カケラを探して2


愛おしさがこみ上げる
桜のつぼみがようやく大きくなりだしたころ。氷帝学園中等部の卒業式がある。といっても殆どの生徒がそのまま高等部へと進学するから公立中学校程の寂しさもなければ悲しさもない。言ってしまえば、会おうと思えば会える状況、なのだ。
けれどそれは同学年であればの話だ。後輩であり恋人でもある静と会う場合はそうはいかない。今までなら同じ校舎内で示し合わせれば会えたけれど、次からは校舎を跨がなければならない。膨大な敷地に建つ氷帝学園は校舎内を移動することでさえ時間を取られる。その上校舎を跨ぐとなれば、更に時間がかかることは目に見えている。そうなると昼休みか放課後部活が終わってからの帰り道くらいしか会うことは叶わない。そう考えるとたった一年、されど一年。この差はとても大きく感じた。今まで比較的簡単に会えていたのに今度からは会うことすらなかなか難しくなってしまう。
クラスメイトの大半が高等部に行ったらどうする、などと話している横で俺は視線をあちらこちらへとやり、そして見つける、栗色の髪。見つけた途端足が動いていた。
「静!」
「……!」
背中にかかる声に驚いたのか、静の肩がびくりと跳ね上がる。そしてゆっくりと彼女の体がこちらへ向けられる。
「侑士先輩、どうかしたんですか?」
大きくそして光り輝くブラウンの瞳は真っ直ぐに俺を見つめる。いつでも静は俺に真っすぐな視線を向けてくれて――それが嬉しくて堪らない。緩みそうになる頬を引き締めて本題に入る。
「静、これ」
そう言って、俺はあらかじめ外しておいたネクタイを静に向けて差し出す。それを見て、意図を汲み切れていない静は浅く首を傾げる。
「? ネクタイ、ですか?」
「卒業の記念にもらってくれへんか?」
学ランであったなら第二ボタンを渡したかったところだけれど、生憎と氷帝学園の制服、もとい基準服はブレザーだ。ブレザーでもボタンはあるにはある。けれどあれは確か心臓に一番近いボタン、即ち学ランで言うところの第二ボタンをもらうからいいのであって、ブレザーのボタンではその意味合いは遠くなってしまう。
だから、氷帝の制服の中で一番心臓の近くにあるネクタイを渡すことで第二ボタンを渡すときのような意味を与えられたらいいと思った。だけどこれは俺の勝手な思いであり、言ってしまえば押しつけにも等しい。勿論静には拒むことも考えてくれていいと思っている。いらないならいらないと言ってくれていいし、そこで変に気を遣って欲しくはない。
けれど、俺の女々しい考えを一蹴するかのように、静は俺の手からネクタイを受け取る。
「ありがとうございます」
まるで大切なものを手に入れたときのように、静はそれを胸の前で握りしめて、柔らかく笑みを作る。
「実はこういう、ネクタイとかボタンとかを好きな人からいただくの、憧れだったんです」
「……!」
静の口から出た好きな人というワードに自然と口元が緩みそうになる。けれどここで思うままに表情を変えてしまうのはなんとなく自分の中で憚られてしまい、結局薄く笑うことで決着とした。
「まあ、喜んでもらえて何よりや」
「はい! 新学期からは侑士先輩のネクタイつけていきますね」
最後の最後で大きな爆弾を喰らい、遂に俺は顔を伏せることしかできなかった。


独りぼっちは寂しい
「忍足さん」
「なんや、日吉」
ちょうど基準服に着替え終わってロッカーの扉を閉めたまさにそのタイミングで、日吉が何やら言いにくそうな雰囲気を出しながら声をかけてくる。その態度や歯切れの悪さからよっぽどのことなのだ、と察する。けれど日吉が言いにくいことなんて果たしてあるのだろうかと考えてしまう。日吉の性格からして、言いたいことは割とはっきり言うタイプだし――それはあの跡部に対してもそうなのだから、特別俺に対して遠慮するということもないだろう。じゃあいったいどうして? どんな用件が? 変に気構えしそうになりながら日吉の言葉を待つ。そして控えめに出てきたそれは予想に反するものだった。
