カケラを探して


侑ちゃん
なぁ、静ちゃん。
電話口の謙也さんはとても愉快そうな声で私にそれを教えてくれる。ああ、きっと電話の向こう側の謙也さんは面白いものが見られそうだ、なんて思っているのかもしれない。……いま目の前に謙也さんがいないから本当のところはどうかわからないけれど。
それじゃぁ、と謙也さんとの通話を切ってベッドに背中から倒れ込むと、布団が体を包み込んでくれる。布団から届けられるお日様の匂いと温かさに私のまぶたは自然と重くなる。
そんな時、脳裏に浮かぶのは先ほどの謙也さんの言葉。
なぁ、静ちゃん。今度侑士に――。
本当に私がそんなことを言ってもいいのだろうか。だけど、謙也さんは私だから、大丈夫だと言ってくれた。なにを根拠にして大丈夫だと言ってくれたのかはわからないけれど。
頭では色々と考えているけれど体の方はゆっくりと意識を手放す準備を始める。
ああ、でもこのまま寝たら風邪ひいちゃう……。
睡魔がすぐそばまで近寄ってきている体をなんとか起こして布団に入る。
それからまもなく私の意識は闇の中へと溶けていった。
翌日。侑士先輩を見かけて声をかけようとするものの、なかなかそのチャンスに恵まれず。ようやくそのチャンスが訪れたのは放課後になってからだった。
今日はテニス部の練習が急遽休みになったとかで、帰り道をこうして二人並んで帰ることができている。
「それでな岳人が――」
「それは向日先輩らしいですね」
「…………」
「…………」
会話が一度途切れる。けれどその沈黙を苦痛だとは思わない。
最初の頃はそれで戸惑ったりもしたけれど、今はもうこの無言の時間も愛おしいと感じるようになった。
そっと侑士先輩の顔を見上げる。風に揺れる青みがかった髪。特徴的な丸眼鏡の奥に見える茶色の瞳はとても綺麗で。きりっとした面持ちだけれどもたまに見せてくれる笑みは何時までも私の心を掴んで放してくれない。
ふと、昨日の謙也さんの言葉が頭の中で浮かび上がる。
今なら周りに誰もいないし、言っても大丈夫かな……?
小さく、何度も深呼吸を重ね、私はそれを口にする。
「ゆ、侑ちゃん」
「なんや、姉…………は?」
侑士先輩の目が大きく、丸く見開いて私のことをじっと見つめてくる。その表情がいつも見ているどの表情とも合致しなくて。侑士先輩のまだ見ぬ表情を見ることができてなんだか嬉しくなる。――と思ったのも束の間。侑士先輩の表情がとてもいい笑顔に変わる。
「なんや? 静ちゃん」
どこでそんな呼び方教わったんだ? と言わんばかりの笑みは深くて底が知れないものだった。
一歩、また一歩といつの間にか並んで歩いていたはずの侑士先輩の体は私の方へ向いていて、にじり、にじりと距離を詰めてくる。それに倣って私も一歩、また一歩と距離をとる。けれど結局は壁際まで追い詰められてしまって逃げ場を失ってしまう。
「なぁ、静ちゃん?」
表情はとてもいいのに眼鏡の奥の瞳は全然笑っていない。怒っているわけではないというのはわかるけれど、真剣な視線に言葉が上手く出てこない。
「静」
耳元で、囁くような声。ついに私の理性は白旗を上げたのだった。


九号
誰もいない教室。夕日が差し込んで赤く染まる室内に、俺と静ちゃんは向かい合って座っている。逢い引きというには少し物足りない、放課後のちょっとした二人だけの時間。
「あの、ゆ……侑士先輩? どうかしたんですか?」
小さな戸惑いの声が静けさで包み込まれた室内に溶けていく。
「いや、別に何もあらへんよ」
そう言いながら俺の指は静ちゃんの指を執拗とも言えるほどに触り続けている。というのも、彼女に内緒で今度指輪をプレゼントしたいと思っているからで、そのサイズを測っているところなのだ。
それにしても、静ちゃんの指のサイズ……大体九号くらいか? 細いなぁ。まぁ、男の俺と比べたら女の子の静ちゃんの指が細いのは当たり前なんやけど。女の子の指ってみんなこんな細いもんなんか?
