「今日も暑いですね」
「せやな……。もう夏も終わりなんやけどな」
午後、日差しが一番強く照りつける頃。日陰に入り、額の汗をタオルハンカチで拭いながら、静は隣を見やる。謙也もかなり暑いのか、パーカーを脱いでバッグのベルト部分に引っ掛けており、シャツを指で摘み前後させて中へ風を送り込んでいるのが見える。
「そういやもうすぐあのショーの時間ちゃう?」
「え? あ、はい! そうですね!」
謙也がズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、事前にダウンロードしておいた遊園地のアプリを立ち上げ、スケジュールを確認する。と、あと十五分ほどで話していたアクション・ショーが開演することが確認できた。現在地からそう離れていないが、席取りの時間を鑑みるとそろそろ炎天下の下歩き出さなければならない。
「ほんなら行こか」
「はい」
「静ちゃんバテとらん?」
「大丈夫ですよ。これでも男子テニス部のマネージャーをやらせてもらってますから中学の時よりかは体力もつきましたし」
それに、と続けて静ははにかむ。
「折角の謙也さんとのデートでバテてなんていられません」
静の放った言葉は弾丸となって謙也の心臓にまっすぐ着弾する。可愛らしい笑みも相まって謙也は胸を押さえたい衝動をなんとか堪える。流石に静の前であるし、不審者扱いをされるのは避けたい。それに急に胸を押さえでもしたら静も驚くであろうし、心配だってするかもしれない。静の可愛さは後で堪能しよう、と心の内で決めて謙也は静の左手を取る。一日の中で最も暑い時間帯で、もしかしたら嫌がられるかもしれない、と一瞬そんな影が差したが静も取られた左手で謙也の右手を握る。
ただ、手を繋いだだけだというのに。傍から見ればただそれだけのことであるのに、謙也の心臓は大きく鼓動する。しかし静同様、遠距離恋愛故に恋人同士がすることへの経験値も耐性もあまりない謙也からしてみれば当然のことで。お互いが初めての恋人というのも相まって、周囲はそんな甘酸っぱい空気に微笑ましいものを見るような視線を向けるが、当然ながら二人は気付いていないのであった。
件のショーは専用の大型アリーナで行われる。映画をモチーフにしたもので、派手な水上スタントアクション、水や炎を使った演出で遊園地の開園当時から人気のあるアクション・ショーだ。
「どこ座ろか?」
謙也はアリーナに入るなり全体を見渡し、そう口にする。席にはまだ余裕があり、好きな席に座ることができそうだった。
「前の方座ったら迫力ありそうやけど、ちょっと後ろの方で全体見るんもエエよなぁ」
「そうですね。どうしましょう?」
「うーん、せやなぁ。折角前の方空いとるんやからそっちにしよか。なんやアナウンス聞いとると濡れるらしいけど、そないずぶ濡れにはならんやろ」
謙也の意見に静も賛成し、二人は並んで前の方の席に着席する。念の為鞄と謙也のパーカーを椅子の下に用意されているビニール袋に入れ、その時が来るのを待つ。
場内アナウンスが流れ、いよいよショーが開幕する。
水上バイクが走り、火柱が上がり、火薬が炸裂し、スタントマンが高所からプールに向けて飛び降りる。まるで映画の世界の中に入り込んだかのような没入感に謙也も、そして静もショーに見入ってしまう。だから、気付けなかった。水上バイクによって立てられた水飛沫で服がびしょ濡れになっていることに。
ショーが閉幕し、場内アナウンスが次回の開始時間を知らせる段になり、ようやく謙也は自分と、そして静の服がびしょ濡れであることに気付き――、
「しっ、静ちゃん! これ羽織ってや!」
慌ててビニール袋から自分のパーカーを取り出し、静へ羽織らせる。謙也の慌てぶりに静が首を傾げていると、「服……」と小さな羽音のような声が聞こえる。そこで静も自分の服がびしょ濡れで、しかも下に着ているキャミソールまで透けて見えてしまっていることに気付く。謙也がパーカーを羽織らせた意味を知ると同時に、申し訳ないという気持ちが湧き出てくる。