「あの、広瀬なんですけど……」
まさか日吉の口から彼女の名前が出てくるとは思わなくて眉間に一本皺が寄る。俺の表情の変化に気付いたのか、日吉も次が出てこない。しまった、と急いで笑みを作る。
「静ちゃんがどうかしたんか?」
なるべく心に平穏を保ちながら問いかけてみると、日吉は一つ息を吐き出して用件を伝えてくる。
「今日、広瀬が体調不良で休みだったんですけど、担任からプリントを持っていくよう言われて」
「そう、なんか」
携帯に静ちゃんからそのような連絡はなかった。おそらく彼女のことだから俺に心配をかけさせまいとして連絡してこなかったのだろう、というのは容易に想像できる。だけど。
……だけど、
「一言連絡くれてもエエのになぁ」
ぼそりとこぼしたそれは小さすぎたためなのか、幸いにも日吉の耳に届くことはなかったようで、わずかに首を傾げながら日吉はさらに続ける。
「それで、その……俺が行くより忍足さんが行った方がいいんじゃないかと思いまして」
「日吉が頼まれたんやろ? なら自分が行ったらエエんやないの?」
「それはそうなのかもしれないですけど、忍足さん、広瀬と付き合ってるじゃないですか」
「まあ」
特別公言しているわけではないけれど、レギュラー陣には軒並みその事実を知られている。それは岳人が「侑士が言わないなら俺が言う!」と何故だか当人たちよりも張り切って言いまわっているから、らしいのだけれども。俺も静ちゃんもそんな公言するタイプではないし、なるべくなら騒ぎ立てずに静かに付き合っていたい。そんなスタンスの俺たちに対して岳人からは「広瀬に変な虫がくっついたらどうすんだよ! こういうのは牽制? っていうのしとかなくちゃだめだろ!」とまっとうなことを言われているが、まあ今はその話は置いておく。
「さすがに他人の彼女の家に、担任から言われたからといってほいほい行けるほど俺も無神経じゃないので」
「日吉、自分のそういうとこエエと思うで」
「それは褒められてるんですか?」
「当たり前やろ」
笑みを見せれば、日吉は胡散臭そうと言いたげな表情を作る。その表情が妙に様になっていて笑いそうになるのを堪える。
純粋に受け取ってくれてエエのになぁ。
まあ、それも日頃の行いのせいだとでも思っておこう。
「それで、行ってもらってもいいですか?」
「まあ、そう言われたら断れんしなぁ」
「それじゃあ、これ。お願いします」
クリアファイルに入れられたプリントを受け取って、折れないようにそっとカバンにしまう。それを見届けると、日吉は「お疲れ様です」とさっさと部室を後にする。その背中にお疲れさん、と言い切る前にドアが閉められる。
頼まれたもんはしゃーないし、それに静ちゃんの体調不良が気にならないと言ったら嘘になる。
ちゅうかめっちゃ心配なんやけど。
「どうしてあの子は大事なことを言ってくれへんのや……」
ぼそりと零した独り言は誰に拾われるでもなく溶けていった。

インターフォンを一押し。電子音が鳴り響く。けれど待てど暮らせど一向に応答がない。数秒待ってからもう一度ボタンを押し込む。今度は一分ほど待つと、玄関の鍵が開錠される。ゆっくり開かれるドアから顔をのぞかせたのは明らかに顔色の悪い静ちゃんだった。
「……はい……、どちらさまで……侑士、先輩?」
「こんばんは、静ちゃん」
まさかの訪問者に彼女の瞳がわずかに見開く。けれどそれも一瞬のこと。すぐさまいつもの笑みを貼り付けて静ちゃんは俺を歓迎してくれる。
「こ、こんばんは……。今日はどうかされましたか?」
無理をしているというのが一目でわかってしまって胸が苦しくなる。俺の前で虚勢を張らなくたっていいのに……、ともう少しで口から出てしまいそうになったそれを何とか飲み込んで緩く笑みを見せる。
「日吉からプリントを届けるよう頼まれてなぁ。ほい、これ」
言って、カバンからクリアファイルを取り出して静ちゃんに向けて差し出す。それを力のない手で受け取って、一度それへ視線を落としてから彼女は礼を述べる。
