ああ神様、願わくば、

◇一
あんなに多忙な日々を極めた合同学園祭も、振り返ってみればあっという間に終わってしまった。けれどあの二週間は私のこの先の人生の中でも一番充実した二週間だったというのは確実に言えると思う。
部活に所属していない私ではなかなか体験することのできない青春というものを経験させてもらえたし、普段話さないような人たちとも話すことによってコミュニケーション能力も多少なりとも上がったと思う。それにやるべきことに対しての責任や報連相の重要性も学ぶことができた。
とても貴重な経験をさせてもらえて、私は幸せ者だと思う。
けれど学園祭が終わってからこっち、私の心は少しばかり空っぽになってしまった。所謂世間で言うところの燃え尽き症候群に近い状態なのかもしれない。

昼休み、先生に呼ばれた私は職員室前の廊下の窓からぼうっと空を見上げながら歩いていた。それは件の燃え症候群の影響なのかそれとも暑くて頭が茹っていたのかは定かではない。
だから、気付けなかった。前に人がいることに。そして気付いた時には私はその人の背中に軽くとはいえ頭突きをしてしまった。
「……っ!」
「ん?」
その背中がゆらりとこちらへ振り返ると同時に、私は慌てて腰から九十度に体を折り曲げる。
「す、すみません! ぼうっとしてて……」
「ああ、いや俺も……って、お嬢さんか?」
聞き覚えのある声が降ってきて、思わず顔を上げる。私の視界に入ってきたのは艶やかな烏の濡れ羽色の髪、特徴的な丸眼鏡にきりりとした面差しの――
「忍足、先輩?」
「ああ、やっぱお嬢さんか。学園祭ぶりやな」
言いながら忍足先輩は私と視線を合わせてくれる。
「はい、その節は大変お世話になりました」
「それはこっちのセリフやろ? お嬢さんのおかげで氷帝が優勝できたんやし」
「いえ、私はただお手伝いをさせていただいただけですし」
「お嬢さんは相変わらずやな」
「……? えーっと……」
どう答えたらいいか考えあぐねている間に、先輩はそういえばと話題を変えてくる。
「昼休みにこんなところにいるいうことはお嬢さんも先生に呼ばれたんか?」
「あ! はい、そうでした! もってことは忍足先輩も先生に呼ばれたんですか?」
「まあそんなとこや」
そこで忍足先輩は小さくため息を吐きだす。どうやらこの呼び出しは先輩の気をかなり重くさせているらしい。考えてみれば先生からの呼び出しで気を重くしないということもないだろうけれど。
「ほな、またな」
「え? あ、はい……また?」
またな。
それはまるでまた会えることを予感させるような言葉。
もちろん同じ学校に通っているのだからどこかでは会えるのだろうけれど、だけどそれは通っている人数も多ければ校舎も広いこの氷帝学園では少しばかり難しい話なんじゃ……?
それに忍足先輩は三年生。私は二年生。学年が違えば受ける授業も違う。移動教室に向かう途中かこうして昼休みに示し合わせでもしない限り――今回は完全に偶然だけれど、会うことすらままならないんじゃなかろうか。
私が首を傾げている間に忍足先輩は職員室の扉をノックして入っていってしまう。
結局その言葉の真意を訊くことはできず、なんとなくモヤモヤしたものが心の奥底に残った。 
◇二
「お嬢さん」
忍足先輩と偶然再会を果たした次の日。
昼食を早めに終え、図書室に借りていた本を返しに行く途中、背中に声がかかる。
この、聞き覚えのある落ち着いた声色はあの人だろう。そもそも私のことをお嬢さんなんて呼ぶ人はこの学園に一人しかいない。
確信を持って、ゆっくり振り返る。
「忍足先輩」
振り返った先にいたのはやはり忍足先輩だった。
「また会うたな」
「はい」
「その様子だと図書室に本返しに来たってとこか?」
「そうです」
端的に返事をしたせいか、会話がそこで止まってしまう。だけど止まった会話を再び続けられるほどの時間的余裕は私にはなくて。
いくら昼食を早めに終えたとはいえ昼休みはそんなに長くはない。腕時計をしていないから正確な時間はわからないけれど、おそらく午後の授業が始まるまであと十分もない。これから本を返して教室に戻って授業の準備をして、というのを考えるとぎりぎり間に合うかどうかというところ。
それじゃぁ、と頭を下げようとしたタイミングで忍足先輩の口が開く。
「その本」
「え?」
忍足先輩の視線は私の腕の中にある本に向けられている。
「その本、おもろいよな」
その表情は嘘偽りのない本物で。それに引かれるように私も笑みを作る。
「あ、はい。とても面白かったです。今は時間がないので仕方がないんですけど今度この続きを借りようかと思ってて」
「え?」
忍足先輩がいつもよりも少しだけ目を見開いて驚いている。それは演技とかではなく、本当に知らなかったようで。
「それ、続きあるん?」
と僅かに首を傾げている。その仕草が先輩らしからぬというか、妙に幼く見えて何故か胸が高鳴る。これがギャップっていうやつなのかな。……いや、違うかもしれないけれど。
「はい。この作品、三部作らしくてあとこのほかに二冊あります」
「なんやて。そら知らんかったわ」
「ただ、タイトルが全然違っててこの作品が三部作だって知ってる人は少ないって聞きました」
「そうなんか」
そらエエこと聞いたわ、と忍足先輩は何かを考えるように右手を顎の下にやる。数秒そうしていたかと思えば、
「お嬢さん、今日の放課後時間あるか?」
とまっすぐ私に視線を投げてくる。一瞬何を言われたのか頭が理解できなくて、ぱちぱちと二度ほど瞬きをしてからようやく理解する。
「え? はい、あります、けど……。あれ? でも忍足先輩今日部活はないんですか?」
「今日は朝練だけやからな。午後は空いとるんや」
「そうなんですか」
「お嬢さんの時間が大丈夫ならその続きの本を探すの手伝ってほしいんやけど」
「それは構わないですけど……」
「けど?」
「あ、いえ。私も続きを……」
読みたいなって思いまして、とは最後まで言い切れなかった。先輩相手にこんなことを言うのはさすがに図々しいんじゃないかと思う心が言葉を途中で切ってしまった。
けれど私の思いに反して忍足先輩は、
「なんやそんなことか。お嬢さんが先に読んでエエで。俺は後で構へん。ちゅうかお嬢さんが今持ってるその本を読み返したいから先にそっち読ませてくれ」
と快い返答をくれる。
まさかそんな返答をもらえるとは思ってもみなくて、今度は私の方が目を丸くする番となる。
「お嬢さん?」
私がいつまでも呆けているものだから忍足先輩から心配するような声がかかったタイミングで、廊下に響き渡るのは予鈴のチャイム。唐突に意識がそっちへ引っ張られる。
思わず腕の中にある本と図書室の方向を交互に見る。予鈴が鳴ったということはあと五分足らずで午後の授業が始まってしまうということ。これから図書室に行って本を返却して、なんてやっていたら確実に授業に遅れてしまう。
本を返却するのは放課後にするしかないと一瞬にして判断を下し、そういえば――と忍足先輩を見上げる。
「すまんな、お嬢さん。その本返しに行こ思てたんやろ」
「いえ、それは大丈夫です。それよりも忍足先輩は何か用とかなかったんですか?」
「? いや、ないで。お嬢さんの姿を見つけたから声かけたんや」
「そうだったんですか?」
「ああ。そうや」
意外というか、なんというか。てっきり忍足先輩もこっちの方に用事があるものかと思っていたのに。
それに二週間という長いようで短い期間しか一緒に活動しなかった私のことなんてすっかり気にも留めていないと思っていたのに。それなのに先輩はわざわざ、私を見かけたからという理由で声をかけてくれた。
それがとても嬉しい、と思う反面どうして? と思うところでもあった。
どうして先輩は私のことを――たった二週間しか一緒に活動しなかった私のことをこうも気に留めてくれているのだろう。
「とりあえず続きは放課後っちゅうことで」
「はい」
それじゃぁ、と忍足先輩と別れて、私は普段は駆けない廊下を駆けた。

帰りのホームルームと掃除を終えて急いで来たというのに、放課後、図書室の前へ赴くともうそこには忍足先輩の姿があった。慌てて先輩のもとへと駆けて行くと、「走らんでエエよ」と窘められる。
「お待たせしました!」
「ん? ああ、待ってへんよ。俺も今来たとこや」
忍足先輩は緩く笑って迎えてくれる。その表情に胸が小さく鳴る。
こんなことを思ってしまっては失礼なのはわかっているけれど、忍足先輩って笑うんだ……。
いつもクールな表情をしているからてっきりあまり笑わない人なのかと思っていた。
「それじゃ行こか」
「あ、はい!」
忍足先輩に先導されるような形で私たちは図書室の扉をゆっくりと押し開く。
まだ暑い日が続いているからか、図書室内は若干冷房が効いていて駆けて少しだけ火照った体をゆっくりと冷やしていく。
ほっとしたのも束の間、忍足先輩の視線が私へと降ってくる。
「お嬢さん、本返しに行くんやろ。その後借りたいから一緒におってもエエか?」
「はい、構いません。じゃあ先に返却を済ませちゃいますね」
「せやな」
短くやり取りを終えてカウンターへと向かう。返却手続きを済ませ、次に忍足先輩が貸し出し手続きを行っている間に、迷った視線が先輩の横顔を捉える。
忍足先輩って横顔も綺麗だなぁ……。
私の視線に気付いたのか、忍足先輩が何やら恥ずかしそうにこちらへ顔を傾ける。
「なんやお嬢さん。俺の顔に何かついとるか?」
「あ、いえ……。何でもないです」
「そない熱い視線向けられると恥ずかしいなぁ」
「えっ、あ、その……」
「冗談や」
ゆるりと笑って忍足先輩は貸し出し手続きを終えた本を受け取ると、顔だけでなく体ごと私の方へ向き直る。
改めてこう相対すると先輩ってかなり身長が高いんだなぁ……。ちゃんと目を合わせようと思うと首を上へ傾けないとだめだし。
そんな私の思考を知る由もない先輩は、私がじっと見ているものだから不思議そうにこちらを見下ろしている。
「お嬢さんはホンマ俺のこと好きやな」
「えっ!?」
「冗談やって」
ははは、と忍足先輩は笑うけれど冗談として流してしまうにはその瞳はなんだかまっすぐで。どうしたらいいかわからなくて言葉に詰まる。
そうして先輩と私の間に沈黙が訪れる。その沈黙にもどうしたらいいかわからなくて、私の口はただ開くだけで音を発することができない。
「お嬢さんはおもろいな」
「お、忍足先輩が変にからかうからです……!」
「そうか?」
「そうです!」
図書室で話すにはやや大きい声で反論してしまい、一斉に他の人の注目を浴びてしまう。恥ずかしくなって逃げ出したくなったけれどそうしたらここに来た目的を半分しか果たせず終いになってしまう。
逃げ出すのは簡単だけれど、後日のことを考えると二度手間だし、何より忍足先輩の貴重な時間をそう何度もいただけるわけではない。ここは自分の羞恥は我慢して目的を果たさなければならない。
「忍足先輩、こっちです!」
半ば強引に忍足先輩の手を引いて、目的の本がある場所へと誘導する。急に手を引かれたからか、先輩は少々バランスを崩したみたいだけれど、そこは持ち前の運動神経でうまく体勢を立て直してくれる。
申し訳なさを心のうちに抱えながらそれでも足を止めることはしないしできない。
いくつか本棚を抜けてたどり着いた先は洋物の物語が置いてある棚。そこの一番上の段に私と忍足先輩が求めている本がある。
「えっと、あそこです」
言いながら背伸びをして本を取ろうと試みる。けれど私の身長ではあと少しというところでぎりぎり届かなくて。けれど何とかして取ろうと限界まで背伸びをし――
「あれとあれか?」
たところで忍足先輩の声が降ってくる。振り返るよりも前に背後から手が伸びて目的の本を二冊とも取って渡してくれる。
「ありがとうございます」
「…………」
真後ろから感じる忍足先輩の気配はなんとなくわかり辛くて、けれど振り返ろうにも殆ど密着しているような状態だからかそれもかなわない。どうしようもできない状況下でもとりあえず何か言わなくては、と口を開く。
