一歩半目

ブレザーを傘代わりに
そういえば午後から雨の予報だったんだっけ、なんて昨日見た天気予報を今更思い出したところで後の祭りもいいところで。昇降口に突っ立ってぼうっと外を見る私の瞳にはしとしと降りの雨が映し出されている。
「……はぁ」
一つため息を吐きだす。それは誰に聞かれることもなく静かにこの雨の中に溶けていく。
今朝は起きた時間がギリギリだったということもあってばたばたしていて、傘を持ってくるのをすっかり忘れてしまった。それに加えて今日に限って折り畳み傘は鞄の中に入っていない。この間使って干して畳んだまでは良かったけれど、うっかりしていて鞄に入れ忘れてしまっていた。携帯せずして何のための折り畳み傘だ、と思わなくもないけれど、思ったところでこの状況を打開できるわけもない。
だけどいつまでもこうして突っ立ってるわけにもいかない。そろそろ覚悟を決めなければ。――濡れて帰る覚悟を。幸いにして今日はそこまで寒いわけでもないし、雨も土砂降りというわけではない。寮に帰ってすぐにお風呂に入らせてもらえれば風邪をひかずに済むかもしれない。
一つ、二つ、深呼吸をする。……よし!
一歩踏み出そうとしたところで、まるで待ったをかけるかのように背中に凛とした声がぶつかる。
「そんなところで突っ立ってどうかしたのか? 特待生」
その声に引かれるように振り返る。
「青柳先輩」
「どうしたぁ? 傘でも忘れたのか?」
「……はい」
私の苦い返事に青柳先輩も苦い笑みを作って応える。
「冗談のつもりだったんだがマジだったか」
「はい、マジです」
「てことは、傘がないから走って帰ろうってとこだったのか」
「はい」
「そこで即答してくれるなよ。悲しくなるだろ。まあ、でもその思い切りの良さは特待生らしいし、その心意気があるなら一緒に入ってくか?」
一瞬、何を言われたのか理解できなくてぱちぱちと二度ほど瞬きをする。
入ってくかってどこに? 何に?
「特待生?」
私が眉を顰めているものだから青柳先輩も首を傾げるしかないようで、どうかしたか? と目の前で手をひらひらと振られる。
「青柳先輩、入ってくかって、先輩傘持ってないじゃないですか」
そう、青柳先輩の手には私同様傘なんてものはなく。代わりに持っているのはいつも腰に巻いているブレザーだ。それなのにどうして青柳先輩は入ってくか? なんて問いを私に投げかけたのだろう。入るもなにも、入れるものなんて何もないのに。
けれどその疑問に対する答えはすぐに出されることとなる。
「ん? ああ、傘はないけどブレザーを傘代わりにしようと思ってな」
青柳先輩の返答に私はまたしても苦い返答をしてしまう。
「それは……かなり無謀ですね。ていうかそれ、頭しか守れなくないですか?」
けれどそんな私の返事に対し、「寮までだからいけるだろ」と、青柳先輩は変に自信満々な態度で自分の胸をトンと叩く。
そもそもブレザーに傘の代用が務まるとは思えないし、風で煽られて結局頭以外濡れることに変わりはない。むしろ腕を上げることによって無駄に疲れてしまうだけではないだろうか。仮に傘代わりになったとしてもブレザーの布面積じゃ青柳先輩と私、二人分をカバーできるとは到底考えられないし、どれだけくっついて歩いたとしても確実にどちらか、もしくは二人ともびしょ濡れになる未来しか見えない。
「それなら青柳先輩お一人でどうぞ。私は走って帰りますので」
「おいおい、目の前で濡れて帰ろうとする女の子を放っておけるわけないだろ?」
予想外に食い下がってこられて、一瞬言葉に詰まる。
青柳先輩、こんな時だけかっこいいこと言わないでください。
「私のことはいいですから先輩一人で帰ってください」
「そんなことできるわけないだろ」
私の言動に困った表情を作るも、それでも青柳先輩は引くことはしない。
結局私の方が根負けして、青柳先輩のブレザーを傘替わりにするものの、予想通りの結果に私と青柳先輩は一緒にびしょ濡れになりながら走って帰ることになった。

▼意外と寒い!