少し力を入れれば折れてしまいそうなほど華奢で綺麗な指。すべすべとしていて触れていてとても気持ちがいい。それこそ許されるならずっと触っていたい。
「何もないなら何で未だに指触ってるんですか?」
静ちゃんの指摘は尤もで。自分でなんでもないと言っておきながら未だに彼女の指を触り続けているのは些かおかしなことだろうとは思う。けれど、本当に静ちゃんの指は本当に気持ちが良くて、ついつい触ってしまう。
「……その、あの、擽ったいです」
ふふ、と静ちゃんの口から小さく笑い声が漏れる。それがまたなんとも可愛らしくて俺の心を擽る。
暫く俺にされるがままになっていた静ちゃんだけれど、急に何かを思い立ったのか俺の指と顔を視線が行ったり来たりする。
「侑士先輩って指フェチなんですか?」
「は?」
予想もしない言葉を喰らい間の抜けた返事をしてしまう。そんな俺の反応を見ても、静ちゃんは引くことはせず。むしろ身を乗り出さんとばかりに続ける。
「だってずっと指触ってるし……」
「俺はどっちかって言うたら……って何で俺のフェチの話になっとんねん」
一つ息を吐き出す。指を触っているからってフェチ扱いされてもな……。でも静ちゃんからしてみたらフェチに見えるくらい俺の行為はいきすぎていたのかもしれない。そこは反省すべき点かもな。
「侑士先輩ツッコミ上手ですね」
「そらまあ、ってちゃうわ。……ほんま、静ちゃんおもろいな」
はは、と小さく笑えばそれにつられて再び静ちゃんも笑みを見せてくれる。その笑みがまたしても俺の心を擽る。
流石に指摘されてしまった以上、もう指を触ることも叶わなくなってしまった。惜しみつつそっと自分の指を離すと静ちゃんの視線が俺の手へと移る。その視線移動に内心首を傾げる。
「…………」
「どうかしたんか?」
「あ、えっと……その、指……」
「指?」
指という単語に今度は内心ではなく現実に首を傾げることとなる。指がどうかしたのだろうか。もしかして触られすぎて気持ち悪かったとかだろうか。それだったらまずは謝らなければならないし俺にできることはすべきだろうと思う。けれど次に静ちゃんの口から紡がれた言葉は俺の予想を良い意味で裏切るもので。
「指触ってもらえて、擽ったかったですけど、その、気持ち良かったので、やめられちゃってちょっと残念っていうか……」
「! それは、」
嬉しいような、小恥ずかしいような、むず痒いような。不思議な感覚にどう反応したらいいかわからない。
しかもそれは静ちゃんも同じなようで、二人して側から見れば面白い顔をしているに違いない。
「……その、指触ってもええか?」
恐る恐る、といった感じで訊ねると、
「……はい」
静ちゃんから小さな肯定が返ってくる。返ってきたはいいが、なんとなくの気まずさみたいなものを感じてなかなか手を伸ばせない。けれどいつまでも静ちゃんを待たせるわけにもいかないだろう。意を決して――という言い方は先ほどまで触っていたのだからおかしな話なのかもしれないけれど、とにかく引っ込めた手を再び静ちゃんの指へと伸ばす。
やっぱり何度触ってもええなぁ。
静ちゃんの指は本当に触り心地がいい。俺の指と違って白くてすべすべで細くて綺麗で触っているだけで幸せになれる――と言うと大げさかもしれないけれど、とにかく今の俺はとても幸福感に満ちていることは確実に言えることだ。
「やっぱり侑士先輩に指触ってもらってると気持ちいいです」
「そら嬉しいわ」
「はい。将来、マッサージ屋さんになれそうですね」
「マッサージ屋さん、か。まあそういうのも悪ないかもしれんな」
他愛のない会話を重ねながらも俺の指は静ちゃんの陶磁器のような指を優しく撫でる。いつまでもこの時間が続けばいい。夢心地でそう思った矢先のこと。不意に室内に流れる下校を知らせるチャイムが俺の意識を強制的に現実へと引き戻してしまう。
ほんま、なんちゅうタイミングで鳴るねん。
静ちゃんに勘付かれないように一つ息を吐き出して、ゆっくりと視線を上げる。
「帰ろか、静ちゃん」
「はい」
その声色は少しだけ残念さを混えているような、落ち着いたもので。だから、だろう。それに引っ張られる形で俺の口はそれを口にする。
「今日は手、繋いで帰ろか」
「! はい!」
ぱぁ、と笑顔の花が咲く。ぎゅっと握られた手は温かくて、愛おしくて、大切で。改めて俺はこの子のことが好きなのだと思った。


侑士くん
今まで異性を好きになることはあっても、その思いを伝えるまでには至らなかった。
それは今までの俺がガキだったから、想いを伝えた後のことが想像出来なかった、というのもある。