「あの……? 忍足、先輩?」
「ん? ああ、すまんな」
「あ、いえ……」
すっと忍足先輩の体が離れる。それが少しだけ名残惜しい……とは思わないけれど、変に意識してしまいそうになる。そういえば前に読んだ少女漫画でこんな場面があったような――。
思い出した途端に心臓がこれでもかとドキドキと脈打つ。
よかった。忍足先輩の体が離れてくれて、この心臓の音が聞こえなくて本当に良かった。
「本、取ってもらってありがとうございます」
「ああ、ええよ。お嬢さんじゃあの場所は届かんかったろ」
なるべく平静を装って会話を続けようと思うけれど、先ほどの一件があってか若干声が上擦ってしまう。けれどそれは本当に微妙な程度だったからか、忍足先輩は特に気にすることなく続けてくれる。
「それが例の本か?」
「はい」
「お嬢さんが読み終わったら借りたいわ」
「はい、ぜひ」
「まあ、まずはこっちの本を読み返さんとあかんのやけど」
そう言って、忍足先輩は自分の腕の中にある、先ほどまで私が持っていた本に視線を落とす。ハードカバーのそれは先輩の腕の中にあることがまるで自然とでもいうようにとても先輩に似合っていた。テニスプレイヤーである先輩に、本が似合うと言っていいものかわからないところではあるけれど、でもとにかく先輩とその本はとても絵になっている気がする。
「それじゃあ読み終わったらご連絡しますね……って、あ……」
「そうや、俺たちまだお互いの連絡先知らんのやな」
「そういえばそうですね……。学園祭の時は電話するよりも会って話したほうが早いからって連絡先交換してなかったですし」
「とりあえずその本借りて、諸々はその後の方がええやろな」
「そうですね。図書室で携帯をいじるのもよくないでしょうし」
取ってもらった本を抱えて再びカウンターへと向かう。貸し出し手続きをしてもらってそれらを鞄にしまう。結構ずっしりと腕に重さがのしかかってくるけれど、これは決して苦痛の意味ではなくむしろ逆で。鞄が重くて嬉しいというのも変な話ではあるけれど、今からこれを読むのが楽しみでならない。その気持ちが表情にも出ていたのか、忍足先輩には「嬉しそうやな、お嬢さん」なんて言われてしまう。
図書室から廊下に出て、緩んだ頬を一度引き締めて、先輩に向き直る。
「あの、忍足先輩」
「ああ、これが俺の番号とメアドとメッセージアプリのIDや」
皆まで言わずとも忍足先輩は意図を汲み取ってくれたのか、一枚のメモを差し出してくる。
まるで事前に準備していたかのような手際の良さに一瞬受け取るのを躊躇ってしまうほど驚く。けれどいつまでも呆けたままではいられない。ありがとうございます、とそれを受け取ってこちらもメモ紙がなかったからノートを切って電話番号、メールアドレスを記して渡す。
「お嬢さん、メッセージアプリ使うてないんか?」
「あ、はい。私まだガラケーなので」
「そうか、それならまあ楽しみが一つできてええわ」
「楽しみ、ですか?」
「ああ、気にせんでええ。こっちの話や」
「はぁ……?」
忍足先輩はそれ以上この話題には触れず、渡したノートの切れ端を大事そうに折りたたんでポケットにしまう。その一連の動作に不思議と胸が締め付けられる。まるでとても愛おしいものを見たときのような、そんな感覚に陥りそうになる。
「お嬢さんは帰り電車か?」
「いえ、徒歩です。でも駅の方に帰ります」
「ほんなら途中まで一緒に帰ろか」
「はい」
図書室から昇降口までを歩きながらそんな会話を交わす。
上履きから靴へと履き替えて視線を上げると、空はすでに茜色に染まっていた。そんな長い時間を図書室で過ごしていたとは思わなかったけれど、こうして実際に空模様を確認すると時間の流れの早さに驚く。
「もう日が暮れ始めてるんですね」
「せやな。楽しい時間はあっちゅうまやな」
「え……っと、楽しいと思ってくれていたんですか?」
忍足先輩の意外な言葉に私は目を丸くする。本の貸し借りしかやっていないし、まさかそんな風に思ってくれていたなんて思いもしなかった。
「楽しい思てなかったらすぐに帰っとるわ」
俺、そこまでお人よしやないで。
そう言って、忍足先輩は何かを考えるような素振りを見せた後何でもないようにくるりと踵を返して歩きだす。
今の間はいったい……?
そこを問うていいものか悩んで、結局私は口を噤むことを選択する。
忍足先輩の後を追って私たちは他愛もない話をしながら帰路についた。 
◇三
それから一週間が経った。
忍足先輩に本を読み終えた連絡をしたら、ちょうど先輩も急遽職員会議が入った関係で午後の部活がなくなったらしく、放課後にまた図書室前に集合となった。
前回と同じく掃除をなるべく早く終わらせて、図書室までの道のりを早歩きで進んでいく。けれどやっぱりというか、私が図書室の前に到着した時には忍足先輩の姿はもうすでにそこにあった。
「忍足先輩、早いですね」
「そうか? 俺も今来たとこやで」
「確か前回の時もそう仰ってましたね」
「お嬢さん記憶力エエな」
忍足先輩は緩やかに笑う。先輩の笑みはいつも私の心を擽って、そして放してくれないのはどうしてだろう。
「それじゃ行こか」
「はい」
二人一緒に図書室の扉を開く。と、カウンターにいたのは前回と同じ図書委員の男の子。彼は私たちを一瞥した後、まるで興味がなさそうに視線を元あったところへ戻す。
前回と同じく私が先に借りていた本の返却を済ませ、その後忍足先輩が先週借りていた本の返却と私が借りていた本の貸し出しを済ませる。
「これでおしまいですね」
「せやな」
そう、これでおしまい。
忍足先輩との本のやり取りもメールのやり取りもこうして会話を交わすのも、これでおしまい。
忍足先輩と本の話をできてよかった。
忍足先輩とメールのやり取りをさせてもらえて楽しかった。
忍足先輩とお話しできて嬉しかった。
それが終わってしまう。
それが、寂しい。
それが、悲しい。

…………どうして?

どうして寂しいの?
どうして悲しいの?
自分の中に芽生えた感情がよくわからない。
「お嬢さん? 暗い顔してるみたいやけど、どうかしたか?」
「え?」
忍足先輩に指摘されて初めて自分がそういう表情をしていることに気付く。
私、忍足先輩にそう言われるほど暗い顔をしてたんだ……。
これ以上心配をかけさせまいと瞬時に笑みを作る。
「大丈夫ですよ。何でもないです」
「…………」
「あの、忍足先輩?」
急に無言を貫かれてしまうと反応に困ってしまう。
どこかむっとしたその表情は何かに怒っているようでもあって。
もしかして知らない間に私が忍足先輩を怒らせるようなことをしてしまったのかもしれない――と自分の行動を振り返ろうとしたところで忍足先輩の表情がふっと軽くなる。
「あんな、お嬢さん。これからも連絡してもエエか?」
「え? あ、はい」
思わず頷いてしまったけれど、いま、忍足先輩、なんて? 連絡してもいいか、とそう、訊ねられたのだろうか。
二度ほど瞬きをしてから言葉が脳内に浸透してくる。
「そうか、よかったわ」
そう、忍足先輩は安心したように笑う。その笑みが私の心臓をじんわりと見えない手で優しく包んでいくような感覚を覚えて仕方がない。胸が、苦しい。ぎゅっと締め付けられたみたいに。
「……はい」
絞り出した声は、忍足先輩には届かずにゆっくりと落ちていってしまう。それを拾おうともう一度息を吸った時だった。
「いつまでそこでいちゃついてるんですか?」
突然割り込んできた第三者の声に私も、そして忍足先輩も驚いてその声のした方向へ顔を傾ける。――と、そこにいたのは冷めきった視線を向ける図書委員の男の子だった。
そうだった、本の返却と貸し出しをしてそのままその場で立ち話をしてしまっていたんだっけ。
「ご、ごめんなさい」
「なんや、羨ましいんか」
私と忍足先輩の反応は全く違ったもので。忍足先輩の言葉に図書委員の男の子は少しだけムッとした表情を浮かべた後、
「いえ」
と、争うだけ無駄だと察したのか表情を消して視線を切ってしまう。
流石に一度騒いでしまった手前、これ以上この場にいることもできなくなってしまった。けれど図書室でやるべきことも終えてしまったし退出するにはいい頃合いなのかもしれない。忍足先輩も同じことを考えていたようで、
「そろそろ帰ろか」
「はい」
短く会話を終えて、忍足先輩の後を追って図書室を後にする。後ろ手で扉を閉めて視線を上げると、忍足先輩と視線がかち合う。
「お譲さんは確か徒歩やったよな。ほな途中まで一緒に帰ろか」
「はい」
二人並んだ帰り道。伸びる影はこの間よりも近づいているように見えた。 
◇四
ベッドの上で携帯電話が音を立てる。その音はあの人専用のメール着信音。フリップを開けてメールを確認する。
『夕飯終わったで』
短いメールだった。用件を伝えるだけの、本当に短いメール。それは私たちの間でのメールのやり取りの合図になっていた。
『今日の夕飯は何だったんですか?』
『麻婆豆腐や』
『いいですね。私の家は今日はロールキャベツを作りました』
『ロールキャベツか。エエな』
電話で話せば一分もかからないやり取りをメールを介してやっていることに、若干のもどかしさの様なものはある。けれど、これはこれで楽しいし、メールなら忍足先輩の好きな時に返してもらえる。部活で日々忙しくされているのにその上電話の相手をしてもらうなんて申し訳ないにも程がある。
本当のところを言えば、忍足先輩と電話をしてみたい気もするけれど。でも恋人でもない友達でもない、ただの先輩後輩の間柄でそんな要求、できるはずがない。だってこれは私が一方的に思っているだけのことなのだから。
「美、味、し、かっ、た、で、す、よっと……」
返信内容を口に出してボタンを押し込んでいく。カシ、カシ、カシとキーが押し込まれる音を聞き、返信内容を今一度確認する。
大丈夫……かな? うん、大丈夫。
送信ボタンを押してフリップを閉じると、ベッドに腰かけて手の中にある携帯電話を見下ろす。
「…………」
どうして、なんだろうなと思う。
どうして、忍足先輩は私とメールのやり取りをしてくれるのだろう。もう、本の貸し借りに必要なやり取りは終わったというのに。
もしかしてこういう、雑談めいたメールを送る相手が欲しかった、とか? あり得るようなあり得ないような。でも忍足先輩程人気があってお友達も多そうな人に限ってそれはない、か……。
じゃあ、女友達が欲しかったとか? でも私は後輩だし友達というのは対等な関係を言うのであって、私では到底そんな関係にはなれない。
どうして? どうしてですか、忍足先輩。
それを訊いてしまってはいけない気がして、というよりも訊いて、気まぐれだみたいな返事をもらうのがきっと怖い――んだと思う。少なからず私はこのメールのやり取りをさせてもらえていて嬉しさを感じているのは事実で。忍足先輩からのメールの着信音が鳴るのが待ち遠しくて。
そんな私の一方的な気持ちを拒まれてしまうのが怖いんだと思う。拒まれて、否定されるのが怖い。私のささやかなこの気持ちをどうか傷つけないでほしい――というのは自分勝手な願いだっていうのはわかっている。わかっているけれど、でも……。
ぐるぐると気持ちが回ってきたところで携帯電話がメールの着信を知らせる着信音を響かせる。フリップを開いて中身を確認する。
『料理はお嬢さんがするんか?』
忍足先輩のメールはまるでその場で話しているかのように感じられる。というのも、メールが関西弁で打たれているからなのだろうと思う。
関西弁も打つの大変だろうになぁ、とは思うけれどそれは口には出さないしメールにも乗せない。それは忍足先輩の拘りなのかもしれないのだから。
「は、い……っと。送信」
送信ボタンを押して無事送信完了画面になったところでフリップを閉じ――ようとしたところで再びメールの着信音が響く。随分早い返信を不思議に思いながら閉じかけていたフリップを開いてメールを開く。
『今度食べさせてや』
内容を見て、一瞬頭が真っ白になる。
え……っと? ん? んん?