「ありがとうございます。でも、どうして日吉くんじゃなくて侑士先輩が……?」
「それはまあ、あいつも色々と気を遣うたんやろな」
「そう、なんですか?」
「まあ、細かいことはエエから、はよ休みや。俺ももう帰るし」
「……、ぁ……」
咄嗟に伸ばされた手は弱く、緩く、俺の服の裾を掴む。縋るように、引き留めるかのようなその行為に引きかけた足を咄嗟に戻してしまう。
……そういう可愛え仕草どこで覚えてくるんや。
大きくため息を吐き出したくなるのを必死に堪えて、服を掴む静ちゃんの手を優しく包む。
「あの……、」
「エエ子やからもう休み。辛いんやろ?」
ふわふわと静ちゃんの頭を撫でて微笑みを見せれば、彼女から返ってくるのはどこか寂しさの含まれる声と表情だった。
「今、親がいなくて……」
いや、それ男に――しかも恋人に対して言っちゃアカンやつやん? 絶対如何わしい方に思考が持ってかれるやん。
一瞬で駆け巡るよからぬ思考を振り払って、静ちゃんの真意を探る。おそらく――、
「体調悪くてしんどくてそれに加えて家に一人でおって、寂しいんはわかるんやけど、男にそないなこと言っちゃアカンよ」
な? と諭すように言えば、静ちゃんはぐっと押し黙る。ちゃんとわかってくれたのか、裾を掴んでいた手が緩められる。するりと離された手は力なくふらふらと揺れる。
「…………」
俯く静ちゃんの表情はよく見えないけれど、なんとなくだけどどんな顔をしているかわかってしまう。
しんどい。
寂しい。
辛い。
それに加えて恋人からも一緒にいることを拒まれて――。
一度発してしまった言葉は戻ることはない。けれど、覆すことはできる。
舌の根も乾かぬうちに、とは思うけれど。
俺の理性が持つかどうかはわからないけれど。
だけど。
だけど、恋人が――大好きな女の子が俺の存在を求めてくれているならば、できる限りそれに応えたいと思うのは自然なことで。
気付けば俺の口はぼそり、と言葉を零していた。
「親御さんが帰ってくるまでなら、」
「……え?」
「親御さんが帰ってくるまでなら一緒におるよ」
未だに所在なさげな静ちゃんの手を取って、両手で包み込む。ゆっくりと彼女の顔が上がって、揺れる瞳が俺の顔をじっと見つめる。先ほど一緒にはいられないと言ったばかりだからか、真偽を確かめているのかもしれない。
そりゃ、まあ……当然の反応やよな。
だから静ちゃんから零されたそれは至極当然のもので。
「いいん、ですか?」
「エエよ」
間髪入れずに承諾する。迷いなんてない、と伝えるために。
「ありがとう……ございます」
今にも泣きそうな顔を見てしまってはこれ以上言葉を紡ごうとは思えなかった。お邪魔するで、と一応静ちゃんに許可を取って一歩前へ進み出る。
ガチャリと閉まるドアとともに俺の理性との戦いも始まったのであった。


それを世間では余計なお世話と言う
これは、いったい何……いや、どういう状況なのだろうか。
≪侑士先輩≫≪歌って≫
そう書かれた団扇を持った静ちゃんは、それはもう楽しそうに、にこにこと笑って俺にこれでもかというほど視線を向けてくる。何を期待しているのか、まあそれは団扇を見ればわかることではあるけれど、じゃあどうしたものかと悩ませるには十分すぎるもので。
「…………」
「だ、だめですか?」
俺がいつまでも黙りこくっているものだから、心配になったのか静ちゃんは上目遣いで問うてくる。その視線がぐっと俺の胸を掴んで離さない。さすがに彼女の前で胸を抑えるわけにもいかず、なんとか笑みを作るも、喉はぎゅっと締まったままで。
「だめやないんやけど……その団扇はどないしたん?」
そう言うのが精いっぱいな俺に対し、静ちゃんはなおも笑みを崩さない。
「作りました!」
きらきらとした笑みと言葉に圧倒される。
いや、うん……、可愛えし愛おしさが爆発しとるんやけどその手に持っとる謎すぎる団扇なんやねん! 