極端なことを言えば告白をしたらそれで終わりだと思っていた。終わってしまうのが寂しくて、もっと好きでいたくて、結局自分の中で想いを募らせるだけで終わってしまっていた。
そんな俺に人生で初めてできた恋人。
可愛いのはもちろんのこと、頑張り屋で一本芯が通っていて、誰にでも優しくてあの跡部に意見を言うこともできる結構肝の座った一つ下の女の子――広瀬静。
最初はオモロイ子、だった。
俺の冗談に真面目に返してきたかと思えば、いきなりボケをかましてきたりもした。まあ本人からしてみたら真面目に答えたつもりなのだろうけれど、そのちぐはぐさというか、少しずれた回答が俺の心を擽って、そして徐々に捕らえていった。
気付けば、目で追うようになっていて。
気付けば、あの子は今何をしているのだろうかと思うようになっていて。
そして気付けば、好きになっていた。恋に、落ちていた。それはもうわかりやすいくらい、綺麗に。
こんなに誰かのことを想うなんて初めての経験だった。想いを伝えたいと思うのも、恋人になりたいと思うのも、全部が初めてだった。
あの日。学園祭最終日。今日しかチャンスはないと彼女に想いを告げた。
正直なところを言えば勝機は五分もなかった。なにせ、あんなにアピールしても悉く流されていたのだから。彼女からしてみれば俺はただの先輩止まりで終わるかもしれない。
だけど――だからこそ、それは嫌だと強く思った。数いる先輩の一人ではなく、広瀬静のことを大好きな忍足侑士という一人の男子として見てほしかった。
彼女にその気持ちはなくても、せめて自分の気持ちをちゃんと言葉にして、伝えて、終わりたかった。
だけど、結果として彼女は俺の恋人になってくれた。気を遣ってくれたわけでもなく、なんとなく告白されたから付き合うわけでもなく、彼女自身が俺を好いていてくれていたから。
あんなに暖簾に腕押し状態だったのに、と思わなくもないけれどそれはもう過去のこと。いつかからかうことであの時の気持ちはチャラにしてしまおう――。
「あの、侑士先輩?」
優しくて花のような可愛らしい声が受話口から聞こえ、いつの間にかどこかへ飛んでしまっていた意識をこちらへ引き戻す。
そうだった、今は静ちゃんと電話している最中だったのだ。それなのに俺は何をぼうっと考え込んでいたのだろう。
「ん? なんや?」
とりあえず何でもない体を装って返してみる。すると受話口から聞こえてきたのは先ほどよりも小さな声で。
「あ、いえ……。急に静かになっちゃったのでもしかして寝ちゃったのかと思いまして」
「あー、寝てたわけやないんやけど、ちょっと考え事をな」
「そうなんですね。じゃあそろそろ切りましょうか?」
「あ、いや。大丈夫やで。ちゅうか、電話中に考え事してすまんな」
「いいえ、大丈夫ですよ」
ふふ、と小さな笑い声が聞こえてきて、なんだか俺の心も擽られる。
こういう、何気ない仕草とかが本当に可愛らしくて、いじらしくて、たまらなくなる。
「で、何の話やったっけ?」
「えっと、一度でいいからくん付けで呼ばれたいって話を……」
「ああ、せやった。で、呼んでくれへんの?」
「さ……っ、流石にちょっと……。先輩ですし」
もごもごという雰囲気が電話越しでも伝わってきて、思わず口元を押さえてしまう。今は自室にいるのだから誰の目を気にする必要なんてないというのに。けれど何故だかこの表情は誰にも見られたくないと思って、所謂反射のようなものだった。
「あ、明日も朝練あるんですよね? 寝坊しちゃったら大変ですよ」
まるでこの話題を早く切り上げたいとばかりの静ちゃんの指摘。時計に目をやる。確かにいつもならそろそろベッドに入る時間を針は指している。だけどもう少しだけなら、と欲がひょっこり顔を出す。
「せやなぁ。やけどもうちょい静ちゃんと話したいんやけど」
零した言葉に、静ちゃんからの言葉は返ってこず。
どうかしたのだろうかと首を傾げていると、漸くおずおずといった感じで受話口から声が聞こえてくる。
「あ、えっと……私も侑士先輩ともう少しだけお話ししたいです。……けど、お体に障っても大変なので……」
「そうか、なら今日はここらでやめとこか」
「はい」
短い返答の後、何やら静ちゃんは小さく深呼吸をする。なんでこのタイミングで深呼吸をするのかわからなくて戻した首を再び傾けようとした、その時。
「お、おやすみなさいっ! ゆ……っ、侑士くん!」
「…………え、あ……お、おやすみ」
勢いに押されるようにこぼれだした言葉はちゃんと彼女の元に届いただろうか。それくらい、薄くて小さくて儚げな終幕。次いで受話口から聞こえるのはツー、ツーという電子音。終話したというのに、俺の手は耳から携帯電話を離せずにいる。
いま……、え? あれ? 静ちゃん、侑士くんって言わなかったか?
