綺麗だなんて、初めて言われた

冬の足音がすぐそばまで聞こえてきそうな朝。まだ吐く息は白くはないが、制服がスカートであるが故にそこから伸びる素足は外気に晒されすっかり冷えてしまっている。
そろそろタイツを穿かないと寒いなぁ、なんてことを思いながら現在唯一の女子生徒、天音ひかりはようやくたどり着いた昇降口で下駄箱から上履きを取り出して履き替える。
足元から視線を上げて、教室へ向かうために廊下を歩いていると背中に聞き覚えのある声がかかる。

「おはよう、特待生」

その挨拶に引かれるように振り返ると、ひかりの二つ上の先輩、青柳帝が緩く笑みを作り立っていた。

「おはようござっ……、わっ! あの、青柳先輩……その顔どうかしたんですか?」

ひかりが驚くのも無理はない。何せ青柳は顔に大きな青痣を作り、絆創膏をいくつも貼り付けているのだ。それはもう大胆に、大仰に、思い切りケンカをしましたという雰囲気が出てしまっている。
今や声優は声だけの仕事だけではない。メディアへの露出や作品に関するイベントなどにも出演することも多い。ましてや青柳はRe:Flyというユニットに所属しておりユニット単位での活動もある上に時間を見つけてはアルバイトに精を出している。人前に出ることがほかの生徒よりも多いのだ。だからこそ、顔の怪我というのはとても目立ってしまう。それこそ目立ちすぎるほどに。

「顔? ああ、昨日ちょっと青春しちゃってな。男前度が上がってるだろ?」
「男前度はわかりませんけど……青春?」

青柳の青春という単語にひかりは首を傾げる。顔の怪我がどう繋がって青春になるのか理解できないという表情に、青柳は苦みを交えた笑みを作り、「あー……」と一度視線を外す。そうして今度はひかりにもきちんと言いたいことが伝わるように、わかりやすい言い回しに変えて言い直す。

「えっと、昨日コスモとケンカしたんだよ」
「えっ? コスモ先輩とですか?」

物腰の柔らかいことで知られるコスモこと天橋幸弥と口ゲンカならばいざ知らず、殴り合いのケンカをしたことが信じられない、と目を丸くするひかりに青柳は更に続ける。

「立夏も参戦して三つ巴になってな。そりゃぁもう大乱闘だったんだよ」

なんて事のないように軽く言ってのける青柳に対し、ひかりは僅かに表情を曇らせる。
それもそのはずだ。

「えっと、青柳先輩大丈夫ですか? お仕事とか支障あるんじゃ……」
「なんだ特待生。心配してくれるのか?」
「流石に顔面ボロボロの先輩を目の前にしてスルーなんてできないです」
「まぁ、幸いなことに直近で顔出しの仕事はないから安心してくれ」
「そ、そう、なんですね? それはよかったです」

ひかりが安堵のため息を吐き出すとともに、青柳は不思議そうに首を傾げる。

「別に俺の顔面がボロボロでも君が不利益を被ることもないのにな?」
「不利益は被りませんけど、でもやっぱり普段見慣れてる顔が青痣と絆創膏だらけだとやっぱり気になりますし、それに……」

そこでひかりは一度言葉を切る。その先を言おうかどうしようか心の内で迷ってしまったからだ。

「それに?」

そんなひかりの様子に青柳は緩く笑う。なぁに、言ってごらんとでもいうように。
青柳の促しに、ひかりは一つ息を吐き出し、自分の中の言葉を音に乗せていく。惑いを含ませながら、ゆっくりと。

「えっと……、綺麗なお顔が勿体ないなと思いますし」
「綺麗?」

自分の顔を表現することに使ったことのない、そして使われたことのない形容詞に青柳の頭の上にはクエスチョンマークが浮かぶ。それも何個も、だ。

「俺の顔って綺麗なのか?」

素直に思ったことを口にすれば、ひかりからは「えっ、あ、はい? そう、ですね?」と疑問符の混じる返答が戻ってくる。

「なんでそこで疑問形なんだよ。君が言ったんだろ、綺麗だって」
「そ、それはそうなんですけど……、本人から問われるとちょっと、その、」

ごにょごにょとどうにも落ち着きのない様子のひかりに、青柳の内にある悪戯心が首をもたげる。
ぐっと顔を近づけて――それこそあと十数センチで唇同士が触れてしまいそうなほどの至近距離で、青柳はひかりのブラウンダイヤモンドのように光り輝く大きな瞳をじっと見つめる。

「なぁ、特待生。俺の顔って、綺麗なのか?」

逃がさないと言われたわけでもないのに。ましてや拘束をされているわけでもないのに。青柳の真っすぐと自分を見つめる視線に捉えられて、ひかりはその場から動けなくなってしまう。

「あっ、あ、の……青柳先輩、近いです……」
「うん、そうだな」
「絶対からかってますよね!?」
「んー、どうだろうな?」

からかってるじゃないですか! と口にできないそれをひかりは喉の奥へと飲み込むことしかできない。
自分が綺麗だと思う顔がほんの十数センチ先にある。それだけで鼓動は早くなり、僅かに頬に熱が灯る。

「で? どうなんだ? 俺の顔って綺麗?」

言外に、答えをもらうまではこの状態を保ち続けるぞ、と言われた気がして、ひかりは降参の意味も含めて一度視線を切ってから小さく息を吐き出す。

「綺麗、です。青柳先輩のお顔は綺麗です」

これでいいですか、と再び視線を青柳の方へ戻せば、そこに在ったのは驚いたような、それでいて呆けているような、なんとも表現のし辛い表情を作った青柳の顔。感情が上手く読み取れず、ひかりは言葉に詰まってしまう。
重くはないが、かといって気まずくないと言えば嘘になる沈黙が長く続くかと思いきや、ひかりが瞬きをする間に青柳の表情は変わる。

「そうかそうか! 俺の顔は綺麗か!」

カカカと軽やかに、そしていつものように笑い、詰めていた距離を一気に開ける青柳に、ひかりは呆気にとられ何も言葉にすることができない。

「え? あ、はい……?」

けれどまるで一連のやり取りなどなかったかのような振る舞いは、ひかりの混乱を招くことも仕方のないことと言える。
薄く笑って、青柳はひかりと視線を交わらせる。その一瞬に、ひかりの心臓は大きく跳ねる。

「それじゃ、今日も一日頑張ろうかね。特待生、遅刻するなよ」
「――っ、」

青柳の去り際の言葉に、胸が詰まって咄嗟に言葉が出てこない。どんどん遠くなる背中を見つめることしかできないひかりの頬はいつもよりも少しだけ熱を持っていた。