二人だけのコンサート
「青柳先輩! これ弾いてみてくれませんか!」
そう言ってピアノの練習をしている俺に特待生が差し出してきたのは十年余り昔に放送されたアニメのオープニング曲の楽譜。
なんだってまたこんな昔の曲を引っ張り出してきたんだか……。というかよくこんな昔の楽譜を見つけだしたもんだ……。
「ちょっと見せてくれ」
心中とは裏腹に、にこりと笑みを作って特待生の手からそれを受け取る。
楽譜に視線を落として一通り目を通す。
ふんふん、なるほどね。こりゃ即興で弾ける類じゃねえな!
どうしようかと悩みながら特待生の方を窺うと、そこには期待に目を輝かせた彼女の姿があった。それは普段は見ることができないような貴重な表情で、無碍に断ってしまってはなんだかもったいない気がするとさえ思わせるものだった。
それに今流行りの曲ではなくこの曲を選択したのは、彼女にとってこれがとても思い入れのある曲なのかもしれないと察せられる。
でも、じゃあ今の俺のレベルでこの曲が弾けるかと言うとそれは無理な話だ。練習期間を設けないとどうにもならない。練習したところで弾けるようになるという確証はないが。
「特待生。これは俺のレベルじゃ即興じゃ弾けないぜ?」
「そ……そうですか」
嘘をつく必要はないから正直に思ったことを口にすると、特待生はあからさまにしょぼくれてしまった。
しまった。そんな落ち込むとは思いもしなかった。
けれど一度口に出してしまった言葉はどうしたって戻せない。覆水盆に返らず、だ。だから続けて言葉を連ねる。
「時間を見つけて練習はしてみるよ」
「本当ですか!?」
沈んでいた太陽が昇るかの如く特待生の笑みが輝き、姿勢も前のめりになる。特待生の強い気持ちが見て取れるようだ。
よっぽどこの曲に思い入れがあるんだな……。
「特待生はこの曲が大好きなんだな」
ぼそりとこぼした独り言のような言葉に、特待生が「はい!」と元気よく答える。
「この前動画配信サービスでこの曲が主題歌になっているアニメを観たんですけど、もうめちゃくちゃ本編の世界観を忠実に再現していて、それにこれを歌っている方の声もとても綺麗で素敵で! 好きすぎて曲とサントラまで買っちゃいました!」
なるほど。特に強い思い入れはなかったけれど、特待生の好きという気持ちがビンビンに伝わってくるのがわかる。
「そうか、そりゃよっぽどだな」
「最近はずっとこの曲を聞いて、やっと歌えるようになったんですよ」
えへへ、と照れ笑いをする特待生。
ん? いまの、聞き間違いでないのだとしたら、特待生はこの曲が歌えるってことだよな? て、ことはあれができるんじゃないか?
「特待生この曲歌えるんだよな?」
俺の問いかけに特待生はキョトンと首を傾げつつも「はい」と首肯する。よし、それなら。
交換条件、というわけではないけれど。昔観たアニメ映画の真似事をやってみたい――という思いが湧き出てくる。むこうはヴァイオリンだったから本当に真似事、なのだけれど。
「一人でこの曲を練習するのもいいけど、隣で特待生が歌ってくれるともっとやる気が出ると思うんだが」
「え!? いや、私、そんな上手くないですし……」
特待生が顔の前で手を振って眉を下げる。自信のなさが思い切り前面に出てしまっている。そんな彼女になおも言葉を続ける。
「俺だってそんなに上手くないし、それにキャラソンは元より声優自身の歌手デビューなんて今のご時世ザラにあるんだから歌えなくちゃだめだろ? その練習だと思って付き合ってくれよ」
「で、でも……」
「特待生が練習に付き合ってくれたらやる気出るんだけどなー」
まあ、これは半分冗談。別に特待生が隣で歌ってくれなくても俺はちゃんと練習はするつもりだ。これもいつか役に立つかもしれないし、何事も経験だ。それに特待生の貴重な表情が見られたのだからその返礼という側面もある。
俺の最後の一言が相当効いたのか、特待生は難しい顔をしながらも「わかりました」と承諾してくれる。
「ありがとうな」
「い、いえ……お礼を言わなくちゃいけないのは私のほうですし」
やっぱりまだ自信がないのだろう。特待生の笑みはややぎこちなくて。
それでもこうして、言うなれば二人の秘密の時間ができたことに、俺は薄く笑みを浮かべた。
▼さー、やるぞ! もうですか!?