真っ白になった頭でつい数秒前のやり取りを思い出す。思い出した途端、一気に血液が頬に集まるのを感じる。
「……っ、それは反則やで、静ちゃん」
漸く携帯電話を耳から離して、ベッドに倒れこむ。未だに頬は熱を持ったままで熱いことこの上ない。だけどそれが嫌じゃなくて。むしろそれさえ愛おしく思えてきて。
ああ、なんて恋はやっかいなのだろう――と緩く眉を下げた。 


たこ焼き問答、その後
「侑士、お前いつからあんなに広瀬と仲良くなったんだ?」
先ほど物議をかました納豆入りたこ焼きを頬張りながら、岳人が興味津々な視線を俺に向けてくる。
よくもまあ、あんなものを美味そうに食うものだというのは思うだけに留めておく。ここで余計なことを言ってまたややこしくなっても敵わない。
「言うほど仲良ぉないわ」
買ってきたお茶のペットボトルを一口あおってそう返せば、岳人は驚いたような、はたまた不思議そうな表情を作って首を傾げる。
その顔はなんやねん。
「でも侑士先輩って呼ばせてただろ」
「それは忍足先輩だと謙也がおるからな」
言ってから、そういえば謙也は今回この学園祭に呼ばれていなかった、というのを思い出す。けれど覆水盆に返らず。一度口にしてしまった言葉は戻すことはできない。
「ケンヤってお前の従兄弟だっけか? そいつここにいねえじゃん」
岳人の的確なツッコミにぐうの音も出ない。なんとか「それは、そうなんやけどな」と若干視線を彷徨わせながら言ってはみるけれど、結局尻すぼみになってしまう。まるで精神的に詰められているような感覚に、焦って次の言葉を探す。けれど、俺が口を開ける前に岳人がとどめの一撃を入れてくる。
「わかった! 侑士、お前広瀬に名前で呼ばれたかったんだろ」
そうだろ! と言わんばかりの自信満々の笑みに、事実そうであるからというのとまさか岳人がその結論にたどり着くとは思ってもみなかった驚きから何も返すことができない。
「…………」
「え? マジ?」
言った当人が困惑してどないすんねん。
内心そんなツッコミを入れながらも、どうしたものかと苦さの混じった笑みを作ることしかできない。けれど次の瞬間には岳人がガッツポーズを作って迫ってくる。
「侑士やるじゃんか!」
「近い。近いわ、岳人。あと納豆臭いねん」
「納豆の匂いは勘弁しろよ」
「いや、いくらなんでもそれは無理な話や」
「まあ、そう言うなって! ていうかどう言ったんだ? 侑士のことだからまた気障ったらしく言ったのか?」
「岳人、自分俺のことをどんな人間やと思っとんのや」
「どんなって、顔に似合わず意外とロマンチストな奴?」
「なんで疑問形やねん。ちゅうか顔に似合わずってなんやねん」
思い切り眉をしかめてみれば、悪い悪いと大して悪びれている様子が見られない岳人の平謝りが返ってくる。
まあこんなことはいつものことだし、いちいち目くじらを立てるようなことでもない。はぁ、と少し大げさにため息を吐き出して見せれば返ってくるのは軽快な笑み。
「だって知らない奴が見たら絶対侑士って陰険インテリ眼鏡、友達はミステリー小説って感じじゃね?」
「なんやねんそれ」
二度目のため息を吐き出してお茶を一口。独特の苦味とわずかな甘みが口の中に広がり喉を潤す。
「でも実際結構聞くぜ? 忍足くんってミステリー小説とかよく読みそうって。だから恋愛小説とか読んでるところを見るとびっくりするんだってよ」
「他人に嗜好を勝手に決めつけられるんはあんましエエ気分やないな。ちゅうか陰険インテリ眼鏡はどこから来たんや」
「それは俺が勝手に付け足しただけだけど」
「岳人、自分俺のことをそんな風に思っとったんか」
「今はそんなこと思ってねえよ」
「今は、ってなんやねん」
前は思っとったんか、と喉元まで来ていたセリフを飲み込む。
岳人の表情から半ば冗談だというのがわかったから。いや、もしかしたら揶揄っているのかもしれない。
何にしてもこれ以上この話題に付き合うつもりはない。その意思表示も込めて三度目のため息を大きく吐き出す。
「ていうか、それよりも広瀬だよ、広瀬! 侑士、お前何て言ったんだよ?」
「言いたないわ」
「なんだよ、ケチ!」
「ケチやないわ。この間やってジュース奢ったやん」
「なら俺だって昨日弁当の卵焼きあげただろ!」
売り言葉に買い言葉で飛び出た言葉だったし、岳人の反論に至っては何の話やねん、と思わず出かかった言葉を飲み込む。このまま論点がずれていけば終いには静ちゃんの件は忘れてくれるかもしれないと思ったからで。そして、その思惑は見事的中して、最終的に岳人の興味は俺のおかんの手料理に移った。