と突っ込みたくなるのを必死に我慢して何度か深呼吸をして心を落ち着ける。
「静ちゃん、よっく俺の話聞いてな? それ、誰に教わったん?」
諭すように、優しく問いかける。嫌な予感がひしひしと感じられるけれど、それに気づかないふりをする。けれど残念なことにそれは静ちゃんの可愛い笑みとともにやってくる。
「謙也さんです」
あいつ……!
この場に静ちゃんがいなければ即行電話をかけて怒鳴りつけるところだけれど、幸か不幸かここには彼女がいる。怒りを心の奥底に追いやって、さよか、とだけ返す。
謙也、後で覚えときや。
遠い地で今日も走り回っているであろう従弟に静かな怒りを秘めつつ、とりあえず静ちゃんには手に持つ団扇は処分するようお願いする。その際少々彼女が引き下がったものだから、仕方なしにこの間謙也との電話で歌った歌をアレンジして歌えば、どうやら俺としては大変不本意だけれど、お気に召してもらえたようで。
「侑士先輩! またさっきの、えっと……二番手の男歌ってください!」
気に入ってもらえたのは嬉しいけれど、嬉しいけれども……。不本意極まりないというか、謙也ほんま覚えときや。
たった数分のやり取りでどっと疲れてしまった。だけどそれをおくびにも出さず、終始笑みを崩さず静ちゃんとの会話を終え、ひらひらと手を振って彼女を見送る。
背中が見えなくなったところで、ポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出す。アドレス帳を呼び出すまでもなく、発信履歴から謙也を選び出し発信する。
「なんや! 侑士」
数コール、というかワンコールで相も変わらず騒がしい従弟の声が受話口から聞こえてきて、胸の内に秘めていた怒りが沸々と漏れ出す。
「謙也。お前静ちゃんに何吹き込んどんのや」
極めて冷静に、怒気を込めてそう言えば、謙也から返ってきたのは疑問を呈する声だった。
「何って団扇のことか? それとも侑ちゃんのことか?」
「あれもお前の仕業か!」
突いたことにより出てきてしまった事実にさらに怒りが増していく。
なんでお前はいつも余計な事を静ちゃんに吹き込むんや!
「まあ、そない怒らんとエエやないか」
暢気な声にこちらの怒りゲージは少しずつ、そして確実に溜まっていく。
「怒るわドアホ」
「エエ思いしたんやろ? ならむしろ感謝されてもエエくらいや」
「誰がお前に感謝なんてするか」
「なんでやねん! そこは謙也くんホンマおおきにとか言うとこやろ!」
「それこそなんでやねん。こっちは迷惑しか被ってへんわ」
「はぁ!? 俺の好意を迷惑っちゅうんか!」
受話口から聞こえる最大音量の返答についに怒りゲージは最頂点に達する。
「好意っちゅうか有難迷惑やわ! こんドアホ!」
「ドアホはどっちや!」
それから俺と謙也の通話はエキサイトしていき、しまいには見兼ねた岳人が間に入るまでそれは続いたのだった。


愛称はあーちゃん
「なぁ、侑士」
昼休み。
いつものように弁当の唐揚げを頬張りながら、岳人が何でもないことのような感じで視線を投げてくる。また何か変なことでも思いついたのか、その表情はどことなく笑っているように見える。嫌な予感しかしないが、名指しをされてしまった以上応えないわけにはいかない。けれど、応えなければよかったとすぐさま後悔する。
「なんや?」
「お前広瀬とどこまでいったんだ?」
「ぶふっ」
「きったねぇ!」
「岳人が変なこと言うからやろ」
岳人のあまりにも直球な物言いに口に含んでいたお茶を吹き出してしまった。基準服にできてしまったお茶の染みをハンカチで拭いながらジト目で睨むようにすれば、
「変なことは言ってねぇぞ! ていうか気になるじゃんかよ」