「あ、あの、服ならこの気温ですしすぐ乾くと思いますので大丈夫ですよ! 謙也さんのパーカーが濡れちゃいますから、」
だからお返しします、と静の口がそう言葉を紡ぐ前に、謙也の両手が開いている前をぎゅっと寄せる。決して脱がないでほしい、という強い思いがその手に宿っている。
「俺のためや思うて着といてや。あっ、でも濡れた服の上に着るん嫌やったら濡れたの脱いだ方がエエんかな」
「へっ?」
「ここ出たとこに確か手洗いあったはずやからそこ行こか!」
謙也は静の手を取り、足早にアリーナを出る。一番近くにあった手洗い場に静を押し込むと、壁に背中を預けて大きく息を吐き出した。
「危なかったわ……」
ドキドキと大きく鳴る心臓。決して暑さのせいだけではない顔の赤み。静の前では何とかごまかせていたが、謙也の心の内はパニック寸前だった。
謙也は男兄弟だ。身近にいる女性といえば母親くらいで、同年代の女子と接する機会は学校生活以外ない。しかもその学校生活ですら女子の服が水で透けるなんてハプニングはそうそう起こらない。それが今日、よりにもよって彼女である静に起きてしまった。そして濡れて透けた服というのはどこに視線をやればいいのかわからない。自然と透けた箇所へ目が行きそうになったのをなんとか逸らしてすぐさまパーカーを羽織らせたことは謙也にとってファインプレー以外の何物でもない。
もう一度息を吐き出したところで、静が着替えを済ませ手洗い場から出てくる。濡れた服はバッグの中にしまったのか手ぶらだ。
「すみません、お待たせしました」
そう言われ、謙也が視線を移すと、パーカーのチャックを上まで閉め、視線をあちこちへやる静の姿が目に飛び込んでくる。どうして視線が定まらないのかわからない謙也は僅かに首を傾げる。
「どないしたん? あ、もしかして俺のパーカー汗臭かった!?」
「いえっ、そんなことはないです! むしろ、その……」
静は一度目線を下げ、きゅっと唇を嚙みしめる。普段の静は純粋であるが故に顔や態度に出やすいところはあるが、それでも言い淀むことなど殆どない。その静が言い辛そうに視線を落とし、言葉に詰まっている。かなり言い難いことなのだろうか、と謙也は身を固くする。ややあって、静はようやくその口を開く。
「謙也さんの匂いがして……、その……、抱きしめられてるみたいだぁって、思いまして……」
耳まで真っ赤に染め、静は今夏一番の爆弾を落とす。その一撃で、とうとう謙也はその場に蹲るのであった。

「楽しい時間はあっちゅーま、やなぁ」
ベンチに腰掛け、土産物の袋を隣に置きながら謙也はボソリとこぼす。静はまだ土産を選んでおりショップの中だ。
パーカーの一件はなんとか持ち直したものの、まさか静からあんな大きくて破壊力が強い爆弾を落とされるとは思ってもみなかった。未だに思い出しては心拍数が上昇するのだから謙也も大概初心である。
スマートフォンを取り出し時間を確認する。そろそろ閉園時間ということもあり、視界に入る人の数もまばらだ。
今日が終われば、謙也はまた明日から四天宝寺高等学校男子テニス部の部員として、静は明後日から氷帝学園高等部男子テニス部のマネージャーとして日々を忙しなく過ごしていく。それが嫌というわけではない。謙也も、そして静も自分がやりたいからその道を選んだのだ。今日を惜しむ気持ちはあれど、だからといって今日がこのままずっと続けばいい――、とは思っていない。
遠距離恋愛をしている二人は会えない時間が長い。が、それは会えた時に寂しさを嬉しさで塗り替えよう。会えなかった分、会えた時にたくさん話そう。隙間を埋めよう。そう、思っている。また我慢が続くけれど、今日のこの楽しい思い出があれば大丈夫だ。
次はいつ会えるだろうか、なんて考えていると、静がショップから大きな袋を持って出てくるのが見える。謙也は立ち上がり、静を迎える。