「なあなあ、侑士の母ちゃんって何が得意なんだ?」
「さぁの。今度おかんに訊いとくわ」
「侑士の母ちゃんって料理めちゃくちゃ上手いよな。今度からあげ作ってくれって頼んでくれよ」
「なんでやねん。自分のおかんに言いや」
「わかってねーな! 侑士の母ちゃんだからいいんだろ!」
「いや、よぉわからんわ」
そんな中身のない話をしていると携帯電話が着信を知らせる。このタイミング、そして休憩時間の経過からしておそらく相手は――。
「日吉や」
言うや否や着信ボタンを押す。そして出てきた第一声は、
「忍足さん。どこで何してるんですか。休憩時間はとっくに過ぎてますよ。というか向日さんもどこかへ行ってしまったんですが知りませんか? もしかして一緒ですか? だったら二人とも早く戻ってきてください」
およそ一息で言うにはなかなかの文量であるにも関わらず、日吉は淡々と、そして詰め寄るように――実際には電話越しだけれども、用件を伝えてくる。
一瞬圧倒されつつも、一つ間を置いて了承の意を伝える。
まあ、そろそろ連絡が来る頃合いだと思っていたし、話を切り上げるには絶好のチャンスだった。
「岳人。日吉が怒っとるから戻ろか」
「え? マジで?」
「マジやで」
「ちぇー。もうちょっと休憩したかったのにな」
「もう十分休憩したやろ」
またあの灼熱地獄に戻るのかと思うと気が重いけれど、これ以上日吉を待たせて機嫌が悪くなっても困る。
仕方ない、と俺たちは椅子を引いて重い腰を上げた。


お返しは手作り弁当一週間分でどうでしょう
部活と委員会活動が休みということ、先日駅の近くにオープンした喫茶店のクーポン券を持っていたということ、そして静ちゃんの都合がよかったこと。ちょうどよく三点そろったということで、俺と静ちゃんは件の喫茶店に行ってみることにした。所謂放課後デート、というやつである。しかもこれが付き合い始めて最初の、というおまけつきだ。
普段同じ校舎にいるとはいえ、学年が違えば当然受ける授業も違う。移動教室や休み時間にすれ違うことはあったとしてもゆっくり話すような時間はない。それに静ちゃんにだってクラスメイトや友達との交流もあるだろうし、俺にも俺の人間関係はある。だから学校にいる間はなるべく彼女の時間を占有しないよう気を付けている。
その代わり、放課後や家に帰ってから寝るまでの間に時間を作ってもらって通話をしている。そして俺はこの二人だけの時間がとても好きで、愛おしくて大切に思っている。この気持ちを押し付けるつもりは更々ないけれど、でも、静ちゃんもそう思ってくれていたらいいな、とは思う。
ホームルームと掃除を終えて、校門の壁に背中を預けて下校していく生徒を眺めていると視界の端に此方へ急足で向かってくる人影が入ってくる。
「侑士先輩! すみません、お待たせしました!」
「全然待ってへんよ。それよりも走ってきたみたいやけど大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ん。ほな、行こか」
「はい!」
にこにこと笑みを浮かべて、静ちゃんは俺の隣に並ぶ。
頭一つ分くらい離れた身長差。今では慣れたけれど、付き合い始めた頃にはその身長差に少しばかり戸惑ったりもした。何せ手を繋ぐのもキスをするのも、挙句の果てには会話をすることも、若干のし難さというのがあったから。岳人と似たような身長だから、と甘く見ていたけれど、たかが五センチ、されど五センチ。その差は体感的にとても大きく感じた。
学園から喫茶店までの道のりを、ゆっくり歩いていく。というのも、静ちゃんの歩幅は俺の半分――というと少し言い過ぎかもしれないが、なんにせよ彼女の歩幅に合わせて歩くと自然といつもよりもゆったりめになってしまう。それが嫌だというわけでないし、むしろ嬉しさや楽しささえ感じている。
今まで異性と――家族は別として、こうして二人で歩くことをしたことがなかったから新鮮でもあるし、新たな発見もある。
静ちゃんの歩幅は俺よりもかなり小さいということ。
歩くスピードもゆっくりであること。
周りをよく見ているから小さなことによく気付くということ。
そしてそれを楽しそうに話してくれること。
静ちゃんと一緒に歩かなければ、通学路にも色々な発見があることさえ知らなかった。彼女のおかげで、ただただ通り過ぎるだけの景色の解像度が随分と上がった。
「侑士先輩とこうして放課後に喫茶店に行くなんて夢みたいです」
「そない大袈裟なことか?」