首を傾げて、何度も瞬きをして、今一度忍足先輩の返信を見つめる。けれどその文字は一文字たりとも変わってはいない。やっぱり画面に映し出されているのは『今度食べさせてや』だった。
「食べさせて……ってことは、えーっと?」
未だに思考が半停止した状態でそれでも状況を整理しようと言葉を口に出すけれど、全然整理どころか混乱を極めるばかり。
「……言葉の通り、なのかなぁ」
それは所謂、社交辞令ではなく、言葉そのままの意味なのかもしれない。
そもそも忍足先輩は社交辞令とか使うタイプの人ではない気がする。
それなら――。
『わかりました』
およそ十分かかって作った返信は無事に忍足先輩の元へとたどり着く。
「……っ」
ベッドに体を倒す。ぼふっと布団が優しく体を受け止めてくれる。
送ってしまった。もう後戻りはできない。
心臓がどきどきと大きく鼓動する。
「メールを送っただけなのになぁ……」
自分の左胸に手を当てる。そこは未だに早鐘を打っていて若干苦しさもある。
そう。本当にメールを送っただけでこの有様。
これじゃ、まるで……。
「恋、してるみたい」
こぼした言葉が、予想以上に現実味を持って返ってくる。
「……恋、してるのかな? 忍足先輩に」
思い返してみればその予兆らしきものはあった。というかここまできて漸く自分の気持ちを再確認することになるなんて。
「そっか、私、忍足先輩のこと、好きなんだ……」
だからこうしてメールのやりとりができて嬉しいんだ。
だからあの時――本のやりとりが終わってしまったあの時、寂しくなったんだ。もうこれで忍足先輩とお話しする機会がなくなるから。
そっか。そうだったんだ。
やっと、分かった。
それから一分もしないうちに忍足先輩からの返信が届けられる。
恐る恐るフリップを開いてメールの中身を確認する。
『ありがとなぁ。なら今度食材費払うから作ってきてくれるか?』
その返信は私の想像を遥かに超える嬉しさとともにやってきた。
一人、携帯電話に向かって笑みを漏らす。満面の笑みを。
『私、いつもちょっと多く作りすぎちゃうので食材費は頂かなくても大丈夫ですよ』
『そういうわけにはいかん。ちゃんと言うてや』
『いえ、本当に大丈夫です』
『そんならせめて何かお礼させてな?』
返信を打つ指が再び止まる。
お礼、と言われても思いつくものはないし、こうしてメールのやりとりをさせてもらえているだけで十分すぎるほどのものを忍足先輩からは頂いている。むしろこれ以上何かを求めてしまってはバチが当たるというもの。だからその気持ちを素直に言葉に乗せる。
『こうしてメールをさせていただけているだけで十分です』
送信ボタンを押して一つ息を吐き出す。
そう、本当にこうしてメールのやり取りをさせてもらえているだけで心が満たされている。これ以上はキャパシティがオーバーしてしまう。
もう一度息を吐き出したところで、携帯電話が着信を知らせる。けれどそれは聞きなれた音ではなくて。長い時間鳴り続けるそれは電話の着信を知らせていた。
「こんな時間に誰だろう?」
画面に映し出された名前を見て、目を丸くする。
「忍足、先輩?」
急いで飛び起きて通話ボタンを押し込んで受話口を耳に当てる。
「は、はい……!」
「あー、えっと、忍足やけど」
「はい、ど、どうかされましたか?」
「いやな、メールもエエんやけどやっぱ俺、電話の方が好きやから。今電話大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「そうか、よかったわ」
電話口の忍足先輩はどこか安心したように一つ息を吐き出す。
「お嬢さんはメールの方がエエかもしれんけど」
「いえ……じ、実は私も忍足先輩とお電話してみたいと思ってましたので」
「そうか? そら尚更よかったわ。それでさっきの話やけど、なんや欲しいものとかないんか? ご馳走になるんやから俺にできる範囲でお礼させてな」
「いえ、本当にお礼をして頂く程のものではないですし」
「これやと堂々巡りやな」
「そうですね」
「…………」
「…………」
会話が一度止まってしまう。このままでは永遠と同じ問答の繰り返しになってしまう。だけど本当にお礼なんて必要ないのは事実で。
数秒無言が続いたところで忍足先輩が恐る恐るといった感じで言葉を紡ぐ。
「そういえばさっき、お嬢さん俺とメールしてるだけで十分やてメールで言うてたよな?」
「はい」
「それって、その、俺とのメールが楽しいからって意味でエエんか?」
「……はい」
ここで嘘をつく理由も必要もないから正直に頷く。頷いたところで忍足先輩にそれが見えるわけではないのだけれど。
「……そうか。嬉しいこと言うてくれてありがとなぁ。お礼になるかどうかはわからんけど、これからもメールとか電話、してもエエか?」
「もちろんです!」
「お嬢さんは素直でエエ子やな」
「えっ、あ、その……」
食い気味で答えてしまったことにより恥ずかしさから言葉が詰まってしまう。は、恥ずかしい……。
「なぁ、お嬢さん。……いや、なんでもないわ。夜遅くに電話して悪かったな」
「いえ、こちらこそお疲れのところメールのお相手をして頂いてありがとうございました」
「おやすみ。お嬢さん」
「はい、おやすみなさいです。忍足先輩」
名残惜しい気もするけれど、これ以上忍足先輩の貴重なお時間をいただくわけにもいかない。終話ボタンを押してフリップを閉じる。
耳に残る忍足先輩の声に、私の胸は張り裂けそうだった。

◇五
忍足先輩との電話から数日後。ついにその日がやってくる。
流石にどちらかの教室で実行に移すわけにもいかず、昼休みに廊下で待ち合わせをして忍足先輩にタッパーを渡す。
わがままを言ってもいいのなら食べてもらってその場で感想が欲しかったけれど、テニス部でも人気のある忍足先輩とそんなことをしたらたぶん大変なことになりそうなのは容易に想像できた。なのでタッパーを渡して教室に持ち帰ってもらってから食べてもらうのが一番の良案だった。
「ありがとなぁ」
「い、いえ……、お口に合えば幸いです」
一言二言会話を交わして、頭を下げてその場を後にする。
自分の教室に戻って、持ってきていたお弁当を食べるも不安と緊張とがごちゃ混ぜになった私の心中はどうにも表現のしようがないくらいぐちゃぐちゃになっていて、なかなかそれは喉を通ってくれなかった。ようやく全部食べ終えたころには昼休みも半分以上が経過していた。
一度大きく深呼吸をしてから携帯電話のフリップを開き、メール作成画面を呼び出して、文字を打ち込んでいく。
『お口に合いましたか?』
うん、大丈夫……なはず。
よし、と意気込んで送信ボタンを押し込む。送信完了画面になったところでフリップを閉じる。
家族以外で――しかも私が一方的に好意を寄せている人に手料理を食べてもらうのってこんなにも緊張するんだなぁ……。
一つ息を吐き出したところで携帯電話がメールの着信を知らせ、震える。フリップを開いて恐る恐る中身を確認する。――とそこにあった文面に私の頬は緩みそうになる。
『めっちゃ美味かったで』
それは何よりも嬉しい言葉で、それだけで心中に渦巻いていた不安も緊張も一気になくなる。その勢いのまま返信を打ち込む。
『本当ですか!?』
『嘘ついてどないすんねん。お嬢さんは料理上手なんやな』
『ありがとうございます』
『タッパー洗って返すな』
『そのまま返していただいて構いませんよ?』
『それはアカンやろ。ちゃんと洗って返すからまた今度作ってきてくれるか?』
忍足先輩の返信に涙が出そうになるほど嬉しさで胸がいっぱいになる。
ああ、いま、私とても幸せだ……。
「…………」
どう返信しようかと悩んでいる間に昼休みの終わりを告げるチャイムが教室内に鳴り響く。
返信を出せなかったことに若干の申し訳なさを感じつつも、仕方なしに携帯電話をしまって五時間目の授業の準備をする。教科書とノートを机から取り出して、忍足先輩への返信を一度保留にして、頭を授業に切り替えた。

「それじゃ、広瀬。これ職員室に持ってきてくれ」
「わかりました」
授業終わり、つまりは放課後なのだけれど――先生にクラス全員分のノートを持ってくるよう指示された。
手伝おうか? と何人かに言われたけれど、これくらいなら大丈夫と笑顔で返す。実際少し嵩張るだけでそんなに重量はなかったし、あまり力のない私でも十分に持てる量だった。
教室から職員室までの距離は少しばかりあって、よし、と自分に気合を入れる。ノートを持ち、教室を後にする。
日が差し込む廊下はまだ少し暑くて、汗ばむ程ではないけれど早めに職員室に行きたいと思う気持ちはある。
ふと思い出したかのように頭に浮かぶのは――。
「……忍足先輩に返信打たなきゃ……」
「そんならここにおるから直接言ってくれればエエで」
「えっ?」
独り言のつもりだった。否、だったなんて過去形ではなくて、現在進行形で私はそれを独り言のつもりで口にした。なのに、その独り言に反応が返ってきて、驚いてノートから視線を上げる。――と、いつの間にか隣には忍足先輩の姿があって、手にしていたノートを取り落としそうになる。
「お、忍足先輩……!」
「よぉ、お嬢さん。奇遇やな。ちゅうかそれにしてもエライ量のノートやな。大丈夫か?」
「あ、はい! 大丈夫ですよ。見た目程重くないですし」
「さよか?」
「はい」
「お嬢さんがそう言うならこれ以上言うんは野暮やな。……で、メールの返信やけど」
と、忍足先輩はにこりと笑みを作り私にメールの返信をこの場で求めてくる。
歩きながら周りを見つつ、忍足先輩と視線を合わせつつ、というのはなかなか難しいもので。せめて足を止めてゆっくりお話しさせてもらえたら――と思うけれど、手にしているノートを職員室に届けるという使命があるからそれも叶わず。仕方なしに周りに人がいないか、ぶつからないかを常に確認し歩きながら会話を続けるしかない。
「えっと、その……作るのは別に構わないです」
「ほんまか! そら嬉しいわ」
「そう言っていただけて私も嬉しいです」
「お嬢さんの作ってくれた料理、ほんまに美味かったで。毎日でも食べたいくらいや」
まっすぐ向けられた視線と言葉に心臓がひときわ大きく鼓動する。
「そんなに褒めていただかなくても……」
何とか紡ぎ出した言葉は尻すぼみになって消えていく。けれど忍足先輩はちゃんとそれを拾ってくれて、
「誉め言葉は素直に受け取っとくもんやで」
と、にこりと笑む。
「は、はい……」
「エエ子や」
さらり。
一瞬何をされたのかわからなくて、咄嗟に足を止め、目を大きく見開く。
え……? いま、頭、撫でられた?