必殺メニュー、肉じゃが
コトコトコトコト。小鍋から立つ音や香りは空腹をどんどん逆なでする。
今すぐ食いたいけどあと少しだけ我慢だ、我慢!
逸る気持ちを抑え込んで、鍋から視線を外してくるりと首を後ろへやる。
「特待生、そこの棚から深皿とお茶碗とお椀を出してくれ」
「あ、はい!」
俺の指示に特待生は元気よく返事をして棚から指定された食器を出していく。この場にコスモがいないというだけで、なんだろう、この疑似新婚夫婦感は。めちゃくちゃテンション上がるな……。
だけど、恐らくこんなことを考えているのは俺だけなんだろう。特待生の態度はいつも通りだし。なんだかそう考えると少しだけ悲しくなる気もする。
ため息を吐き出しそうになって慌てて首を振って視線を鍋に戻す。
「それにしても今日に限って食堂が早く閉まるとはな」
言いながら別の鍋に湯を沸かし、そこに切った豆腐と油切りした揚げ、顆粒だしと味噌を入れて手早く味噌汁を作っていく。
「そうですね……。青柳先輩、すみません。レッスンに付き合ってもらっただけじゃなくて夕飯までご馳走になってしまって」
特待生の申し訳なさそうな声に、
「気にしなくていいぞ。それに俺は自炊することの方が多いからな。一人で作って一人で食うよりも誰かと一緒の方が美味いからな」
と返せば、特待生からは「はぁ……」とあまり納得のいっていない返事が戻ってくる。
特待生からしてみれば、迷惑をかけているという認識なのかもしれないが、俺からしてみればこんな美味しいチャンスを逃す手はないくらいの心持ちなのだ。せっかくコスモも出かけているのだから最大限この疑似新婚夫婦感を味わいたい。
こんなこと口が裂けても言えないのでいつもの通り軽口を言って、少しでも特待生の気持ちを軽くするよう努める。
「まあ、気になるって言うならお礼は特待生のパンツでいいぞ!」
「嫌ですよ」
そんな会話に花を咲かせていると、炊飯器から米が炊けたことを知らせるアラームが鳴り響く。ちょうど味噌汁も出来上がったのでそれぞれお茶碗とお椀に盛り付け、テーブルに運んでいく。今日の夜飯は肉じゃがと味噌汁と白飯。もう二、三品作っても良かったが流石に食材と時間の都合で割愛。豪勢な食卓とはいかないけれど、まあこんなもんでいいだろ。テーブルに二人向かい合って手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
特待生は行儀よく正座をして綺麗な所作でお椀を取り上げる。いつも一人か、それかRe:Flyのメンバーとしか飯を食わないからか、こうして特待生と二人でテーブルを囲むというのはなんだか緊張する。しかも特待生は行儀の良さが半端じゃない。箸運び一つとっても見惚れてしまう程だ。
こうして向かい合って飯を食ってるというシチュエーション、控えめに言ってもやばくないか? 自分の部屋に――いや、誘ったのは俺だけど、特待生がいる。改めてその事実が鼓動を早くさせる。
どこを見て食べたらいいかわからなくて視線を右往左往させていると、特待生が渋そうな表情を作りながら俺へと視線を投げてくる。
「青柳先輩? どうかしたんですか?」
「何がだ?」
「何って、さっきからお箸全然動いてないですけど」
「そんなことはないぞ」
努めて冷静に返したけれど、自分の前に置いてあるご飯も味噌汁も全く減っていないのだから説得力なんてものはなくて。特待生の指摘で初めて自分の箸が動いていないことを自覚する。
いかん、いかん。うっかり特待生との疑似新婚夫婦ごっこにドキドキしている場合じゃない。今は飯だ。
慌てて茶碗を持ちながら肉じゃがに箸を伸ばす。ほくほくのジャガイモが口の中で溶ける。よし、今日もいい出来だ。
「肉じゃが、とっても美味しいです!」
特待生の嬉しそうな声に視線を上げる。と、満面の笑みを浮かべた特待生がそれはそれは美味そうに飯を食っている。なんだかそれだけで色々と満たされてしまいそうになって慌てて視線を茶碗に落とす。
「こんな美味しいご飯を作れるなんて青柳先輩はすごいですね」
「なんなら明日も食いに来るか?」
ほんの冗談のつもりだった。――だけど特待生の瞳はなんだその名案は! と言わんばかりにきらきらと輝いている。
「い、いいんですか!? あ、いえ、すみません……」
「俺は構わないぞ。それに肉じゃがは作った当日よりも次の日の方が味が染みて美味いしな」
言いながら数秒前の発言を後悔する。
なんだろうな、特待生からしてみたら俺は異性――男ではなく飯作りが上手い人間と思われているのかもしれない。嬉しいような、悲しいような、複雑極まりない。本当に、疑似新婚夫婦だと思っていたのが自分一人だけだった――という、気付きたくなかったところに気付いてしまい一人ショックを受ける俺を余所に、特待生は飯を完食したのであった。

▼ごちそうさまでした!