「はい。私、誰かとお付き合いすることも初めてですし、こうして放課後にデートをするのも初めてでとっても嬉しいです」
「それは、まあ……俺も一緒やねんけど」
まっすぐ向けられた視線と言葉、そして柔らかな笑みに喉の奥がぐっと縮こまる。どこまでも純粋で、純真で、可愛らしくて、可憐で、愛おしい。胸の内を渦巻く静ちゃんへの思いに胸やけを起こしそうになる。ここが公衆の場でなければ、思わず彼女の腕を引いて抱きしめていたかもしれない。――いや、さすがにそれはないなと思ったものの、それくらい突飛な行動をしてしまいそうなほどテンションが上がっているのは確かだった。
喫茶店までの長くもなく、けれど短いわけでもない道のりを、今日あった出来事や他愛のない話をしながら歩いていく。そんな何でもないようなことが、とても幸せで、宝石のようにきらきらとしていて、宝物のように思えてしまう。
俺の心はずいぶんと静ちゃんに傾いているんだな、と自覚したところで目的地に到着する。
建物自体は元からあったもので、内装を新調したらしいその喫茶店は大通りから一本路地に入ったところに静かに佇んでいた。場所を知らなければ絶対に入れなさそうだし、知っていたとしても一本路地に入ったところという立地に、なんとなく知る人ぞ知る、というような雰囲気が醸し出されている。
宍戸あたりはこういうん苦手そうやな……。
胸の内でこの間の出来事を思い出しながら、ドアの取っ手に手をかけてぐっと力を込めて引くと、コーヒーのいい香りが漂ってくる。と同時にドア上部に取り付けられた入退店を知らせるベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃいませ」
淑やかに、そして心地よく耳に届けられる店員の声。
開店したばかりだというのに店内はさほど混んではいない。立地が大いに関係しているのかもしれないし、それに加えて店の雰囲気もファストフード店のような、いい意味での気軽さのようなものも薄い。どちらかといえば、学生向けというよりかは大人の隠れ家的な印象が強い。静かで、穏やかで、ゆったりとした時間を過ごせそうな喫茶店だ。
「お二人様ですか?」
「はい」
「では、あの窓際の席はいかがでしょう?」
店員が手で示した席は日が差し込んで暖かそうな明るい席。じゃああそこで、と首を縦に振ると店員は席へと案内してくれる。
俺と静ちゃんが席に着くと、店員がテーブルの真ん中にメニューを開き、水が入ったグラスを置いていく。
「こちら、左側が季節限定のメニューです。今月のケーキセットのケーキはサツマイモのモンブランと栗のタルトの二種からお選びいただけます」
「ありがとうございます」
静ちゃんが丁寧にお辞儀をして視線をメニューへと落とす。それに倣って俺もメニューを眺める。内装や雰囲気からてっきり学生には優しくない金額設定なのかと思っていたが、メニューを見る限りその気配はなく。というよりも下手なおしゃれカフェに入るよりも手ごろな価格設定に驚く。
開店記念でこの価格設定なのかとも思ったけれど、それなら最初にそう言うはず。とすればこの価格でずっとやっていくということで。小遣いをやりくりしている身としては嬉しいし、店内の雰囲気も居心地がいい。それにここならほかの氷帝生に見つかることもまずない。俺はともかくとして、静ちゃん的には囃し立てられたり変に揶揄われるのは好ましくないだろう。
価格設定、雰囲気、立地。良い条件が三つも揃ったデートスポットが一つ増えてとても喜ばしい。
俺があれやこれやと考えている間に、静ちゃんはといえばケーキセットのケーキで悩んでいるようで、
「サツマイモ……でも栗も美味しそう……」
なんて独り言が漏れている。
その悩みっぷりが可愛くてじっと見ていると、数秒してようやく俺の視線に気付いたのか、静ちゃんは戸惑いがちにメニューから顔を上げる。
「侑士先輩?」
「可愛えな」
率直な言葉にてっきり照れるだろうと思っていた。けれど、静ちゃんからの反応は俺の予想の斜め上で。
「はい、私もそう思います。このグラスとっても可愛いですよね!」
そう言うと、静ちゃんは先ほど店員が置いたグラスを手に取る。確かにこのグラスも可愛い。細やかな花の彫刻がグラスの下の方に施されていて、この店のセンスの良さとこだわりが窺い知れる。でも今俺が口にした可愛いは正真正銘、純度百パーセント静ちゃんに向けたもので決してグラスに対してではない。