理解が追い付いた時にはもう忍足先輩の手は私の頭を離れていて。ぱち、ぱちと二度ほど瞬きをする間に、忍足先輩は私を置いて行ってしまう。
「どうかしたんか?」
三歩先で忍足先輩が首だけをこちらに向けて佇んでいる。その表情は何事もなかったかのような、驚いている私の反応の方がおかしいと思えるような、そんな自然なもので。
「あ、いえ……なんでも、ないです」
そう言うのが精一杯で。
縫いとめていた足を動かして、再び忍足先輩に並ぶ。
だけど、どうしても先ほどのことを意識してしまって、結局それ以降忍足先輩の顔を見ることは出来なかった。 
◇六
「静ー! 聞いてよ!」
「え? あ、うん。どうかしたの?」
今日も忍足先輩にタッパーを渡して自分の教室に戻ってくると、突如友人がお弁当を持って机に突進してくる。何事かと驚きながら着席して友人にも着席するよう促す。向かい合うような形で座り、鞄から自分の分のお弁当を取り出す。
巾着を開けてお弁当箱とお箸入れを取り出して机の上に並べて、手を合わせて少し遅くなってしまった昼食を始める。
「えっと、それで何かあったの?」
卵焼きを箸で二つに切って片方を口に入れる。優しい甘さがじんわりと口に広がる。今日も美味しくできてよかった。
私の促しに友人は一度口を引き結んでから、何かを決心したかのような視線を私に向ける。これから聞く話が余程友人にとってショックが大きかったことが容易に想像できた。
「忍足先輩……」
「忍足先輩ってテニス部の?」
「そう」
なんだか嫌な予感がする。直感的にそう思ったけれど、訊いてしまった手前今更戻ることなんてできるはずもなくて。
「忍足先輩が、どうかしたの?」
嫌な予感は気のせいだと自分に言い聞かせて友人の次の言葉を待つ。
だけど、訊くのをやめておけばよかったと私は後悔することになる。
「忍足先輩に、彼女ができたんだって……!」
「え……?」
その言葉に箸を取り落としそうになる。慌てて気を持ち直したはいいけれど、友人同様ショックは大きかったようで、ズキリと胸が痛む。
もしも心を可視化することができたなら今の私の心は大きくひび割れているのかもしれない。否、ひび割れ以上に砕けてしまっているのかもしれない。
ああ、本当に後悔先に立たず、とはよく言ったものだなぁ。

友人からの衝撃の告白を受けてから午後の授業は全く身が入らなかった。
授業が終わって放課後になっても心ここにあらず、といった状態で、夕焼けに染まる空を自分の机から眺めながら昼休みの友人の言葉を何度も思い返していた。
忍足先輩に、彼女……。
友人曰く確たる証拠はないのだそうだけれど、それにしたって火のないところに煙は立たないという言葉もあるくらいだから、全くのでまかせというわけでもないのかもしれない。
こういう話は直接ご本人に訊くのが一番だというのはわかってはいるけれど、生憎私は忍足先輩と同学年ではないし、ただでさえこの広い学園の中でたった一人意中の人を探すのはとても困難を極める話で。
メールで訊けばいいと思いながらも私は携帯電話を取り出せないでいて。
結局のところ自分の心の内でぐるぐると感情が回るさまを感じることしかできない。
「…………」
色々と考えているうちに、そういえば今日も忍足先輩にタッパーを渡したことを思い出す。
……あの話が本当なら、私はなんてことをしてしまったんだろう。
彼女さんがいらっしゃるのに手料理を渡すなんて……。私が彼女さんの立場だったなら――少なくともいい気分はしない……と思う。もしかしたら嫌だ、と思うのかもしれない。実際私に恋人がいないから推測でしか言えないけれど。でも推測ですらこんな気持ちになるのだから、実際の彼女さんはもっと嫌な気持ちになっているのかもしれない。
「私……最低だ……」
ぽつりと吐き出した本音。今度ばかりはそれを拾ってくれる人は傍にはいない。
ぎゅっと胸を押さえて口を引き結ぶ。と、ぽろりと雫が一滴零れ落ちる。それが涙だと気付いたころにはぽろぽろと次から次へと零れ落ちて、机の上に小さな水たまりを作っていた。
慌ててハンカチで拭うけれどとめどなく溢れ出る涙は止まることを知らないようだった。
「……っ」
知らなかったとはいえ彼女さんを嫌な気持ちにさせてしまったことが。
手料理を美味しいと褒めてもらったことで良い気持ちになってしまったことが。
そして何より忍足先輩には好きな人がいたことが悲しかった。
片思いだってわかっていたはずなのに。
本の貸し借りやメール、電話のやり取りも全部忍足先輩が優しくて気を遣ってくれたからだって本当は心のどこかで分かっていたはずなのに。
それなのにほんの少しでも期待してしまった。
悪いようには思ってくれてはいないのかもしれない、と思ってしまった。考えてしまった。想像してしまった。
「…………」
いつの間にか涙は止まったけれど、心にかかった雲はなかなか晴れてはくれない。
けれど、もうそろそろ帰らなければ門が閉まってしまう。帰り支度を整えて昇降口へと向かう。
廊下も教室も殆どが消灯されていて夕焼けの光が窓から差し込んできて道中を赤く染めている。
こんな時間まで居残ったのは学園祭の準備以来だっけ……。
今はもう遠い昔のような感覚になりつつある合同学園祭。といっても実際には学園祭が終了してからまだ一月も経っていないのだから時間の流れというのはとてもゆっくりなんだなと思う。
昇降口にたどり着いて下駄箱から靴を取り出す。上履きをしまって靴を履き終えたタイミングで背中に声がかかる。
「……お嬢さんか?」
その声は、いま一番聞きたくない人のもので。
せっかく止まった涙がまた零れ落ちそうになるのを必死に我慢して、ゆっくりと振り返る。
「忍足、先輩」
そこに佇んでいたのは件の忍足先輩で。
ああ、どうしてこのタイミングで会うのだろう。まだ目の腫れも引いていないというのに。
失礼は承知の上で目元を見られないように少しだけ俯く。
「こんな時間まで居残ってるやなんて珍しいな」
「ちょ、ちょっと考え事をしてまして……」
「さよか。ちょうどエエから途中まで一緒に帰ろか」
忍足先輩の提案はとても魅力的ではあったけれど、彼女さんの一件もあるのに二人きりで帰るなんて私にはできるはずもない。手料理ですら彼女さんを嫌な気持ちにさせてしまっているかもしれないというのに一緒に帰るなんて到底許されることではない。
「い、いえ……。ちょっと寄るところがありますので」
「さよか。ほんならまた夜にメール送るわ」
「あ、えっと……」
「なんや、都合悪いん?」
横目に見やれば、忍足先輩の視線はまっすぐ私に向いている。それは私の返事を今か今かと待っているかのようで少しだけ心苦しい。
ああ、私は今からこの人の期待を裏切らなければならないのか。
そう思うだけで心に大きな岩が乗っかる感覚に陥る。けれどここは意を決して言葉にしなければならない。
「今日、もそれからこれからも、その……」
「これから?」
まるで想定していなかったと言わんばかりに忍足先輩の眉が少し顰められる。その表情の変化に心臓がギュッと締め付けられる。
「お嬢さん」
トーンがいくらか落とされた声に小さな声で返事をする。
「はい」
「俺、何かしたか?」
忍足先輩の言葉に返せなくて無言で首を横に振る。
「誰かに何か言われたんか?」
今度は首を振ることができなかった。
「…………」
「ほんま、お嬢さんは素直やな」
苦味を交えた笑みを浮かべて、忍足先輩は何かを考えるような仕草を見せる。そして数秒後、
「誰か、は言わんでもええからせめて何を言われたのかは教えてくれへん?」
その声色は優しくて、じんわりと私の心を溶かしていく。本当なら溶かされてはいけないのかもしれないけれど。
「……彼女さんができたって聞きました。それなのに私、忍足先輩に今日も料理をお渡ししてしまいました……。それどころかメールや電話までして、本当にすみません。謝って許して頂こうとは思いません。私は彼女さんに対してとんでもなく失礼なことを……っ!」
「ちょぉ、待ってや。彼女? 何の話や?」
まくしたてるように言葉を連ねると忍足先輩からストップがかかる。
私もそして忍足先輩も頭の上にクエスチョンマークを何個も浮かべる。
「え?」
「俺、彼女なんておらへんよ」
「え?」
「え? はこっちのセリフやで? いったいどっから彼女なんて話が……って、もしかしてあの時か?」
忍足先輩は何か思い当たる節があるような口ぶりで眉を顰める。何のことだかさっぱりわからない私は忍足先輩の言葉を待つ事しかできない。
「すまんな、お嬢さん。それは、その、俺のせいかもしれん」
忍足先輩が重い口をゆっくりと開ける。
「……? えっと?」
「この前教室でな、お嬢さんから渡された料理を食べてた時についクラスメイトに話してしもたんや。料理上手で可愛えお嬢さんが彼女やったらエエなって。たぶんその話がなんやかんやで俺に彼女ができたって話になってしもたと思うねんけど」
「ええっと……」
未だ混乱する頭ではうまく情報を処理できない。
「それじゃあ忍足先輩には彼女さんはいなくて、それでえーっと……? 料理上手で可愛い女の子が彼女だったらいいなという話が尾ひれがついて彼女さんができたという話になった――と」
「大事なとこがすっぽ抜けとるで」
「大事なところですか?」
どこが抜けていたんだろう? 抜かしたつもりは全くないんだけど……。
「料理上手で可愛え女の子やなくて、料理上手で可愛えお嬢さん、や。そこ間違われたらアカンねん」
「へ……?」
「もうこうなったら雰囲気作りとか言ってられへんな。…………俺はな、おじょ……広瀬さんのことが好きなんや」
「え……、えぇ!?」
一瞬で頬が熱を持つ。それはもう、頬で目玉焼きでも焼けてしまうのではないかというくらい。熱くて真っ赤に染まった頬を、いつの間にか距離を詰めてきた忍足先輩が優しく撫でる。
「学園祭の準備期間の時からずっと気になってたんや。やけどそんな仲良ぉならずに学園祭が終わってしもて、でもずっと好きでな。あの日、職員室前の廊下で偶然再会できたんはホンマ奇跡かと思たわ」
「…………」
「返事、聞かせてもろてもエエか?」
自然と伏せていた視線が上がる。もうこの際腫れ目だとかは気にしない。だってこんなにも忍足先輩からまっすぐな視線を向けられて、それを受け止めないなんてこと私にはできるはずがないのだから。
「わ、私も……好きです。忍足先輩のこと、好きです」
たどたどしくも言葉にしていく。
気持ちを自覚してから今日まで、毎日が楽しくて、幸せで、嬉しくて。そんな気持ちにさせてくれた忍足先輩にお礼を言う意味も込めて、私は私の思いを口にする。
「さよか。めっちゃ嬉しいわ」
にこり、と忍足先輩の表情に花が咲く。それは今まで見た笑顔の中でも一番のもので。私の胸は大きく高鳴る。
「ちゅうわけで、今日は一緒に帰るで」
「えっ、あ、はい」
「メールも電話もするで」
「はい」
「ほな、門閉まるからはよ行こか。静ちゃん」
突然の不意打ちにせっかく引きかけていた頬が再熱する。
「……っ、ず、狡いです! 忍足先輩!」
「侑士、先輩な」
そう言って、おし……侑士先輩は私の手を取る。大きくて骨ばっていて、でも優しくて温かな手。その手に引かれ、私たちは帰路へとつくのだった。 
◆一
栗色のセミロングな髪と大きくて綺麗な瞳。制服から覗く手足は白くて、すらりと伸びている。常に大量の書類とファイルをその小さな手に持ち、あちこちを走り回るも決して疲労を見せることはしない。向けられる笑顔はとても可愛らしくて、見るだけで心が癒される。
それがもう、今日で見られないだなんて。
キャンプファイヤーの火を眺めながら彼女の姿を探すも、どうにも見つからない。それもそうだ。今この場には百人単位の人間がいるのだから。
ああ、会いたい。話したい。
「どこにおるんやろな……」
たった二週間の間だけ。本当に短い期間でしか会えないだなんて。そんなことあるか? 好きになった途端に会えなくなるだなんて、そんな悲しい話があるか?