なんて全く悪びれていない言い分が返ってくる。いや、少しはすまなそうな顔なり態度なりをとっても罰は当たらないと思うのだけれど。まあ、いつものことだし正直それを言ったところでしょうがないというのもある。だから怒るのはやめて、だけど言うべきことはちゃんと言っておく。
「普通、気になっとっても言わんやろ」
人にはプライバシーというものがあるし、それが恋人同士のあれこれなら、なおさらそこにずかずかと土足で立ち入るのはいただけない。けれど岳人はなおも食い下がる。
「俺とお前の仲じゃん」
「親しき仲にもっちゅうやろ」
「俺とお前、親友だろ?」
「そうやって情に訴えようとしても言わんで」
「なんだよ、侑士のケチ!」
ぷぅ、と頬を膨らませて岳人は唐揚げをもう一つ頬張る。
この仕草だけ見るとホンマ岳人って女の子っぽいんよな……。
口にすれば絶対反論が返ってくるであろう言葉を飲み込んで、昼食の続きを再開する。けれど再開してすぐ岳人の顔が弁当から上がる。まっすぐ、まるで射貫くような視線。真面目な話をしようという意思を感じ取って箸を止める。
「なあ、侑士」
「ん?」
「結婚式にはちゃんと呼んでくれよ」
「……気が早いわ」
浪速のスピードスターも驚きの話の速さに苦い笑みしか浮かべられない。
「そしたら俺、スピーチとか考えてくるからさ。……やべっ、なんか今から泣けてきた」
「なんでやねん」
まだ中学生の身分で結婚なんて考えるには早すぎるし、もしかしたらこの先――考えたくはないけれど俺と静ちゃんとの間に亀裂が入らないとも限らない。俺としてはずっとこのまま、願うなら結婚して、子どもを授かって、そして一緒の墓に入りたい、と思っている。……思っているだけで実際にそうなるかどうかはさておき。
「でも侑士、広瀬と別れる気なんて更々ないだろ?」
「……岳人、自分ホンマ変なところで勘が鋭いよなぁ」
ため息交じりに零したそれは岳人の表情を緩ませる。にこにこと笑みを浮かべて、最後の一つになった唐揚げを口に放り込むと、数度の咀嚼で飲み込む。
「俺、子どもの名付け親になってもいいぞ!」
「やから、気が早いっちゅうねん」
「あかりって名前よくね?」
「岳人、俺の話ちゃんと聞きや」
もう一度ため息を吐き出して制してみるものの、結局昼休みを全て費やしても岳人の夢語りは終わりを迎えることはなかった。

致命傷
「侑士先輩って向日先輩と仲良いですよね」
何の脈絡もなく投げられた話題は、はて? と俺の首を僅かに傾げさせる。
なんとなく、というくらいの違和感。……いや、違和感とも言えないくらいの引っ掛かりというのだろうか。とにかく、普段こんな会話はしないからだろうか、静ちゃんからこんな話題が投げられることに若干引っ掛かりを感じる。けれどそれに気づかないふりをして、問われたことに対して返答を紡ぐ。
「ん? そりゃまあ。ダブルス組んどったしなぁ」
「…………」
俺の返答に、静ちゃんは口を僅かに引き結ぶ。お気に召さなかったのか、それとも予想通りの返答だったのか、その表情からはうまく読み取れない。どう言うのが正解だったのかよくわからない状態というのは、存外気持ちの悪いもので。正解も不正解もわからないまま、時間だけが過ぎていく。
「もしかして、やきもち妬いてくれとるんか?」
適当に思いついたままを言葉にしてみると、静ちゃんからの反応は上々で。
「……! そ、そういうわけじゃ……」
否定はしているものの、明らかに動揺しているのが見て取れる。
そうか、そうか。妬いてくれていたのか。
こんなことを思うのは不謹慎かもしれないが、大好きな彼女に妬いてもらえるなんて――その相手がたとえ同性であったとしても、それは男として嬉しい限りだ。何せ、静ちゃんは嫉妬とかしないタイプだと思っていたから。だから、こうして素直に気持ちを口にしてもらえて嬉しくないはずがない。
にやけそうな口元をぎゅっと力を込めて引き結んで、その代わり右手を静ちゃんの頭頂部へと持っていく。ぽんぽん、と軽く頭を撫でて心のうちにある言葉を音にする。