いってらっしゃい、可愛い娘
昨日の夜、それこそ散々確認はしたけれど、やっぱり少しだけ不安な気持ちが残っていて。鞄の中に視線を落として忘れ物がないか最終チェックをする。
「えーっと、台本持った、お財布と鍵、ハンカチもある。飲み物もちゃんとある。よし!」
声に出すと不安感も一緒に出て行ってくれるようで安心する。鞄から視線を上げて今度は室内――主に窓を見回す。鍵がかかっていることを確認して、うんと小さく頷く。
戸締りもちゃんとしてあるし大丈夫!
自分に言い聞かせるように心の内でそう呟いてからドアに手をかける。廊下に出て、ドアに鍵をかけたところで背中に凛とした声がかかる。
「なんだ、特待生。どこかに出かけるのか?」
くるりと声の主の方へと振り返ると、そこにいたのはこっちの棟の寮生ではない人物――青柳先輩だった。
「はい、これからオーディションに行ってきます」
「そうか、気をつけてな」
「ありがとうございます。ところで青柳先輩はどうしてこっちの棟にいるんですか?」
「ん? ああ、ちょっと立夏に用事があって、な……」
そこで青柳先輩の言葉が変な風に途切れる。なんだろうか、と首を傾げると、青柳先輩は口元に手を当てて何かを考えるような素振りを見せる。その行動の意図がわからなくて更に首を傾げる私に、
「君、化粧してるよな?」
と青柳先輩は何かを確信したかのような声色で尋ねてくる。その問いに「はい」と簡潔に答えると、先輩の表情がぱあっと明るくなる。それはクイズに正解して嬉しいとでも言いたげで。
「そうか、そうか! 君は化粧をすると化けるな! うん、俺はいいと思うぞ!」
「えっと……ありがとう、ございます?」
「なんでそこで疑問形なんだ?」
私の疑問交じりの声に、青柳先輩も首を傾げる。なんだかその仕草が可愛くて笑ってしまいそうになるのを堪える。
「えっと、褒められてるのかわからなくて」
「褒めてるに決まってるだろ!」
他にどう捉えるんだ、と言わんばかりの表情に私は苦い笑みを漏らすことしかできない。そんな私の表情を見て、青柳先輩もまた変な表情を作って応える。
「特待生、あまり褒められ慣れてないのか?」
「そう、ですね。演技や声で褒められることはたまにあっても容姿で褒められたことは今まであまりなかったかもしれません」
「そうだったのか。じゃあ今後は俺が褒めまくってやろう!」
「え?」
予想外の返答に目を丸くする。
今の話の流れでどうしてそうなったの?
困惑する私を他所に、青柳先輩はにこにこと笑みを浮かべている。なんだろう、何か嫌な予感がしなくもない。というか確実にこれは――、
「いえ、あの」
断ろうとする私の声は青柳先輩によって遮られる。
「そういえばオーディションの時間はいいのか?」
青柳先輩の指摘で慌てて腕時計を確認する。すると、時計の針はもう寮を出なければ、というか少しばかり走らなければ間に合わない時間を指していた。
一瞬にして血の気が引く。オーディションを受ける身でありながら遅刻なんて言語道断。慌てて青柳先輩に頭を下げて、その隣を駆ける。
「自信持ってけ。君なら出来るぞ」
すれ違いざまに言われたその言葉がとても嬉しくて、私は一人頰を緩ませた。

▼天音ひかりです! 今日はよろしくお願いします!