せめて彼女がテニス部のマネージャーであったなら――と思うけれど、そうでないから今もこうして苦しんでいる。同じ学校だったとしても、うちの学校は通っている人数も多ければ校舎も馬鹿でかい。そんな中たった一人を探し出して、会うことがどれだけ困難なことなのかは火を見るよりも明らかで。
「……お嬢さん、どこにおるんや」
合同学園祭最終日、とうとう俺は彼女を見つけることができなかった。

合同学園祭が終わり、あの忙しない二週間がまるで夢のように思えてきたある日の昼休み。先生に雑用を頼まれ、職員室へ向かう途中のこと。突然背中に軽い衝撃が走る。
「……っ!」
「ん?」
何だろうか、とゆっくりと振り返ると、その先には人影はなく。まさか怪奇現象かと眉を顰めそうになったところで視線の下から声が飛んでくる。
「す、すみません! ぼうっとしてて……」
言われて初めて視線を下に落とす。――と、そこには腰を九十度に折り曲げた人物がいた。
「ああ、いや俺も……って、お嬢さんか?」
驚きつつもちゃんとその姿を見つめると、その人物は見たことのある――もっと言うならあの時からずっと探していた髪色を持っていた。
俺の声に腰を折り曲げていた人物が顔を上げる。そしてそれは確信と変わる。
「忍足、先輩?」
「ああ、やっぱお嬢さんか。学園祭ぶりやな」
「はい、その節は大変お世話になりました」
「それはこっちのセリフやろ? お嬢さんのおかげで氷帝が優勝できたんやし」
「いえ、私はただお手伝いをさせていただいただけですし」
「お嬢さんは相変わらずやな」
相変わらず、丁寧な言葉遣いと物腰の柔らかさ。変わってないんやな。いやまあ、これはもう彼女の性格――生き方なのだからそうそう変わるものでもないけれど。
「……? えーっと……」
俺の言葉にお嬢さんはわずかに首を傾げている。何を言われたのかわかっていないような、そんな素振り。説明する気もないし、この会話をこれ以上長引かせようとも思っていないから、そういえばと話題を変える。
「昼休みにこんなところにいるいうことはお嬢さんも先生に呼ばれたんか?」
「あ! はい、そうでした! もってことは忍足先輩も先生に呼ばれたんですか?」
「まあそんなとこや」
なんであの先生は俺を指名したんだか……、と思ったものだけれど、こうしてお嬢さんと再会できたのだからまあよしとするか。この後に待っている雑用がなければもっといいのだけれど。
小さくため息を吐きだす。
いつまでもこうして話していたいけれど、今日は生憎と先生との先約がある。なのでここは仕方なく話を切り上げるしかない。
「ほな、またな」
言った後に、またなんて機会が限りなく無いことに気付く。ただでさえだだっ広いこの学園で次に会える機会なんて早々ないだろうに。
だけど、今日会えたのだからまた会える確率はないとは言い切れない。それこそ学年は違えども他校というわけではないのだから。
「え? あ、はい……また?」
お嬢さんは俺の言葉に首を傾げている。まあ首を傾げたくなる気持ちはわからないでもない。
できることならもう少しお嬢さんの様子を観察していたいと思いつつも、仕方なしに俺は職員室の扉をノックした。 
◆二
翌日、昼食を終えて自販機で飲み物でも買おうかと廊下を進んでいると、遠くに見覚えのある髪色を見とめる。あの色は間違いない、お嬢さんだ。
なるべく驚かさないように穏やかな声色を心がけて、その背中に声をかける。
「お嬢さん」
「忍足先輩」
ゆっくりとお嬢さんが振り返る。
その腕には一冊の本の存在があった。図書室のラベルが貼ってあるところを見ると、借りた本を返しに行くところだろうか。
「また会うたな」
「はい」
「その様子だと図書室に本返しに来たってとこか?」
「そうです」
あまりにも端的に会話が途切れてしまって、若干のもの悲しさを感じる。自分勝手な思いを吐露していいのであれば、もう少しだけお嬢さんと会話のキャッチボールをしたい。
何か、何か会話の糸口は、と視線を彷徨わせていると、お嬢さんの腕に収まる本に目が止める。
そういえば、この本昔読んで面白かった記憶があるな……。
そう思った瞬間には言葉が口からこぼれ出ていた。
「その本」
「え?」
「その本、おもろいよな」
我ながら後が繋げにくい、というか一言で終わってしまいそうな会話運びに内心ため息を吐きだしてしまう。けれどお嬢さんの反応は俺の予想を少しばかり上回っていて。
「あ、はい。とても面白かったです。今は時間がないので仕方がないんですけど今度この続きを借りようかと思ってて」
「え?」
てっきり一冊で物語が終了しているのかと思えば意外や意外、続きがあったなんて。あの物語に続きがあるのだとしたらそれは読んでみたい。
「それ、続きあるん?」
「はい。この作品、三部作らしくてあとこのほかに二冊あります」
「なんやて。そら知らんかったわ」
「ただ、タイトルが全然違っててこの作品が三部作だって知ってる人は少ないって聞きました」
「そうなんか。そらエエこと聞いたわ」
昔読んで面白いと思った本に続編があったこと。そしてそれを知るお嬢さん。
もしかして今俺は好機を掴みかけているのではなかろうか。
本をだしに使うのは少しばかり気が引けるけれど、でもこれでお嬢さんと話すきっかけを、会う機会を作れるなら。もう同じ学校に通っているという共通点しかなくなってしまった二人の関係性に本という新しい共通点ができれば……。
女々しいのはわかっている。けれどそうでもしなければ、下手したら中等部を卒業するまで、いや今後一切かかわりが無くなってしまいそうで。
俺の一方的な気持ちというのは重々承知の上。それでもこの好機を逃したくはない。今度こそちゃんと仲良くなってそして――。
「お嬢さん、今日の放課後時間あるか?」
まっすぐ、逸らさずに視線を投げる。お嬢さんはぱちぱちと二度ほど瞬きをして、
「え? はい、あります、けど……。あれ? でも忍足先輩今日部活はないんですか?」
と問いを投げ返してくる。
「今日は朝練だけやからな。午後は空いとるんや」
「そうなんですか」
「お嬢さんの時間が大丈夫ならその続きの本を探すの手伝ってほしいんやけど」
心臓がバクバクと音を立てる。もしかしたら断られるかもしれない――と今更ながらそんな不安が頭を過る。いや、お嬢さんさんならきっと大丈夫だろう。
「それは構わないですけど……」
「けど?」
けど、なんだろう。今日は都合が悪いとかだろうか。それならば違う日にでも、と色々と脳内シミュレートをし始めたところでお嬢さんから返ってきたのは予想とは全く違うもので。
「あ、いえ。私も続きを……」
読みたいなって……ところまでは聞き取れた。
ああ、なんだそういうことか。
それなら俺からの返事はこう答えるのがベストだろう。
「なんやそんなことか。お嬢さんが先に読んでエエで。俺は後で構へん。ちゅうかお嬢さんが今持ってる本を読み返したいから先にそっち読ませてくれ」
実際これは事実だった。ぶっちゃけた話をすると、お嬢さんが今手にしているその本の中身も実はうろ覚えなのだ。面白かったという感覚は覚えていても中身を詳細に覚えているわけではなく。それならば先にお嬢さんが持っている本を復習がてら読んでおかないと、続編を読んだところで話が全くわからないだろう。否、全くは言い過ぎかもしれないけれど、それにしたって古いおぼろげな記憶のまま読んだところで面白さは半減してしまう。
俺の返答にお嬢さんは目を丸くする。よほど意外な返事だったのだろうか。
「お嬢さん?」
何秒か呆けたままのお嬢さんを心配になりそっと声をかけ――たタイミングで廊下に予鈴のチャイムが鳴り響く。
しまった、つい長話をしてしまった。
「すまんな、お嬢さん。その本返しに行こ思てたんやろ」
「いえ、それは大丈夫です。それよりも忍足先輩は何か用とかなかったんですか?」
「? いや、ないで。お嬢さんの姿を見つけたから声かけたんや」
本当は自販機で飲み物でも買おうかと思っていたけれど、そこは言葉には出さない。それにお嬢さんの姿を見つけたから声をかけたというのは嘘でもなんでもない純然たる事実なのだし。
「そうだったんですか?」
「ああ。そうや。とりあえず続きは放課後っちゅうことで」
予鈴が鳴ったということはあと五分足らずで授業が始まるということ。真面目なお嬢さんのことだから絶対授業には遅れたくないだろう。俺も遅れたくはないし。
「はい」
短い肯定の後それじゃぁ、と頭を下げてお嬢さんは廊下を駆ける。その後ろ姿を見ることなく、俺も廊下を駆けた。

帰りのホームルームと掃除を終えて図書室へ向かうと、まだそこにお嬢さんの姿はなかった。
よかったわ……。これで先に来てたら待たせとるとこやったしな。
胸の内でほっと一息吐き出したところで、此方に駆けてくる人影を見とめる。それはまごうことなきお嬢さんだった。
「走らんでエエよ」
とは言ってみたものの、言うのが遅すぎたのか言い終わった直後にお嬢さんは俺の元へと辿り着いていた。
「お待たせしました!」
「ん? ああ、待ってへんよ。俺も今来たとこや」
緩く笑ってお嬢さんを迎える。
待たせては悪いと思って走ってきてくれたんだろうか。ああ、なんて健気で真面目なのだろう。
「それじゃ行こか」
「あ、はい!」
先陣を切って図書室へと入る。
九月になったとはいえ、まだ暑い日が続いているからか、室内は若干冷房が効いている。
涼しくてエエな。
お嬢さんの呼吸が落ち着いたところで、ここに来た目的の一つを果たすべく視線を下げる。
「お嬢さん、本返しに行くんやろ。その後借りたいから一緒におってもエエか?」
「はい、構いません。じゃあ先に返却を済ませちゃいますね」
「せやな」
短くやり取りを終えると、お嬢さんと二人、カウンターへと向かう。お嬢さんが返却手続きを済ませた後、続けて貸し出し手続きをしてもらう。
その間、隣から妙な視線を感じる。隣にいるのはお嬢さんなのでお嬢さんの視線なのだけれど。
なんやろか?
顔を傾けて言葉をかける。
「なんやお嬢さん。俺の顔に何かついとるか?」
「あ、いえ……。何でもないです」
「そない熱い視線向けられると恥ずかしいなぁ」
「えっ、あ、その……」
「冗談や」
ゆるりと笑って貸し出し手続きを終えた本を受け取る。今度は顔だけでなく体ごとお嬢さんの方へ向き直る。と、未だにお嬢さんの視線は俺に向いたままで。こうなると少しばかりからかいたくもなる。
「お嬢さんはホンマ俺のこと好きやな」
「えっ!?」
「冗談やって」
本当は半分以上本気なのだけれど、まだその域まで二人の仲は深まってはいない。冗談だけど本当は本気。だけどそれはまだ気付いてもらえなくていい。
ははは、と笑ったはいいけれど、お嬢さんは何故か言葉に詰まった様子で二人の間に少々沈黙が居座る。けれどそれもあっという間で。
「お嬢さんはおもろいな」
と笑い気味に言えば、
「お、忍足先輩が変にからかうからです……!」
と顔を赤らめて答えてくれる。
「そうか?」
「そうです!」
図書室で話すにはやや大きい声で反論してしまったのか、俺たちにその場にいた全員の視線が一斉に集まる。
あ、やってもうた。
俺はともかく、お嬢さんはこういうの慣れてないだろうしな。案の定というか、
「忍足先輩、こっちです!」
と、少々強引に手を引かれる。急に手を引かれ、若干バランスを崩したけれどなんとか体勢を立て直す。
こうして手を引かれるいうんもたまにはエエもんやな。
それは言葉には出さず心に留めておく。
いくつか本棚を抜けて、たどり着いた先は洋物の物語が置いてある棚。
「えっと、あそこです」
お嬢さんが本棚の一番上に視線を向け、本を取ろうと背伸びをする。けれどどう頑張ってもそれはあと少しというところで届かない。
「あれとあれか?」
お嬢さんの後ろから手を伸ばす。恐らくこれとこれだろう、という本を二冊手に取り、渡す。
「ありがとうございます」
「…………」
今、さらっとやってしまったけれど、このシチュエーションはラブロマンス映画によく出てくるものじゃないか。ミスったどころの話じゃない。こんな、大事なシチュエーションを何の気もなしにやってしまうだなんて。
……ちゅうか、お嬢さんホンマ可愛らしい体格しとるな。俺と頭一つ分くらい違うやん。
「あの……? 忍足、先輩?」
お嬢さんの声に意識を引き戻す。さすがにこのほぼ密着した状態では戸惑うのは必然だろう。
俺自身も若干戸惑ってるっちゅう話でもあるんやけど。
「ん? ああ、すまんな」
「あ、いえ……」
急いで体を離す。なんだか寂しさのようなものが湧き出てきたけれど見て見ぬふりをする。これは、この気持ちは俺だけが向けているものなのだから。
「本、取ってもらってありがとうございます」
「ああ、ええよ。お嬢さんじゃあの場所は届かんかったろ。それが例の本か?」
「はい」
「お嬢さんが読み終わったら借りたいわ」
「はい、ぜひ」
「まあ、まずはこっちの本を読み返さんとあかんのやけど」
言って自分の腕の中にある、先ほどまでお嬢さんが持っていた本に視線を落とす。余程大事に持っていたのか、まだそれは少しだけ温もりを帯びていて。お嬢さんの人柄が見えるようだった。
「それじゃあ読み終わったらご連絡しますね……って、あ……」
言いながら、お嬢さんはある重要な事実に気付いたようで。それは俺も薄々勘付いていたことでもある。
「そうや、俺たちまだお互いの連絡先知らんのやな」
そう、俺たちはお互いの連絡先を知らないままなのだ。学園祭準備期間中は火急の用事というのが特になかったし、大体お嬢さんの姿はどこかしらで見つけることができたから電話をするよりも会って話した方が話が通りやすいというのもあってか連絡先の交換をしないままだったのだ。
「そういえばそうですね……。学園祭の時は電話するよりも会って話したほうが早いからって連絡先交換してなかったですし」
「とりあえずその本借りて、諸々はその後の方がええやろな」
俺の提案にお嬢さんは小さく頷く。
「そうですね。図書室で携帯をいじるのもよくないでしょうし」
俺が取った本を、大事そうに抱えてお嬢さんは再びカウンターへと向かう。その仕草がどうにも胸にきて、軽く口を引き結んだのは俺だけの秘密だ。
手続きが終わった本を鞄にしまったお嬢さんの笑顔たるや。
「嬉しそうやな、お嬢さん」
なんてつい口に出してしまうほどだった。
図書室から廊下に出たところでお嬢さんが俺に向き直る。遂にくるか!