「安心しぃ。俺が好きなんは静ちゃんや」
「……!」
頭を撫でられているからか、それとも俺の直球な告白に恥ずかしさを覚えたのか。何とも言えない表情で静ちゃんは俺にされるがまま頭を撫でられ続ける。
「あ、ありがとうございます」
「ん。素直にお礼言えて静ちゃんはエライな」
さすがに一分近く頭を撫でられているからか、羞恥心はどこかへ行ってしまったようで。一度深呼吸したかと思えば、ゆっくりと顔が上がる。
「……私も」
「ん?」
「私も……そう、です。私が好きなのは、侑士先輩です」
それは小さくて、そして致命傷を負うには十分なお返しだった。


登録ナンバー001
「…………どうしよう」
真っ白になってしまったアドレス帳を見て、まずはじめに思ったことは、今日は侑士先輩に連絡できないなぁ、だった。

ことの発端は、使っていた携帯電話の電源が入らなくなってしまったことだった。元から頻繁に携帯電話を使う方ではなかったけれど、侑士先輩という彼氏ができてからはかなりの頻度で連絡を取り合っていた。
時には電話、時にはメール。気付けば発着信履歴と受信ボックスには忍足侑士という名前がずらりと並ぶようになっていた。だから、なのかはわからないけれど。急に電池の持ちが悪くなったり電源ボタンを押したわけでもないのに電源が切れることが頻発した。それでも騙し騙し使っていたけれど、ついにその瞬間が訪れてしまい、私の携帯電話は完全に沈黙してしまった。
その日はちょうど日曜日で学校は休み、そして両親も休みだったということで急遽午後から携帯電話を買いに行くことになった。
両親と店員さんからの勧めで、今まで使っていた二つ折りの携帯電話からスマートフォンにすることになったはいいものの、元から機械にあまり強くないからか、ことあるごとに首を傾げてはもらった冊子とにらめっこをしたり両親に訊いたりを繰り返す始末。
やっとの思いで初期設定を終えて、一息ついたところで冊子のあるページが目に入る。
「アドレス帳の……同期? ……あれ? 私、バックアップっていうの取ってない……?」
正確にはバックアップを取る前に携帯電話の電源が入らなくなってしまった、なのだけれど、とにもかくにも私のアドレス帳はこのうんともすんとも言わなくなってしまった携帯電話の中にしかない。データのバックアップを取ろうにも電源が入らないことにはどうしようもない。
と、いうことは……。
真っ白な状態のアドレス帳と同じく私の頭も真っ白になってしまう。
けれど幸か不幸か、私に連絡を取ろうという人は両親を除くと今のところ侑士先輩くらいで。それに今日は練習試合があると言っていたからきっとお疲れだろうし、いつものパターンなら連絡はおそらく来ない……はず。
そう自分に言い聞かせて、慣れないことで疲れた体をベッドに横たえる。重い瞼を必死に開けようとするけれど、重力と疲労と眠気からは抗えず、どんどん体は寝る体勢に入っていく。
……明日は、侑士先輩に……連絡先、訊かなきゃ。
沈みゆく意識。そんなことを考えながら私の視界は真っ暗になった。

翌日、昼食を早めに食べ終えて広い校内を走り回り、ようやく侑士先輩を探し出せたのは昼休みが終わる十分前だった。
「ゆ……、ゆぅ、し……先輩っ!」
「ん? 静ちゃんか。どないした……ってめっちゃ息切れとるやん」
「は、走り、回ったので……っ」
「よぉわからんけど、大丈夫か?」
「は、はい……っ!」
「いや、あんま大丈夫やなさそうやな」
とりあえず深呼吸や、と侑士先輩は私の息が整うまで待っていてくれる。言われた通り何度か深呼吸を繰り返して、ひとまず普通に会話が出来るくらいまで呼吸を落ち着ける。
「で、どないしたん? 走り回って探すほど大切な用事でもあるん? それなら電話なりメールなりくれれば俺の方から行ったで?」