スマイル一回
「いらっしゃいませー! って特待生じゃないか」
「……こんにちは、青柳先輩」
たまには食堂のご飯じゃなくてハンバーガーを食べようかとお財布と携帯電話を持って学校を飛び出した。けれどまさか今日が青柳先輩のシフトが入っている日だとは思いもよらず、たからハンバーガーに入店早々面食らってしまう。ぱちぱちと二度ほど瞬きをしてようやく脳が現実に追いついてくる。
「で、お客様、ご注文は? 俺のオススメはてりやきチキンセットだぞ」
「あ、じゃあ、それでお願いします」
「ありがとうございまーす! 今なら無料でスマイルもおつけできますよ」
ぱちんとウィンクをされてどきりと胸が鳴るのを感じる。
……え? あれ? 何で? 何で私、今、青柳先輩のウィンクでどきりとしたの?
自分の心の変化に疑問を抱くものの、それが何故なのかまではわからない。色々と考えたいことは山程あるけれど、ひとまずこのまま黙ったままも如何なものかと、そして気付けば後ろに何人か並んでしまっている状況に、自分のことは一旦保留にする。
「そんなサービスあるんですか?」
「君だけに決まってるだろ」
それは口説き文句なのか、それとも単に揶揄っているだけなのか。その判断がつかず、開いては閉じる私の口からは何の音も出すことができない。
「……おーい、特待生? シカトはなしだぞ?」
「シカトしてるつもりは……」
「それならいいが……。で? お客様、いかがなさいますか?」
いつも見ている青柳先輩から急に接客モードに入られると心が追いつかない。
「じゃ、じゃあ、スマイルもお願いします……」
「かしこまりましたー!」
青柳先輩のノリのいい返答の後に、にこりと浮かべられたのは営業スマイル――ではなく。今まで見たことがないくらい綺麗で、見惚れてしまう笑みだった。優しくて、それでいてかっこよくて、その笑みにまたしてもどきりと胸が鳴る。
「なんだぁ、特待生。もしかして見惚れちゃったか?」
どうしても「はい」とは言えなくて、結局私は俯くことしかできなかった。

▼特別な――君にだけ!
君に聞き惚れる
「愛してます……! 私には貴方しかいません!」
今日は特売日だから急いでスーパーに行かないと、なんて思いながら昇降口に向かうために空き教室の前を通ったときだった。誰もいないはずのそこから聞こえてきたのは特待生の声。てっきり誰かに愛の告白でもしているのかと思い、なんて間の悪い時にここを通ってしまったんだと一瞬後悔しかける。それと同時に、もしかしたら俺の知っている奴が特待生から告白をされているのかもしれない、と考えて、胸がぎゅっと締め付けられる。
特待生が誰のことを想っていようと俺が口を出していい理由にはならない。ましてや、告白しているところを立ち聞きするなんて趣味が悪いにもほどがある。でも、せめて――。せめて誰に向けて言っているのかを知りたくて、僅かに開いていたドアから中を窺うと、そこには彼女以外の姿はなく。先ほどのは告白ではなくただ単に一人で自主練をしていただけなんだ、という結論に至り、胸を撫で下ろす。
「お願いします! どうか、どうか私を貴方のおそばに……!」
思わず聞き入ってしまう。それくらい特待生の演技は魅力的で、力強くて、とても良かった。けれど俺の思いとは裏腹に、当の本人は自分の演技に自信がなさそうに、「ここはもう少し感情を抑えた方がいいのかな……」とこぼす。
ここで俺が乱入してよかったぞと言ったところで、それは意味のないことだと言うのは重々理解している。何せ俺は特待生の演じるキャラクターを全く理解していないのだから。キャラクターへの理解がない人間がいくら良いと言ったところで、演じる本人が納得しなければ仕方がない。だからここは黙って早々に立ち去るべき、なのに。
どうしても足が動かなかった。
もっと特待生の演技を見ていたい。声を聞いていたい。特売の時間が差し迫っているのはわかっているのに、それでも俺の足はこの場に縫い付けられたかのように動かない。聞き惚れるとはまさにこのことなのかもしれない。
「……お願いします。どうか……どうか私を貴方のおそばに……。うーん……さっきの方が良かったかな……?」
台本を左手に、ペンを右手に持ちながら特待生は首を傾げる――と、彼女が何かに気付いたかのような挙動を見せる。
「誰、ですか?」
彼女の視線がまっすぐドア――すなわち俺に向けられている。
しまった。見つかった。
俺が一歩足を引くのと特待生がドアを引くのは同時だった。
「……青柳、先輩」
「よう、特待生!」
わざとらしく明るく振舞っては見たものの、その後が続かない。数秒間を置いてから特待生がそっと口を開く。
「こんなところで何してるんですか?」
それは純粋な言葉だった。純粋に俺がここにいることに疑問を持っているようだった。まさか立ち聞きしていた、なんて言えるはずもなく。だけど咄嗟に上手い言い訳なんて思いつくはずもなく。
「偶然ここを通った時に特待生の声が聞こえたからちょっと足を止めただけだが?」
やけに説明口調になってしまったけれど、決して嘘は言っていない。偶然ここを通ったのも、特待生の声が聞こえたから足を止めたのも嘘ではない。聞き惚れていたことは恥ずかしくて言えなかったが。
「そうだったんですか! 誰かの視線を感じるなーとは思ってたんですが、青柳先輩でよかったです」
「……それはどういう意味だ?」
「え?」
俺でよかった、なんてどういう意図があって言ったんだ。散々下ネタばかりを言ってきてはいるが、俺にも恋心は存在している。もしかして――なんて勘違いしそうになるから、お願いだからそういう物言いはよしてほしい。
「どうして俺でよかったなんて――、」
しかし特待生の返答は俺の甘い期待を軽くぶち壊すものだった。
「あ、えっと……もしかしたら変質者かもしれないって思ってたので」
「は?」
「だ、だって、ずっとドアの向こう側でじっと私のことを見てる気がして……知ってる人なら声をかけてくれると思ったので……」
なんてこった。聞き惚れていたことが仇になった。
まあでも考えてみれば特待生の言うことは尤もで。そりゃあ、ドアの向こう側でじっと息を殺して見ていたら変質者と間違われても仕方のないところなのかもしれない。まあ、それはそれとしてショックは隠し切れないが。だからその想いを言葉に乗せる。
「そうかー。特待生は俺のことを変質者だと思ってたのかー」
「ち、違います! そんなこと思ってません!」
「冗談だよ。声もかけずにじっと見てて悪かったな」
「あ、いえ。私もなんかすみませんでした……」
「お詫びに飯食いに来るか?」
「いいんですか!?」
途端に特待生の瞳がきらりと光り出す。
おいおい、どんだけ俺の飯が好きなんだよ。まあ、悪い気はしないが。
悪い気はしないが、一応俺も男ですよ特待生さん? とはちょっと言えそうにない雰囲気だった。
「じゃあそうと決まれば俺はスーパーに行ってくるから特待生はこのまま練習してるか?」
「あ、いえ。ご馳走になるんでしたら私も行って荷物持ちします」
「ふつうそれは俺のセリフなんだが。まあ、いいか。そうと決まれば走るぞ特待生!」
「えっ!? ええ!?」
「あそこのスーパー、時間限定の特売品があるから急がないと間に合わない!」
「そうなんですか!? じゃあ急いで帰り支度します!」
俺の言葉を受けて、特待生は手にしていた台本とペンを慌てて鞄にしまう。ものの一分もかからず、特待生は帰り支度を終えて俺の目の前にまでやってくる。
「すみません! お待たせしました!」
「いや、そんな待ってないっていうか、身支度済ませるの早くないか!?」
「そうですか? 青柳先輩をお待たせするわけにもいかないので頑張りました」
純度の高い瞳に見つめられてまたも勘違いしそうになる。
待て、勘違いするな、俺。特待生はいい子だから人を待たせることを悪いと思うだけだ。決して俺だから、というわけじゃあない。
「よし、じゃあ行くか」
「はい」
気を取り直して特待生と視線を合わせる。特待生の方も顔を上げ、にこりと笑む。そうして俺たち二人はスーパーへの道を急ぐのであった。