「あの、忍足先輩」
「ああ、これが俺の番号とメアドとメッセージアプリのIDや」
ポケットから一枚のメモを取り出してお嬢さんに手渡す。いつか、いつか渡せたらいいなと思ってずっと準備していたもの。それがやっと渡せることができて感慨深いものがある。
お嬢さんは、
「ありがとうございます」
と受け取ってから鞄からノートと筆記具を取り出してさらさらとそこに文字を記入していく。渡された紙片に書いてあったのは電話番号とメールアドレスだけ。もしかして、
「お嬢さん、メッセージアプリ使うてないんか?」
と尋ねれば、予想通りの答えが返ってくる。
「あ、はい。私まだガラケーなので」
「そうか、それならまあ楽しみが一つできてええわ」
「楽しみ、ですか?」
俺の返答にお嬢さんは首を傾げる。
流石にお嬢さん専用の着信音を設定できるなんて言うたら引かれるやろ……。
「ああ、気にせんでええ。こっちの話や」
「はぁ……?」
お嬢さんは不思議そうに首を傾げたままだ。
そんな様子を見ながら、貰ったノートの切れ端を大事に折りたたんでポケットにしまう。
ああ嬉しい。これでようやく一歩踏み出せた、というところだろうか。
お嬢さんに知られないようにそっとポケットを撫でる。
「お嬢さんは帰り電車か?」
「いえ、徒歩です。でも駅の方に帰ります」
「ほんなら途中まで一緒に帰ろか」
「はい」
昇降口までの道のりを歩きながらそんな会話を交わす。お嬢さんと一旦別れて、上履きから靴へと履き替える。ふと、視線を上げると、空は茜色に染まっていた。そんな長い時間を図書室で過ごしていたとは思わなかったが、こうして実際に空模様を確認すると時間の流れの早さに驚く。
お嬢さんと合流すると彼女も同じことを考えていたようで、
「もう日が暮れ始めてるんですね」
なんて言葉が呟かれる。
「せやな。楽しい時間はあっちゅうまやな」
「え……っと、楽しいと思ってくれていたんですか?」
お嬢さんが目を丸くして問いかける。その瞳は意外だ、と言わんばかりだ。
「楽しい思てなかったらすぐに帰っとるわ。俺、そこまでお人よしやないで」
お嬢さんとだから楽しかったんや――とは口が裂けても言えなくて、くるりと踵を返して歩きだす。
俺の後を追ってお嬢さんが駆けてくる。
駅までの道のりを、他愛もない話をしながら俺たちは帰路についたのだった。 
◆三
『今日の午後の部活は榊先生が急遽職員会議が入ったから無くなった』
メッセージアプリにそんなメッセージが入ったのとお嬢さんから本を読み終えたとメールがきたのはほぼ同時だった。メッセージアプリの方に了承の旨を送り、メール画面を立ち上げる。
『今日急遽職員会議が入ってしもて午後の部活がなくなったんや。もしお嬢さんの都合が良ければ放課後図書室前に集合でどうや?』
画面をスリープにする間もなく、送信したメールにはすぐに返信が返ってくる。
『わかりました』
絵文字も顔文字もない簡素な返信。
恐らく俺が先輩だからという配慮かそれとも遠慮しているのか、お嬢さんは滅多に絵文字も顔文字も使わない。というか連絡先の交換をしてからこっち、一度もその手のものを使ってはこない。こうなってくると配慮、遠慮云々よりも単に絵文字・顔文字を使うのが苦手なのではないだろうかとすら思えてくる。
そうなってくると気になるのは同級生相手にはいったいどんなメールを送るのだろうか、というところだ。もしかしたら絵文字や顔文字をふんだんに使った、年相応のメールを送っているのかもしれない。
エエな。羨ましいやん。
心の奥底で本心が首を擡げる。
俺自身もあまり絵文字顔文字は使わないし、メッセージアプリを利用するときもスタンプの類は必要最低限以上には使わない。だからまあ、お嬢さんに絵文字顔文字をたくさん使ったメールを送ってほしいと思うのは自分のことを棚に上げている感がすごいのだが、一度でいいから配慮も遠慮もない、可愛らしいメールを受け取ってみたい。否、一度と言わず何度も受け取ってみたい。恐らくお嬢さんの性格上、それは難しいというのは重々承知の上だ。承知の上で、夢を見るのは自由だとも思うわけで。
とまあ、そんなことを考えていたら午後の授業なんてものはあっという間に終わってしまって、待ちに待った放課後がやってきた。
今回もお嬢さんよりも早く到着出来て安堵のため息を吐きだしたところでちょうどよく声を掛けられる。
「忍足先輩、早いですね」
「そうか? 俺も今来たとこやで」
「確か前回の時もそう仰ってましたね」
「お嬢さん記憶力エエな」
穏やかに笑って、図書室の扉に手をかける。
「それじゃ行こか」
「はい」
お嬢さんが隣に来て二人一緒に図書室の扉を開く。
今日もひんやりとした空気が漂っていて、相変わらずここは居心地がいい。
何やらカウンターの方から視線を感じる気がするけれど、きっと気のせいだと思うことにする。
こういうんは気にしたら負けな気もするしな。
それじゃぁ、まあ始めるとするか。
そして前回と同じくお嬢さんが先に借りていた本の返却を済ませてから、俺が先週借りていた本の返却とお嬢さんが借りていた本の貸し出しを済ませる。
「これでおしまいですね」
「せやな」
お嬢さんの様子は若干落ち込んでいるように見えて。けれどそれが何に起因することなのかがわからない。
もしかして本を読み終わってしまったことを残念がっているのだろうか。
確かに面白い本程読後の終わってしまった感は大きい。喪失感と言ってもいいのかもしれない。かくいう俺もそういった経験を何度か重ねてきたから、もしお嬢さんがそう思っているのだとしたらその気持ちは理解できる。
でも、今のお嬢さんの表情からはそういった感じはあまり見受けられない。じゃあどうしてそんな暗い表情をしているのだろうか。考えてもわからないときは本人に訊くのが一番いいというのは経験則から知っている。
「お嬢さん? 暗い顔してるみたいやけど、どうかしたか?」
「え?」
俺の問いにお嬢さんは驚いた表情を作る。自分の顔の変化に気付いていなかった、というように。
けれどそれも一瞬で。瞬きをする間にお嬢さんの表情は笑顔に変わる。
「大丈夫ですよ。何でもないです」
「…………」
何でもない、という風には到底見えなかった。
ということは無理をしている、のだろうか。それとも俺には言えないことで悩んでいるのだろうか。
何にしても今のままの関係では話してくれそうにない、というのだけはわかった。
なら、話してもらえるくらいの仲に、有り体に言えばもっと仲良くなりたい、と思った。そのためにはこれからもメールのやりとりを継続していく必要がある。
こういう時同級生だったなら、と思ってしまう。同級生だったなら、メールじゃなくて直接会話することも難しいことじゃないだろうに。
学年が一つ違うというだけでとてつもなく大きな壁が聳え立っているような感覚になる。
「あの、忍足先輩?」
お嬢さんの声で意識を現実に引っ張り戻す。気付かれないように一つ呼吸を入れて、なるべく笑顔に努める。
「あんな、お嬢さん。これからも連絡してもエエか?」
本の貸し借りに必要な連絡はもう今日で終わってしまった。だから、これはお嬢さんからしたら余分なことだとはわかっている。けれど、その余分なことを俺は続けたいと願う。
俺はお嬢さんのことが好きだから。
だからもっと仲良くなりたい。知っていきたい。色々なことを話したい。
けれどそれは全てお嬢さんの返答次第だ。嫌だと言われればそれまでの、深追いするには自分勝手な思い。
心臓が大きく鼓動する。
ああ、煩いっちゅうねん。
何度目かの瞬きの後、
「え? あ、はい」
と小さな声が聞こえる。
「そうか、よかったわ」
心の底から安堵する。
ああ、よかった、と思った瞬間。
「いつまでそこでいちゃついてるんですか?」
突然割り込んできたのは第三者の声。
なんだとその声のした方向へ顔を傾ける。と、そこにいたのは冷めきった視線を向ける図書委員の男だった。じっとこちらを見据えるその男のじとっとした目線に、お嬢さんは慌てて言葉を作る。
「ご、ごめんなさい」
だけど俺はせっかく作ったいい雰囲気を壊されて少々気持ちの落としどころが見つからない。
「なんや、羨ましいんか」
俺の言葉に図書委員の男は少しだけムッとした表情を浮かべた後、
「いえ」
と、争うだけ無駄だと察したのか表情を消して視線を切る。
流石に一度こうして騒いでしまった手前、これ以上この場にいることができなくなってしまった。だけどまあ、図書室でやるべきことも終えてしまったし、退出するにはいい頃合いなのかもしれない。
「そろそろ帰ろか」
図書委員に向けていた視線をお嬢さんに向ける。
「はい」
軽やかな笑みを向けられて心臓がぎゅっと握られる。
ああ、ホンマ可愛えな。
お嬢さんが後ろ手で扉を閉めて視線を上げる。視線がかち合う。
あ、と思う間に俺の口は言葉を紡ぐ。
「お譲さんは確か徒歩やったよな。ほな途中まで一緒に帰ろか」
「はい」
二人仲良く、かどうかはわからないけれど、並んで歩いた帰り道。伸びる影はこの間よりも近づいているように見えた気がした。 
◆四
ここ最近は夕飯を終えて自室へと戻ると、スマートフォンと向き合うことが習慣と化していた。
メール作成画面を立ち上げ、本文に文字を打ち込んでいく。
『夕飯終わったで』
誤字脱字がないことを確認して――まあそもそもこんな短い文章で誤字脱字もないけれど、メールを送信する。数分もしないうちにスマートフォンからお嬢さん専用の通知音が流れる。ロックを解除して返信内容を見る。
『今日の夕飯は何だったんですか?』
普通に会話をしているような文面に心が温かくなる。
「麻婆豆腐や、っと」
キーボードをフリックして文字を並べていき、送信する。するとまた数分もしないうちにお嬢さんからの返信が届く。
『いいですね。私の家は今日はロールキャベツを作りました』
『ロールキャベツか。エエな』
『美味しかったですよ』
「そら、エエ、な……っと」
打ちながら、一通前のお嬢さんからの文面をもう一度読み返す。
作りました、ということはもしかしてお嬢さんが作ったのだろうか。一から十までとまではいかなくとも手伝ったりとかしたのだろうか。
好奇心が傾く。打っていた文面を一度全部消して改めて文章を打ち込む。
『料理はお嬢さんがするんか?』
『はい』
反射的に、というのは正しくこういうことを言うのかもしれない。
お嬢さんの返信を見て頭で返信内容を考えるよりも先に指が文字を打ち込んでいた。
『今度食べさせてや』
送った後に少々の後悔が襲い掛かってくる。
本の貸し借りやメールのやり取りである程度仲良くなれたとは自負している。けれど、まだその域に達するには早かったのかもしれない。
流石に引かれたかもしれんな……。
いつもならすぐに返ってくる返信も五分経っても全然返ってくる様子がない。これはもう完全にダメなパターンが頭を過ったその時だった。
スマートフォンがメール着信を知らせる。
一度大きく息を吐き出してからそれを開封する。と、そこにあった文面に一気に緊張が解ける。
