未だ恋を知らぬ

これは非常にまずい状況なのではないか、と忍足侑士は考える。決して顔には出さないがかなりの勢いでテンパっていると言っても過言ではない。
もしこの状況を誰かに見られでもしたら妙な誤解を招きかねない。否、ほぼ確実に誤解しか生まれないだろう。
何せ床についた彼の両腕の間には広瀬静という少女がいて、事情を知らぬ第三者が見れば忍足が静を押し倒している、なんて言葉が飛び出し兼ねない状況なのだ。実際には転げそうになった静の体を支えようとした忍足も一緒になって転んでしまったという少々間の抜けた話なのだがそんなこと他者が知る由もない。そして弁解をしようにもきっとさせてはもらえない。
ならばやるべきことはただひとつ。早々に身を起こし、何事もなかったかのように身なりを、気持ちを整えなければならない。
けれどその前に一言詫びなければ、と忍足が口を開こうとしたタイミングで、静から戸惑いがちに言葉が紡がれる。

「あ、あの……忍足先輩。ごめんなさい」
「何で自分が謝るん?」

どうして静が謝るのか、その理由がわからなくて忍足は首を傾げる。むしろ謝らなければならないのは自分の方であるはずなのに。

「えっと、私が転んだから、です。あと手、痛くなかったですか? 捻挫とかしてませんか?」

静から出てくる言葉に忍足はほんの少しだけ目を丸くしたあと、ふっと表情を緩める。

「こういう時にはまず最初に自分の心配せなアカンやろ。君、今俺らがどういう状況かわかっとんの?」
「……? はい。先輩が私を支えようとして一緒に転んじゃったんですよね?」
「あー、せやな、知っとった。自分、そういう子やったわ」

苦い笑みを浮かべながら忍足は身を起こす。ほら、と手を伸ばすと、静はその手をじっと見つめ、それから忍足へ視線を移す。まるでその手の意味がわからない、と言いたげに。
その視線に忍足の表情は苦味を帯びたままだ。

「起き上がらへんの?」
「えっ、あ、はい!」

差し出した手の意味を察したのか、ようやく重ねられた自分よりも温かくて小さな手のひらに忍足の胸の奥がきゅっと締まる。
ただ手を重ねただけだというのにこの違和感にも似た感覚は何なのだろうか。
心の奥底がざわざわする。
触れた箇所が不思議と熱を持って、その熱が全身にまわっているような火照りを感じる。

「忍足先輩? どうかしたんですか?」
「あ、いや……」

手を重ねたまま微動だにしない忍足を不思議に思い静が疑問を投げ掛ける。
確実に何かの異変はあるものの、今のこの状態を静に話したところでそれが解決するとも思えなかった。それならば口に出すこともない。忍足は薄い笑みを貼りつけて、「何もあらへんよ」とだけ言って静の体を引き起こした。