鈍感すぎて気付いていないのだろうけれど、彼女と二人で、しかもデートで喫茶店に来ていてグラスの可愛さを褒めるほど俺はずれた人間ではない。言い直そうかとも思ったけれど、あまりにも静ちゃんがグラスに集中しているものだからその気もどこかへ行ってしまう。
まあ、いつものことと言えばいつものことであるし、付き合う前から彼女の鈍感さは理解していたから今更何かを思うこともない。だから、せやなと返すだけにしておく。
話題を変える意味も込めて、メニューのケーキセットのところを指さす。
「ケーキ」
「はい?」
「半分こするか?」
「……! いいんですか?」
嬉しい! という気持ちが前面に出ているその返事は気持ちのいいくらい明るい。
「エエよ」
「ありがとうございます!」
店員を呼んでケーキセットを二つ頼む。俺はブレンド、静ちゃんはミルクティーを選ぶ。注文が終わり、メニューを閉じて視線を上げると静ちゃんとばっちり視線がかち合う。
「侑士先輩コーヒー飲めるんですね!」
「ん? ああ、まあ」
「すごいですね! 私、まだコーヒーは飲めなくて……。早く飲めるようになりたいんですけど」
キラキラと輝く瞳は真っ直ぐ俺に向いていて、それは正しく羨望の眼差しで。こういう純粋な視線は普段あまり向けられるものではないからか、少しばかり言葉に詰まる。
実を言うと、ブレンドか静ちゃんが選んだミルクティーしか味が想像できる飲み物がなかった、というしょうもない理由なのだけど、それを正直に言うのも気が引ける。流石に味が想像できない飲み物を頼んで飲めないというのは避けたいし、飲めなければ店側にも迷惑がかかる。それなら無理に挑戦せずに無難なものを選ぶのがベストだと思った。
加えて、折角のデートなのだし多少格好つけたいというのもあった。
「別に焦らんとエエんちゃう?」
「それはそうなんですけど……。でもコーヒーが飲めるようになったら大人って感じがしますよね」
「それはどういう基準やねん」
はは、と笑ってグラスの水を一口含む。カラン、と氷が音を奏でて心地良い。
まあ、でも言いたいことはなんとなくわかる。俺も家族が朝食の時にコーヒーを飲んでいて、静ちゃんの言う大人な感じを感じ取っていた。だから飲めるようになれたらいいなと思っていたし、実際飲めるようになれたら少しだけ大人になれたような気がした。まだミルクと砂糖を入れなければ飲めないけれど、いずれはブラックでコーヒーの味を楽しめたらいいなと思う。
そうこうしているうちにケーキセットが運ばれてくる。
「わぁ……!」
目の前に置かれたサツマイモのモンブランに静ちゃんは目を輝かせる。丁寧に渦巻かれた濃い黄色のサツマイモクリームに粉砂糖、サツマイモチップが乗せられていて見た目にも華やかで美味しそうだった。
そして俺の前にもケーキが置かれる。マロングラッセにされた半切りの栗がカスタードクリームを敷かれたタルト生地の上にところせましと乗せられ、これまた粉砂糖が振りかけられている。
すごいもんが来たな……。
てっきり栗が一粒二粒乗っているだけのタルトだと思っていたから目の前のタルトに対する衝撃が半端ない。このクオリティでドリンクがセットになって財布に優しい値段設定は大丈夫なのかと心配になってしまう。
ちゃんと採算取れるんやろか……。
この店の人間でもない俺がそんなことを考えたところで仕方のないことではあるけれど。
「美味しそうですね!」
「せやな。いただこか」
「はい!」
元気のいい返事が戻ってきたところで、フォークを手にしてまずはタルトを半分に分ける。流石に自分が口をつけたものを渡すのはまだ少し気が引けるというのもあるし、静ちゃんとしてもあまり気持ちのいいものではないだろう、と思ったからで。
そしてそれは静ちゃんも同じだったようで、見れば彼女のモンブランも半分に分けられていた。
「侑士先輩、どうぞ」
「ん。おおきに。ほな、静ちゃんも」
皿をテーブルの真ん中に寄せて半分にしたケーキを互いの皿に乗せる。若干崩れてしまったけれどそれは仕方ない。どちらから先に食べようかと思って、静ちゃんからもらったモンブランを先に食べることにした。
フォークを入れると思った以上に柔らかくて、滑らかで、口に入れるとサツマイモの甘みと香りが一気に口腔内に広がる。甘すぎないそれは自然と頬が緩む。
「美味いなぁ」
ぼそりと零した独り言のような感想は静ちゃんの耳に届いたようで。
「美味しいですね」
ほっぺたが落ちそう、という言葉がとてもよく表現されている彼女の表情はそれ以上言葉を必要としない。
ほんま見てて飽きんなぁ。