『わかりました』
よかった、とりあえずこの文面から見る限り引かれてはいないようだ。
お嬢さんの性格のことだから遠慮して、というのも一瞬考えたけれどそういえば言う時はちゃんと言える芯の強さのある子だったと思い直す。
そこからはいつも通りの間隔でメールの返信が返ってくるようになる。
『ありがとなぁ。なら今度食材費払うから作ってきてくれるか?』
『私、いつもちょっと多く作りすぎちゃうので食材費は頂かなくても大丈夫ですよ』
『そういうわけにはいかん。ちゃんと言うてや』
『いえ、本当に大丈夫です』
『そんならせめて何かお礼させてな?』
『こうしてメールをさせていただけているだけで十分です』
ホンマ欲しがらん子やな……。
そういうところも好きなのだけれど、今回はお嬢さんに金銭的負担もあるが手間暇をかけてもらうことにもなる。さすがに何もしないわけにもいかないのだけれど、当の本人からメールだけで充分なんて言われてしまってはこちらとしてはもう提案できるものが何一つない。
ベッドに腰かけてそのまま体を横に倒す。ぼふっと布団が体を受け止めてくれる。
「メールだけで十分て言われてもなぁ…………ん?」
さらっと流してしまったけれど、お嬢さんの最後のメールってかなり心を開いてくれているのではなかろうか。ともすればメールをしてるだけで楽しい、嬉しいとさえ印象付けるような……。
これはお嬢さんに訊いてみてもいいのだろうか。否、訊いてみたい。そしてできればメールではなくて、本人の言葉で。声で。
考えるや否や勢いよく体を起こして、スマートフォンを操作する。アドレス帳からお嬢さんの名前を呼びだし、電話番号欄をタップ。一瞬にして画面が呼び出しに変わる。
果たして、数コールの後に通話が繋がる。
「は、はい……!」
少々慌てた様子のお嬢さんの声。何日かぶりに聞いたその声は俺の頬を少しだけ緩ませる。
「あー、えっと、忍足やけど」
「はい、ど、どうかされましたか?」
「いやな、メールもエエんやけどやっぱ俺、電話の方が好きやから。今電話大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「そうか、よかったわ」
電話はメールと違って相手の都合もあるからなかなかタイミングが難しいところだが、今回はうまくタイミングが合ったようでよかった。一つ息を吐き出す。
「お嬢さんはメールの方がエエかもしれんけど」
「いえ……じ、実は私も忍足先輩とお電話してみたいと思ってましたので」
お嬢さんの嬉しい返事になおも頬が緩みそうになる。
「そうか? そら尚更よかったわ。それでさっきの話やけど、なんや欲しいものとかないんか? ご馳走になるんやから俺にできる範囲でお礼させてな」
「いえ、本当にお礼をして頂く程のものではないですし」
「これやと堂々巡りやな」
「そうですね」
「…………」
「…………」
会話が止まる。電話口でこうなってしまうと再度会話を引き戻すのはなかなかに困難で。
お互い数秒無言が続いたところでいよいよこの電話をかけるきっかけとなったことを話す時かと心を決める。
ゆっくり、言葉を作る。
「そういえばさっき、お嬢さん俺とメールしてるだけで十分やてメールで言うてたよな?」
「はい」
「それって、その、俺とのメールが楽しいからって意味でエエんか?」
「……はい」
小さな肯定。それは俺の心を温かくするだけでなく嬉しさで胸がいっぱいになる。けれどそれを前面に出すわけにもいかず、なるべく平静を装って言葉を続ける。電話口なのだからお嬢さんに俺の表情がどうなっているかなんてわかるはずもないのに、そこはなんだかプライドが許さなかった。
「……そうか。嬉しいこと言うてくれてありがとなぁ。お礼になるかどうかはわからんけど、これからもメールとか電話、してもエエか?」
「もちろんです!」
食い気味に返ってきた返事に更に嬉しくなる。
「お嬢さんは素直でエエ子やな」
「えっ、あ、その……」
「なぁ、お嬢さん。……いや、なんでもないわ。夜遅くに電話して悪かったな」
出来ればどうして俺とのメールのやり取りが楽しいのか、そこまで訊きたかった。
だけどそれを訊いて、単に「忍足先輩が面白い人だからです」なんて返ってきた日には落ち込みはしないにせよ、少々傷つきそうなことは目に見えていた。訊きたいけれど、訊いてはいけない。踏み込んで痛い目を見るくらいなら踏みこまなくていい。
「いえ、こちらこそお疲れのところメールのお相手をして頂いてありがとうございました」
「おやすみ。お嬢さん」
「はい、おやすみなさいです。忍足先輩」
最後まで丁寧な返事に、終話ボタンをタップするのが惜しくなってしまった。けれどこれ以上は俺の勝手な思いなのだから、と名残惜しさを振り払って通話を終えた。 
◆五
それから数日後の昼休み。
廊下で待ち合わせをして、お嬢さんから手料理入りのタッパーをもらう。教室に戻ってきて、自分の席について、鞄の中から弁当箱を取り出すと、タッパーと一緒に並べる。
顔の前で手を合わせて弁当箱とタッパーの蓋を開ける。お嬢さんが作ってきてくれたのは弁当の定番ともいえるハンバーグだった。しかも食べやすいようにか一口サイズにしてあって、それが四つほど入っている。
まずは一つ。箸で取って口に運ぶ。ふわふわで、だけどジューシーで、玉ねぎの甘みと肉のうまみが感じられる、これまで食べたことのないハンバーグだった。
「めっちゃ美味いやん……」
思わず言葉が漏れてしまう程、そのハンバーグは美味で。口元が緩みそうになるのを懸命に堪える。
二つ目、三つ目と箸を進めていき、最後の一つに箸をつけようとしたタイミングでクラスメイトが楽しげな声をかけてくる。
「あっれー? 忍足、今日はやけにおかず多いじゃん」
「ああ、ちょっとな」
「もしかして彼女からの差し入れか!?」
「彼女ちゃうわ。……でも料理上手で可愛いあの子が彼女やったらエエな」
ぼそりとこぼした本音にクラスメイトが眉を顰める。
「うっわ、なんだよ惚気かよ。つーか、すげぇ美味そうじゃん。俺にもくれよ」
「絶対嫌や」
そんなやり取りをしているうちに昼休みも半分以上が経過していた。ようやく全て食べ終えて再び顔の前で手を合わせるとスマートフォンが微かに震える。短く終わってしまったそれはメールの着信を知らせるもので。誰だろうか、と画面を見ればそれはお嬢さんからだった。
画面をスライドさせてロック画面を解除し、メールの内容を読む。
『お口に合いましたか?』
控えめだけど確かな興味が混じった文面。お嬢さんらしいな、と思いつつも返信を打ち込んでいく。
『めっちゃ美味かったで』
送って一分もしないうちにお嬢さんから次の返信が返ってくる。
『本当ですか!?』
『嘘ついてどないすんねん。お嬢さんは料理上手なんやな』
誉め言葉をしたためて送ったはいいものの、お嬢さんから返ってきた返事は、
『ありがとうございます』
と少しだけ味気ないもので。もしかしたら画面の向こう側では照れているのかもしれないけれどそれを俺は知るのは困難で。仕方なしに次の返信を打ち込む。
『タッパー洗って返すな』
『そのまま返していただいて構いませんよ?』
きっと気を遣ってこう言ってくれているのだろうけれど、流石に洗いもせずに返すのは礼儀に反する。それにできればこれを機にまたお嬢さんの手料理を食べてみたいという願望があった。
『それはアカンやろ。ちゃんと洗って返すからまた今度作ってきてくれるか?』
まるで告白するかのような緊張感を持って送信ボタンを押す。
「……はぁ」
一つ大きく息を吐き出す。
先ほどまでならすぐに返ってきた返事は今回ばかりは時間がかかっている。もしかして悩ませるような内容だっただろうか、と自分が送ったメールを再度読み返す。そうしている間に午後の授業が始まるチャイムが教室中に響く。
しょうがない、とスマートフォンをしまって、机の引き出しから午後の授業の教科書とノートを取り出した。

放課後、部活前に先生に呼び出しを喰らい渋々廊下を歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つける。
驚かさないようにそっと近づくと、
「……忍足先輩に返信打たなきゃ……」
なんて独り言が聞こえてきたものだからつい声をかけてしまう。
「そんならここにおるから直接言ってくれればエエで」
「えっ? お、忍足先輩……!」
お嬢さんは持っていたノートから視線を俺に向けてくれる。
それにしてもエライ量のノート持っとんな……大丈夫なんか?
「よぉ、お嬢さん。奇遇やな。ちゅうかエライ量のノートやな。大丈夫か?」
どうして一人でそんな量のノートを持っているのか。クラスの奴らは何をしていたんだ、と思ったけれど、一人で運べそうな量なら、お嬢さんなら手伝いを申し出されても断りそうな感じはあった。現にこうして一人で運べてしまっているし、ここでまた俺がクラスでやったであろうやり取りを繰り返すのはあまり得策ではない気がする。お嬢さんだって何度も同じことを言われるのは面倒だろう。
なので一言付け加えるだけに留めておいた。
返答次第では代わりに持つことも吝かではない、という気持ちを込めて。
「あ、はい! 大丈夫ですよ。見た目程重くないですし」
「さよか?」
「はい」
「お嬢さんがそう言うならこれ以上言うんは野暮やな。……で、メールの返信やけど」
俺の言葉にお嬢さんは一拍置いて返事をしてくれる。
「えっと、その……作るのは別に構わないです」
「ほんまか! そら嬉しいわ」
「そう言っていただけて私も嬉しいです」
「お嬢さんの作ってくれた料理、ほんまに美味かったで。毎日でも食べたいくらいや」
誇張もなくただただ本心を言葉に乗せてまっすぐ、視線と心を向ける。
「そんなに褒めていただかなくても……」
俺の言葉を受けて、お嬢さんはなんともむず痒そうにする。
「誉め言葉は素直に受け取っとくもんやで」
と、笑みを作ればお嬢さんからは小さな返事が返ってくる。
「は、はい……」
「エエ子や」
その様子がなんとも可愛らしくて、いじらしくて。
気付けば手が動いていた。
お嬢さんの頭をぽんぽんと二回ほど撫でる。
撫でた後にやってしまった感が沸々とわいてくる。それこそ穴があったら入りたいと思うくらいには、だ。
けれどやってしまったものはもうどうしようもなくて。
お嬢さんもお嬢さんで頭を撫でられたことに驚いたのか固まってしまっている。
そんな若干の気まずさを漂わせる空気の中、先に動いたのは俺の方だった。恥ずかしさで居た堪れなくなって数歩、歩みを進める。その間になんでもないような表情を作って、未だにその場に留まり続けているお嬢さんに向けて首だけを傾ける。
「どうかしたんか?」
「あ、いえ……なんでも、ないです」
そう言うお嬢さんの態度はどう見てもなんでもない風には見えなくて。そんな態度をされてしまうと勘違いしそうになってしまう。
もしかして俺のこと意識してくれとるんか?