「それが……、昨日訳あってスマートフォンに変えたんですけど、アドレス帳の同期? っていうやつができなくて真っ白になっちゃって……」
「それ、あかんやつやん」
「はい……。とりあえず家族と友人、知人には後で訊こうと思って。侑士先輩は学校でしかお会いすることができないので、それで、」
走り回りました、と言い切る前に侑士先輩はにっこりと笑みを浮かべる。何がそんなに嬉しいのかよくわからなくて私は首を傾げることしか出来ない。
「ほんなら俺が一番に入れてもエエ?」
「はい。ありがとうございます」
「ほんならスマフォ貸してや」
「どうぞ」
そう言ってポケットからスマートフォンを取り出して侑士先輩に差し出す。何回か画面をタップして、あっという間に侑士先輩はスマートフォンを返してくる。
「ほい。登録できたで」
操作に慣れる意味も含めて、戻ってきたスマートフォンを操作してアドレス帳を呼び出す。確かにそこには忍足侑士という名前があった。
「ありがとうございます」
「俺こそおおきに」
「どうして侑士先輩がお礼を言うんですか?」
お礼を言われる覚えが全くなくて再び首を傾げる。
「ん? やって、アドレス帳の一番最初に登録するやなんて、データ移行ができる今時できんやん」
しかも彼女のやで? と満面の笑みで侑士先輩は私の頭を緩やかに撫でる。
「めっちゃ嬉しいやん。ほんまおおきに」
「うぅ……、あの、侑士、先輩……! 人前で頭を撫でるのは恥ずかしいので……」
「今ここには俺と静ちゃんしかおらんからエエやん」
「そうは、言いましても……!」
私の抗議にも侑士先輩はにこにこと笑みで返してくるだけ。恥ずかしさが頂点に達したところで天の助けとばかりに午後の授業の予鈴が響く。
「よ、予鈴! 予鈴が鳴ってますので……!」
「せやなぁ。残念や」
その声色は本当に残念がっていて、そんな声を聞いてしまうと不思議と離れがたくなってしまう。けれど、授業に遅刻するわけにもいかなければ、このままさぼるというわけにもいかない。だから、あと数時間後の約束を交わすことにする。
「侑士先輩。今日は部活終わるまで待ってますね」
「ん。ほな、終わったら一緒に帰ろか」
「はい」
それを最後に、私は元来た道を戻り、そして侑士先輩は反対の道へ駆けていく。なんだか慌ただしい昼休みだったけれど、全然それは苦ではなくて。たまにはこんな昼休みもいいのかなぁ、なんて考えながら残り三分、自分の教室までの道のりを駆けた。


そういうんは事前に言うて
「ちゅうわけで、俺ら結婚したで」
「いや、ちゅうわけでじゃわかんねーよ!」
岳人の突っ込みは尤もなのだけれど、経緯やら何やらを話すのは正直恥ずかしさが勝ってしまって出来そうにない。だからちゅうわけでというわけなのだけれど。
今日は氷帝テニス部メンバーが久しぶりに集まる日だった。場所は色々とあって――というか殆ど跡部の都合に合わせて跡部邸。前にも何度か来たことがあったけれど、訪れるたびに庭の手入れが洗練されているような気がする。
静を連れてきた時点でメンバー内では大方想像がついていたのか、岳人の突っ込み以外は割と受け入れられて、静も久しぶりに会った面々が殆どだったからか話に花咲いているようだった。
中学時代の可愛さを残しつつも、大人の雰囲気も入ってきている静に赤面する面々。
エエやろ。その子、俺の奥さんなんやで。
内心ほくそ笑みながら人間観察をしていると、さすがは跡部と言うべきか。彼女とも顔色一つ変えることなく平然と話をしていて、やっぱ跡部は跡部やなぁ、なんて当たり前のことを思う始末。けれど――。
「静、忍足に幸せにしてもらえ」
「は、はい……」
突如聞き流せない呼び名を耳にして、ぐるりと首がそちらへ傾く。しかもそれは俺だけではなく、その場にいた樺地を除く全員が同じ行動をしていた。
え……? 今、跡部、なんて言うた?