「ぎょうさん買うたなぁ」
「そうですね。両親とテニス部の皆さんの分とそれとは別に跡部先輩の分と白石さんの分、あと向日先輩の分なので結構な量になっちゃいました」
「なんで向日?」
「今日ここに行くって行ったらお土産よろしくって言われちゃったので」
「なんやそんなパターン前にもあったな?」
「ふふ、そうですね」
「あ、持つで。それ貸してや」
そう言うと、謙也は静の手から袋を抜き取る。あっという間の出来事に静は目を丸くすることしかできない。そして数秒遅れて「いえ、あの!」と慌てた声が出る。
「私の荷物なので謙也さんに持っていただくわけにはいきません!」
「たまには甘えてくれてエエねんで?」
「謙也さんだってお疲れでしょうし、さすがに荷物持ちなんてさせられません!」
ずい、と身を乗り出す静に、今度は謙也も一歩も引かない。
「エエて。ちゅーかそんな重ないしな」
「でも!」
「ほんならゲート出たら返すわ。それでエエやろ?」
そう言われてしまえば静もそれ以上は食い下がれない。謙也はさて、と続ける。
「そろそろ閉園時間やから帰ろか。静ちゃんは目の前のホテルなんやっけ?」
「あ、はい。跡部先輩が取ってくださいました」
「しかも最上階言うてたな? 相変わらず跡部くんはごっついな」
「そうですね……。あんなに広いお部屋に泊まるの初めてなのですごく落ち着かないです。でも、色々とお気遣いいただいて申し訳ないです」
「そんくらい跡部くんは静ちゃんに感謝しとるっちゅーことやろ」
会話をしながら足も動かしていく。空の光とは違う、人工的で眩しいくらいのライトで照らされた入退場ゲートまでの道のりを、名残惜しさを振り払いながら歩いていく。一歩、そしてまた一歩。進むごとに今日一日の楽しかったことが心のうちに積み上がっていく。過去になってしまうのが惜しいと思いつつも、二人は未来への道を歩くほかない。
ゲートを出た直後、静が足を止める。どうかしたのだろうか、と謙也も足を止め、振り返る。
「謙也さん」
「おん?」
「お写真、撮ってもいいですか? その……二人で」
控えめで、小さなお願い。聞こうという意識を持っていなければ聞き逃してしまいそうなほど、その声は微かだった。静の表情は僅かに不安の色が入り込んでいる。それを払拭するように謙也はにかりと白い歯を見せる。
「エエよ! 撮ろ!」
静はその太陽にも似た明るい笑顔に口元を緩ませる。
「ありがとうございます」
礼を述べて、静がバッグから自分のスマートフォンを取り出す。その間に謙也は静の隣まで距離を詰めておく。夜空に向けてスマートフォンを伸ばすものの、静の身長ではなかなかどうして二人が綺麗に画面に入りきらない。謙也との身長差を考えればそれは致し方のないところではあるのだが、撮っていいかと訊いた手前、自分で撮らねばと静は背伸びをして腕をプルプルとさせる。
「うぅ……!」
「貸してや」
可愛い彼女の可愛い姿に微笑みながら、謙也は静の手からスマートフォンを取り、代わりにシャッターを切る。カシャリ、という機械音。ディスプレイに映るのは優しい笑みを浮かべ、静の肩を抱く謙也と、向日葵色のパーカーを着用し、僅かに頬を染める静。今この時の幸せを切り取ったかのような、けれどどこにでもあるようなひと時を映し出したかのような、そんな一枚。
謙也からスマートフォンを受け取り、静は今一度確認する。ブレてもいないし逆光にもなっていない。綺麗な写真だった。
「ありがとうございます。後で謙也さんにも送りますね」
「ん。おおきに。ほんならホテルまで送るわ」
送ると言っても道路一本挟んだ向こう側なのだが、明日になればまた離れ離れ。ならば、今日が終わるまでは。静がホテルに入るのを見届けるまでは一緒に居たい。そんな謙也の心情を汲み取り、また自分もそうであることから静も「はい」と小さく頷く。
あと少し。
もう少しだけ。
そう願いながら、二人は信号が青になるのを並んで待った。