▼今日の狙いはお一人様一パックの卵だ!

あなたに溶ける
いったいこれは何度目だろう。ベッドに押し倒されてもう数え切れないくらいのキスを交わして、潤んだ瞳で帝さんを見つめるも、情熱的な視線とかち合ってすぐさま恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。その間にもキスの嵐はやむことはなくて。ちゅ、ちゅ、と音を立ててくっついては離れて、を繰り返す。そしてそれは唇を合わせるだけのものから、徐々に深いものへと変わっていく。
「ん……っ」
「ひかり、口開けろ」
「ふ……ぁ、っ」
ぬるりと這入ってくる舌が歯列をじっくりとなぞり、私の舌を捕らえて絡ませてくる。粘着質な音とぞわりとする言い知れぬ感覚に身を震わせる。色々といっぱいいっぱいになってぎゅっ、と帝さんのシャツを掴むと、それがお気に召したのか帝さんは更に口腔内を蹂躙していく。
ようやく離された唇からは銀色の糸が一本つうと延び、プツンと切れる。それが官能的で恥ずかしくて目蓋を閉ざす。
「ひかり」
「な、なんですか?」
「目開けろって」
「恥ずかしいじゃないですかっ」
「開けなきゃもっと恥ずかしいことするって言ったらどうする?」
「……っ」
これ以上恥ずかしいことなんてされたら耐えられない。慌てて目を開けると、そこにあったのはにこやかな笑みを浮かべた帝さんの顔だった。
「ようやく俺の顔をちゃんと見たな」
「…………」
「ひかり」
咄嗟に視線を逸らしそうになった私にかけられるのは、優しくて甘い声色。艶やかで色っぽい表情と一緒に名前を呼ばれれば、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「大好きだぞ、ひかり」
「……っ」
「君は? 俺のことどう思ってる?」
ああ、もう。どうしてこういう時に限っていい声で訊いてくるのだろうか。ずるい。
私が帝さんのことを好きだというのをわかっていて、尚訊いてくるなんて意地悪以外の何物でもない。
「ひかり?」
僅かに首を傾げ、帝さんは私に答えるよう促してくる。その熱い視線に耐えられなくて下唇をきゅっと噛んでから、それでも素直に言うことができなくて小さな声で言葉を紡ぐ。
「…………です」
「ん?」
「私も、大好き……です」
「そうかそうか! それは嬉しいな」
言うや否や帝さんの顔が急接近。ちゅっと小さなリップ音が鼓膜を震わせる。すぐに離れてしまった唇に、ほんの少しだけ寂しさを感じてしまったのは絶対口には出さないようにしよう、と心の内で誓った。