まだ口の中に甘さを残したまま、次にコーヒーを一口含む。コーヒー特有の苦みと鼻を抜ける香り。ケーキもハイレベルだけれど、コーヒーも今まで飲んだ中で今のところ一番美味しいと思うレベルのもので。
初めて入った喫茶店で、こんな当たりを引いたのは初めてかもしれない。しかもそれが静ちゃんとの初めての放課後デートの時というのも嬉しい。
一度水で口の中をリセットしてから今度は栗のタルトを一口サイズに切って口の中へ迎え入れる。こちらも上品な甘さと栗のほくほくとした感じが口いっぱいに広がってとても美味しい。
「栗のタルトも美味しいですね!」
「せやな」
静ちゃんの頬はこれでもかというほど蕩けていて、幸せいっぱいという感じで。見ているこちらも幸せのお裾分けをされているように感じる。
ゆっくり味わいたいと思いつつも、フォークを動かす手が止まらない。気づけば皿の上はすっかり綺麗になっていた。最後に一口残ったコーヒーを飲み干して小さく息を吐き出す。こんなに満足感のあるケーキセットは今まで出会ったことがなかった。
余韻に浸りたい気もするけれど、時計を見ればそろそろ帰らなければならない時間を示している。名残惜しさを感じつつも静ちゃんを見れば、彼女もちょうど食べ終えたようで視線が上がったところだった。
「とっても美味しかったですね」
「せやな。静ちゃんさえよければまた来よか」
「はい! ぜひ!」
華やかで可愛らしい笑みに、頬が緩みそうになるのを懸命に堪える。自分でも変な顔になっているのは理解している。だから静ちゃんの「どうかしたんですか?」という疑問にも「なんもあらへんよ」と返すだけで精一杯だった。
「ほな、そろそろ帰ろか」
「はい」
静ちゃんが帰り支度を整えている間に伝票を抜き取ってレジに持っていく。後ろから小さな抗議ともとれない声が聞こえるけれど、聞き流して伝票と提示された金額をトレイに置く。
「はい、ちょうどお預かり致します」
「めっちゃ美味しかったです。また来ます」
「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
店員がにこりと笑みを作った後、カウンターから出て出入口の方へ向かう。丁寧にお辞儀をして、店員は扉を押し開く。何やら特別な待遇を受けているようで少しばかり気恥ずかしい。
去り際に浅く頭を下げて店を出ると、途端に静ちゃんが前に回り込んでくる。
「ゆ、侑士先輩!」
「なんや」
「なんやではなくて! あの、お金……!」
「デートなんやから俺が払っちゃだめいうことないやろ?」
「この間の水族館の時もそう言ってましたけど、私にも払わせてください!」
「あんな、静ちゃん。この間も言うたけどデートの時は男に花持たせるもんやで?」
「でもそれじゃあ侑士先輩にばかり金銭的負担がかかるじゃないですか!」
むぅ、と頬を膨らませて静ちゃんは納得がいかない、と視線とそして表情で訴えてくる。それがハリセンボンみたいで可愛らしい――とは口が裂けても言えない。
「俺が払いたいんやからエエて。ごちそうさせてや」
「じゃあせめて何かお返しさせてください。ごちそうになってばかりは心苦しいです」
了承するまで引かない――という強い意志が見て取れる。
静ちゃん、意外と頑固というか譲らないと決めたところは譲らんよなぁ。
そういうところも実に可愛らしい。
さて、じゃあどうしようかというところに立ち返るわけだけれど。別に何かを欲しているわけでもないし、特にしてほしいことというのも思い浮かばない。
ああ、でも――、と一つ思いついたことを静ちゃんに投げてみる。
「ほな、今度お弁当作ってきてや」
「お弁当ですか?」
僅かに首を傾げ、きょとんとした表情で彼女は俺を見つめる。そんなこと? と言いたげなのか、それとも意外なことを提案されたと言いたげなのか、はたまた別のことを考えているのか。とにかく、静ちゃんの表情は不思議なものだった。
「彼女の手作り弁当って男の憧れやん」
男というよりも俺、が正しいのだけれど、そんな細かいところはどうでもいい。
物は試しで提案してみたそれは、ちゃんと自分の中でかみ砕いてみると、意外と良くて……いや、むしろ料理上手な静ちゃんにお願いするにはぴったりな提案のように思えてくる。
静ちゃんは少し考えるような仕草をした後、わかりましたと快諾してくれる。
「お弁当に入ってたら嬉しいものとか、これは入れてほしいっていうものはありますか?」
「そこは静ちゃんのセンスに任せるわ」
「責任重大ですね……!」
「そんな重く考えんでもエエて」
そんな弁当トークに花咲かせながら、俺たちは駅までの短い道のりを歩いていくのであった。