だけど冷静になって考えてみれば、家族以外の人間に、しかも異性に頭を撫でられる経験なんてそうそう無い。それは戸惑っても仕方のないことであるし、もし俺が逆の立場であったとしても同じような態度を取ったかもしれない。俺の場合はお嬢さんへの好意が根底にあるから別の意味で戸惑うと思うけれど。
俺を追いかけてきてくれて隣に並んでくれたはいいが、お嬢さんは一向に俺と目も合わそうとしない。もしかして今の頭を撫でたことで引かれた、とか? いくら前よりかは仲良くなれたと言っても、まだやってはいけない一線を越えてしまったのだろうか。
そんなことをぐるぐると心のうちで考えながら、俺たちは無言で職員室までの道のりを歩いて行った。 
◆六
部活終わり。明日提出のやりかけのプリントを机の引き出しに入れっぱなしだったことに気づいた俺は一人夕焼けが差し込む廊下を歩いている。
昼間、生徒や教師で賑わう廊下も今は俺以外誰もいない。無音の廊下に響く上履きが擦れる音が妙に物悲しさのようなものを思い起こさせる。
「…………」
教室にたどり着き、無事目当てのものを回収し終えると一つ息を吐き出してなんとなく視線が彷徨う。そして彷徨った視線が行き着いた先は窓の外。夕焼けによって視界は赤く染まる。
お嬢さんはもうとっくに帰ったんやろな。
ふと、そんなことを思った。
不意にこんなことを思うくらい、自分があの女の子のことを気にかけて、好意を向けていることに一人笑う。どれだけ思おうとも、これは自分からの一方的な気持ちであることに変わりはない。
思いを伝えたい、と思わないこともないけれど、そうするためにはまず雰囲気作りをしなければならないし、そもそもそれくらいを言える仲になっていなければならない。まあ今の感じだと後者はクリアできていると思いたいところだけれど。……いや、クリアできている、はず。
部活前にちょっとやらかしてしまった感はあるが。
流石にお嬢さんはなんとも思っていない人間に手料理を作ってきてくれるというような度が過ぎるお人好しではないはず。そこはかけらほどでもいい。好意があると願いたい。
「…………」
それにしてもさっきから言葉に出てくるのは、はず、だの願いたいだの全部そうかもしれない、否、そうであってほしいという心の声であって事実ではない。
妄想もほどほどにしとかんとな……。
一つ息を吐き出した後、教室を後にする。
再び誰もいない寂しさ漂う廊下を歩き、昇降口までたどり着く。と、かすかな物音が聞こえ顔を上げる。その人物はちょうど靴を履き終えたところで。
逆光の中でもわかる。あのシルエットは――
「……お嬢さんか?」
俺の呼びかけに、その人物はゆっくりと振り返る。
「忍足、先輩」
一瞬、こちらを見る瞳が赤くなっているのに気付いたけれど、ここは触れない方がいいだろう、と口を噤む。お嬢さんも目が腫れていることを知られたくないのか、少しだけ俯く。いつもならちゃんと目を見て話してくれる子がこうも頑なに顔を伏せるということはそういうことなのだろう。あまりこういう話題は首を突っ込まない方がいいというのは知っている。
だから気付かないふりをして首を少々傾ける。
「こんな時間まで居残ってるやなんて珍しいな」
「ちょ、ちょっと考え事をしてまして……」
お嬢さんから返ってきた声は若干涙声で、つい先ほどまで泣いていたことが窺えるものだった。
「さよか。ちょうどエエから途中まで一緒に帰ろか」
「い、いえ……。ちょっと寄るところがありますので」
確かに一緒に帰れば否が応でも顔を見ることになってしまう。これは俺の完全なる配慮不足だった。
ここですまんなと言えば俺がお嬢さんの目の腫れに気付いたことを知られてしまう。
ほんま難儀やな……。
謝りたいのに謝ってしまえばお嬢さんの知られたくないことを知っていることを知られてしまう。結局、悪いと思いながらも謝ることができず、もやもやとしたものが内に残る。
「さよか。ほんならまた夜にメール送るわ」
「あ、えっと……」
お嬢さんが言い淀むなんて珍しいこともあるものだ、と心の内で思いながら、
「なんや、都合悪いん?」
と言葉を続ければ、
「今日、もそれからこれからも、その……」
なんて予想もしない返答が返ってくる。
「これから?」
若干眉を顰める。
お嬢さんがこれからも連絡を控えたいと言うなんて信じられなかった。信じたくなかったと言ってもいい。
もしかして誰かに何かを言われたのだろうか。
それとも俺自身が知らないうちに何かを言ったりやったりしてしまったのだろうか。
心当たりがあるとすれば部活前の、あの頭を撫でたことくらいだが……。
いずれにしても外的要因があるはず。
それはお嬢さんにしか知り得ないことで。
「お嬢さん」
自分でも驚くくらい声のトーンが落ちていた。それに怯えてなのか、お嬢さんは小さな声で返してくる。
すまん、お嬢さん。
心の内で謝る。
「はい」
「俺、何かしたか?」
お嬢さんは無言で首を横に振る。
俺が原因ではないことにひとまず安心する。だとするとあとは考えられるのは――。
「ほんなら誰かに何か言われたんか?」
「…………」
沈黙は肯定、という言葉がここまでぴったりくることもないだろう。
「ほんま、お嬢さんは素直やな」
自分でも苦い顔をしているというのがわかるのだから、お嬢さんには俺の表情なんてきっともろバレで。今更取り繕うようなこともしないし、思わないからいいと言えばいいのだけれど。
それにしても誰かに何かを言われたとして、それはいったい誰で、何を言われたのだろうか。お嬢さんのことだから誰が、と問いただしても答えはしないだろう。
優しい子、やもんな。
じゃあせめて誰かはいいから何を言われたのかは訊いても大丈夫だろうか。
この際誰かは訊かなくても話の内容を訊けば自ずと答えは導き出せるし、ぶっちゃけてしまえば誰かなんてことはあまり興味がない。俺の興味、もとい注目すべき点は何を言われたか、だ。その答えによっては俺はこの先ずっとお嬢さんとメールや電話はおろかこうして話すこともままならなくなってしまう。
だから、俺は訊く。その外的要因となった事柄を。
「誰か、は言わんでもええからせめて何を言われたのかは教えてくれへん?」
さっきのことがあるからなるべく優しい声色を目指したけれど大丈夫だっただろうか?
果たして、お嬢さんは一呼吸置いた後、話してくれる。
「……彼女さんができたって聞きました。それなのに私、忍足先輩に今日も料理をお渡ししてしまいました……。それどころかメールや電話までして、本当にすみません。謝って許して頂こうとは思いません。私は彼女さんに対してとんでもなく失礼なことを……っ!」
ん? 今聞き捨てならない単語を聞いたような?
「ちょぉ、待ってや。彼女? 何の話や?」
お嬢さんの勢いを削ぐようで申し訳ない気もするけれど、ここでストップをかけなければこのまま押し切られて、最悪脱兎のごとく逃げ出されそうだった。
当然ストップをかけられたお嬢さんは頭の上にクエスチョンマークを何個も浮かべているし、かくいう俺も同じだった。
いや、ほんま彼女って何の話や。
「え?」
「俺、彼女なんておらへんよ」
「え?」
俺の衝撃? の告白にお嬢さんは言葉に詰まっている。
「え? はこっちのセリフやで? いったいどっから彼女なんて話が……って、もしかしてあの時か?」
言っている途中で心当たりが一つあることに気付く。
お嬢さんが初めて料理を作ってきてくれた日にクラスメイトと交わした会話。
「彼女ちゃうわ。……でも料理上手で可愛いあの子が彼女やったらエエな」
「うっわ、なんだよ惚気かよ。つーか、すげぇ美味そうじゃん。俺にもくれよ」
もしかしても何もあの時の会話か?
あれを聞いていた第三者が尾ひれはひれをつけてか――それとも誰かに話すうちについていたのか、とにかくいつの間にか俺に彼女がいるだなんて話になったのか?
……なんちゅう迷惑なことしてくれる奴がおんねん。
ここにお嬢さんがいなかったらこの場で頭を抱えたくなるほどの話だった。
お嬢さんが恋人だ――という話ならよかったが、当のお嬢さんがその当人であるという自覚が全くない。むしろ他人事のような口ぶりだ。
しかも存在しない俺の彼女に自分がしたことに対する申し訳なさを感じてしまっている。
ああ、どこまでも優しくてエエ子なんやな。
この場面でこんなことを思ってもいいものか悩むけれど、とにかく可愛い。お嬢さんがとても可愛くて仕方がない。
――と、いつまでも黙ったままでいても状況は改善しない。言葉は口にしなければ相手には伝わらないのだから。
「すまんな、お嬢さん。それは、その、俺のせいかもしれん」
「……? えっと?」
俺の謝罪にお嬢さんは顔を伏せたまま言葉をこぼす。
「この前教室でな、お嬢さんから渡された料理を食べてた時についクラスメイトに話してしもたんや。料理上手で可愛えお嬢さんが彼女やったらエエなって。たぶんその話がなんやかんやで俺に彼女ができたって話になってしもたと思うねんけど」
「ええっと……」
お嬢さんは混乱を言葉にして吐き出す。
まあ、それもそうだろうなとは思う。けれどお嬢さんは懸命に自分の中で与えられた情報を咀嚼して理解しようとしてくれる。
そして自分の中で理解できたところでゆっくりと言葉を口に出していく。
「それじゃあ忍足先輩には彼女さんはいなくて、それでえーっと……? 料理上手で可愛い女の子が彼女だったらいいなという話が尾ひれがついて彼女さんができたという話になった――と」
「大事なとこがすっぽ抜けとるで」
「大事なところですか?」
「料理上手で可愛え女の子やなくて、料理上手で可愛えお嬢さん、や。そこ間違われたらアカンねん」
そう、本当にそこは間違えないでほしいのだ。俺はお嬢さんのような女の子、ではなくお嬢さんに彼女になってほしいのだから。
「へ……?」
お嬢さんの呆ける声に心を決める。もう変な噂でお嬢さんを混乱させるのは勘弁願いたいし、俺もこんな思いをするのは懲り懲りだ。本当ならもう少し雰囲気とか場所とか拘りたかったけれどそうも言っていられない。
「もうこうなったら雰囲気作りとか言ってられへんな。…………俺はな、おじょ……広瀬さんのことが好きなんや」
「え……、えぇ!?」
顔を伏せていてもお嬢さんの頬が赤く染まったのがわかる。その様がまた愛おしくて、彼女の真っ赤になった頬をそっと撫でる。そこは見た目通り真っ赤で熱くて、それが俺を意識してそうなったのだと思うだけで嬉しさがこみあげてくる。
「学園祭の準備期間の時からずっと気になってたんや。やけどそんな仲良ぉならずに学園祭が終わってしもて、でもずっと好きでな。あの日、職員室前の廊下で偶然再会できたんはホンマ奇跡かと思たわ」
「…………」
「返事、聞かせてもろてもエエか?」
お嬢さんの視線がゆっくりと上がって、俺の視線とかち合う。まっすぐ見つめてくれるその瞳はやっぱり少しばかり腫れていて。けれどその腫れぼったい瞳でさえも愛おしいと思う程俺はこの子に恋をしていた。
「わ、私も……好きです。忍足先輩のこと、好きです」
お嬢さんのたどたどしさが、これが本当の気持ちなんだと――嘘偽りや気を遣っての言葉ではないものなんだと証明してくれる。
「さよか。めっちゃ嬉しいわ」
自分でも驚くくらい自然に笑みがこぼれる。
人間て本当に心から嬉しい時いうんは自然に笑みがこぼれるもんなんやな。
「ちゅうわけで、今日は一緒に帰るで」
「えっ、あ、はい」
俺の突然の宣言にお嬢さんは驚いて目を丸くしている。
「メールも電話もするで」
「はい」
お嬢さんの明るい返事にこちらも気分が上がる。
思いが通じ合ったんやし、もう名前で呼んでもエエよな?
ずっと、呼びたくて、でも呼べなかった彼女の綺麗で可愛らしい名前。
「ほな、門閉まるからはよ行こか。静ちゃん」
俺が不意に名前を呼んだものだから静ちゃんは目を白黒とさせて慌てている。その様子はあまりにも初々しくて思わず笑みがこぼれそうになるのを寸でのところで堪える。
「……っ、ず、狡いです! 忍足先輩!」
「侑士、先輩な」
できれば、そう。本当にできれば俺のことも名前で呼んでほしい。
忍足先輩、ではなく。侑士先輩――と。そう願いを込めて言葉を口に出した。
果たして静ちゃんは、小さく、本当に小さく「侑士、先輩」と名前を呼んでくれる。
にこりと再び笑んで、彼女の小さくて柔らかくて細い手を取る。
二人並んで歩く帰り道は何時もの何倍も楽しかった。