慌てて静と跡部のもとへ歩みを向ける。たった数歩の距離だというのにやけに遠く感じる。
「跡部。今、なんて言うた?」
「あーん? なんだ、忍足」
俺の問いに跡部は片眉を上げて返答する。少し焦って言葉にしたからか、むこうからの反応は芳しいものではない。
「今……静て、呼ばんかった?」
「ああ、呼んだが? それがどうした」
「どうしたって、やって、えぇ……」
困惑する俺を余所に、跡部はあくまで澄ました表情で俺の反応を楽しんでいるように見えた。その余裕のある表情にこちらは焦りが募るばかり。
まさか。
もしかして。
いや、そんなはずは。
嫌な想像が脳内を徐々に浸食していく。そのうち若干の胸やけを覚えるようになったところで岳人が助け舟とばかりに会話に入ってくる。
「跡部。いくら広瀬が結婚して名字が変わったからっていきなり静呼びは侑士がびっくりするだろ」
現にほら、と岳人は俺の顔を指で指し示す。
いや、あんま見んといてや……。
突っ込む余裕もない俺の様子を見て、跡部は合点がいったようで。なんだそんなことか、と軽く肩を竦ませる。何度か深呼吸を繰り返して、ようやく、掠れ声のような今にも消え入りそうな声で思いの丈を述べる。
「……跡部。流石に静呼びは勘弁してや」
「じゃあなんて呼べばいいんだ? ミセス忍足か?」
跡部の不満そうな声に今度は静が控えめに遠慮の意を立てる。
「それはそれで恥ずかしいです……」
「ちゅうか忍足でエエやん」
「それだとお前と被るだろうが。それともお前をファーストネームで呼ぶか?」
俺の提案に、跡部は片眉を上げて反論してくる。
「断固拒否するわ」
それにすかさず反応する。跡部から名前呼びされるのはどうにもいただけないし、これまでずっと苗字呼びだったから突然名前で呼ばれても絶対困惑するし、反応できないのは目に見えている。
それにしてもどうして跡部がこんなにも静のことを名前で呼びたいのかがよくわからなくて内心首を傾げる。もしかして学生時代にそれなりに接点というか、交流があったのだろうか。確かに中学の時は静は学園祭の運営委員、そして跡部はその運営委員長だったから学園祭を運営していく上でそれなりに交流があったように記憶している。けれど、それ以降静が跡部と付き合いがあったとは記憶していない。……いや、記憶していないだけで、もしかしたら俺の知らないところで、というのはあるのかもしれない。可能性を考え始めたらキリがない。
じわりと気持ちの悪い汗が背中を這っていく。静のこともそして同様に跡部のことも十全に信じている。けれど、こうまで跡部が言うのだから――、なんてどんどん思考が嫌な方、嫌な方へ流れていく。どうにも自分の心の中では解決できそうになくて、もういっそのこと跡部に直接訊くかと口を開いたまさにその時だった。
「だろう? 俺様だって頼まれたって断る。それなら必然的に静一択だろ」
まるで俺の嫌な思考をくだらないと一刀両断するかのように、跡部はバッサリと言い切った。
なるほど、そういうことか。苗字呼びでは俺と静どちらを呼んでいるかわからないし、かといって俺を名前で呼ぶのは、そして呼ばれるのはお互いに遠慮願いたい。そうなると静の呼び方を変えるしかない。そしてミセス忍足という呼称はその静自身が拒んだ。ならば、跡部の言う通り一択しかない、というわけだ。
ここまでお見通しだったのかどうかは正直わからないけれど、まあ跡部だしなと思うことで全て納得できてしまうのも不思議な話だ。
「ほんなら……まあ、しゃーないんかなぁ」
「いや納得すんなよ侑士! ひろ……、お、忍足も黙って聞いてないで、反論しなくていいのかよ!?」
「あ、いえ……私は」
「いいのかよ!」
「向日うるせぇぞ」
「俺かよ!」
そんなこんなで久しぶりに会ったというのにその時間を感じさせないやりとりに笑みをこぼしながら、日が暮れるまでそんなことが続いたのだった。