▼いつだって、君が一番

言質取ったり
「今日は一緒に風呂に入ろう」
大真面目な顔をして――しかもとてつもなく良い声で、帝さんが投げかけてきたそれは私の眉間に皺を寄せるに足るものだった。どうして、もなんで、も問いかけたところでおそらく意味はない。だから私は卒直に思ったことを口にする。
「嫌です」
私のはっきりとした拒否の言葉に、帝さんは顔色ひとつ変えずに「どうして?」と追撃をかけてくる。
「どうしてって、恥ずかしいじゃないですか」
「なんで恥ずかしいんだ?」
「だ、だってお互い裸だし……」
「何言ってるんだ。昨日散々愛し「言わなくていいです!」
昼間からなにを言っているのこの人は! 昼間じゃなくてもそういうことは口に出さないで欲しいけれど。
「いいじゃないか。な? ひかり」
じりじりと帝さんが距離を詰めてくる。それに連動するように私も一歩、二歩と足を引き後退する。数歩下がったところで壁に行き当たり、退路が無くなってしまう。どこへ逃げよう、と考えている間に、帝さんの手がこれ以上は逃がさないとばかりに私の顔の真横へと置かれる。それは所謂壁ドンと似たような状況で、漫画やアニメの中でしかあり得ないだろうと思っていた状況に私の胸は大きく高鳴る。
「帝、さ……」
「ひかり」
どんどん近づいて来る帝さんの顔。キスされる、と身構えてぎゅっと目蓋を閉ざす。けれどいつまで経っても唇に当たるものはなく。不思議に思ってそっと目を開けると悪戯っ子のような帝さんの表情が飛び込んでくる。
しまった……。これはやってしまったかもしれない。
「キスを期待してたか?」
「……してませんっ」
図星を突かれて、ふい、と視線を逸らす。けれどそれがむこうの悪戯心に火をつけてしまったらしく、
「嘘つきな君にはこうだ!」
と、私の脇腹を擽りにかかる。
「ふ……っ、あ、ははは! ちょ、やめてくださ、っ」
「一緒に風呂に入るって言うならやめてやる」
「なんっ、それとこれとは関係ない……っ、あははっ」
「ほらほら、早く言わないとずーっとこれが続くぞ?」
帝さんの擽りの巧さはまるでプロのようで――擽りのプロなんているかどうかわからないけれど、とにかくこの辛さと一緒にお風呂に入る羞恥とを天秤にかけた結果、傾いたのは僅かに後者の方だった。
「わか、わかりましたっ! 入るっ、入ります!」
「ほんとだな?」
「ほんとです!」
「よし、言質取ったからな」
ようやく止められた擽りに、疲れが一気に全身を襲う。へたり込みたいけれどそれよりもまず一つ約束をしてもらわなければ。これを守ってもらわなければ今後は絶対一緒にお風呂には入らない――と強く心に決めて、帝さんをじっと見つめる。
「い、一緒には入りますが絶対変なことしないでくださいね!」
私の半ば叫びのようなお願いに帝さんはあっさり首肯する。
「ああ、わかった。風呂では何もしない」
では、のところをやけに強調された気がするけれど、気のせいだと思いたい。……気のせいですよね?
「やーひかりと風呂! 楽しみだな!」
これでもかというほどの笑顔を浮かべた瞬間、帝さんの顔が急接近してきて、私の唇を奪う。ちゅ、という小さなリップ音が鼓膜を震わせて、今度こそ私はへたり込んだのだった。

▼不意打ちもやめてください!

宝石のような、
「帝さんの瞳ってすごく綺麗ですよね」
「そうか?」
恐らく、ひかりからしてみればなんて事のない話題だったのだろう。現に彼女は俺のことをじっと見つめるものの、特に意識している様子は見られない。逆にその落ち着きぶりによってだんだん俺の方が意識してそわそわしてしまう。
付き合い始めた頃は俺が見つめると頬を染めて恥ずかしそうにしていたのに、今じゃ立場が逆転してしまって、俺の方が堪えきれなくて視線を外すことさえあるほどだ。慣れなのか、それとももう俺にときめくことがないのか。仮に後者であった場合、ショックを隠しきれそうにない。
「宝石みたいでずっと見ていたいです」
ふふ、と笑うひかり。その笑みは余裕そのもので、そしてそれは崩したいと思うそれでもあって。ぐっと顔を近づけると、驚いたひかりが身を引く。けれどその体を逃がさないように腰に右手を回して、空いた左手は彼女の右手を取る。
「なあ、ひかり?」
「なっ、なん、ですか?」
徐々にひかりの体を引き寄せて距離を詰めていく。これから何をされるかわからない、と言いたげの瞳をまっすぐ覗き込んで口角を上げる。
「ずっと、見ていたいんだろう?」
「――っ、ち、近い……! 近いです!」
非難の声を聞かなかったことにして、なお距離を詰めていく。もうあと少しで唇が触れてしまいそうな距離。じっと。まっすぐ。ひかりのブラウン・ダイヤモンドを見つめ続けていると、とうとう堪えきれなくなったのか、彼女の瞼がぎゅっと閉ざされる。これ幸い、とちゅっと桜色の薄い唇へキスを落とす。反射的にひかりの瞼が開き、頬が瞬時に紅く染まる。
「なっ……、な、に……」
「君の唇がキスしてくださいって言ってたからな」
「言ってないです!」
「そうか?」
とぼけたように首を傾げると、ひかりは付き合い始めた時のあの、余裕がなさそうな表情を浮かべて視線を定めきれずにあちこちへ飛ばしている。これが見たかったんだよなぁ、と零せばひかりからはこの日一番の非難の浴びることとなった。

▼もう! もうっ!

お休み前の
「ひかり、明日何食べたい?」
「久しぶりに肉じゃがが食べたいです」
所謂ピロートークと呼ばれるような会話のはずなのに、情事後とは思えない出だしに笑ってしまいそうになる。と言っても、別に艶やかな雰囲気の話をしたかったわけではないし、むしろその類の話よりかは明日の献立の話の方が私としても話しやすいからありがたい。それに、明日は帝さんが料理当番の日なので、献立を考えるという意味ではこの会話はすごく重要だ。何せ、この会話如何によっては仕事後に買い物をするかしないかが決まるのだから。
「肉じゃがか……。じゃあ肉買わないとだめだな」
「冷凍庫に無かったでしたっけ?」
言いながら、冷凍庫の中身を思い出す。けれど鮮明に思い出せるのはアイスがあったなぁ、というただそれだけ。それ以外何があったっけ? と僅かに首を傾げると、帝さんから「無かった気がするんだよなぁ」と自信なさげな声が聞こえる。
「じゃあ、明日私買って帰りますよ。午前中で終わる予定なので」
「いいのか? 料理当番は俺だし、明日は夕方までだからなんなら見切り品とか狙ってもいいんだが」
「いいですよ。それに帝さん、明日の現場は比較的時間が押すって言ってたじゃないですか。それなら確実に買いに行ける私が行った方がいいですし、遅くなるようだったら当番代わりますよ」
「さすがにそこまで時間が押すことはないと思いたいが……いやぁ、でもどうだろうな」
うーん、と唸る帝さん。先週、同じ現場で同じお仕事をした時は確か帰ってきたのが二十時を超えていた気がする。夕方までのはずだったのに、と苦い顔をしていたのをよく覚えている。帝さんだって買い物に料理当番に、と帰宅時間を気にしながらそわそわお仕事をするのは嫌だろうし、それなら確実に、押しても午後一番くらいで終わる私が買い物と料理をした方が帝さんだって安心できるはず。
「私なら大丈夫ですよ」
「じゃあ、頼んでいいか? すまん」
帝さんの申し訳なさそうな声に、そんな気にしなくていいのにと思いながらも返す。
「お安い御用です」
「埋め合わせはするから」
「じゃあ今度お茶に付き合ってください。最近、近所にちょっといい感じのカフェができたのでそこに行ってみたいんです」
「わかった」
緩やかで、心地が良い空気。自然と笑みがこぼれる。
いつまでもこれが続きますように――、と願いながら私は瞼を閉ざした。

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